賽は投げられた・其の七
今日はもう寝よう。
そう思って布団を貸してもらおうと立ち上がった。
今日泊まるということは、明日も一緒にいれるわけだし、明日の朝食はキッチンを借りて自分が作ろうと李典は考えていた。何を作ろうか、と少し楽しくなって曹仁の酒量も注意するだけにする。押し入れから布団を出そうとすると、曹仁に止められた。李典は自分よりも頭一つ分近く大きな曹仁を見上げると、首を傾げる。曹仁がこちらをじっと見ていたのだ。何かおかしいところでもあるのだろうか、と居心地悪くなりかけた時、予想しなかった、いや、想像はしていたが諦めていた事態が起こった。
──つまり、曹仁に、押し倒された。
李典が横たわるのは、いつも曹仁が使っているだろうベッドだ。そして目の前には眉間に皺を入れて口を引き結んでいる曹仁がいる。その状況を頭で理解して、李典は小さく息を飲んだ。頬が、赤くなる。
「……曹仁殿、何をなさいますか」
思った以上に、李典は平静な声を出せた自分に驚いた。片方の手首は、曹仁の分厚い手に掴まれている。喉が渇いて引きつりそうだった。
「何って、お前」
曹仁の声も硬い。自分と同じように緊張しているのだろうかと李典は思った。ならば、この行為は、想像しているもので違いないのだろうか。
「……間違っていたら殴っていいとおっしゃいますが、何が間違っているというのですか。はっきりおっしゃってください」
「だから、その、何だ」
曹仁の日に焼けた浅黒い肌も赤く染まっていた。その様子に李典はどうしようもなく胸が締め付けられる。これは、もしかして、本当に。すっかり諦めていたのが、ここで逆転なるのか。
「曹仁殿」
内心、焦る気持ちをひたすら抑えながら問いかける。こういうことに長けた者ならば、何か、一歩踏み込めない相手を誘うような行為ができるのだろう。しかし李典にはそういった芸当はできない。色気なぞない。だから、まっすぐに相手を見ることしかできなかった。
「…………だから、ええい、くそっ」
視線を彷徨わせていた曹仁が、苛立ったような声を上げた。それは李典に対してではないようで、手首を掴んでいた手を離したかと思うと両手で強く顔を包み込んできた。え、と声を上げた時には、唇が塞がれていた。
「ん、ぁ、ふ」
一度僅かに顔を離し、それから再び啄むように口づけてくる。そして驚きになすがままになっていた李典の唇をもう一度塞いできた。舌先がゆるりと入り込み、李典の舌を撫ぜる。その感触に背中がぞくりと泡立った。
「…………そ、そう、じん、どの」
自由になっていた手を思わず曹仁の腕に押し当てる。そのまま口づけられていたら、あっという間に流されてしまいそうだった。実際、既に流されかけていた。気持ちが良くて、たまらない。しかし、その前に一つ聞いておかねばならない。
「……曹仁殿、何をなさるおつもりですかと、聞いたはずです」
「この状況でまだ聞くのか」
「分からないわけではありません、ですが、その、……宜しいのですか、本当に」
「何?」
曹仁は李典を見下ろしたまま眉を跳ね上げる。いかつくて髭もしっかり生やしていて、どこからどう見ても立派な成人男性で、だというのにこの状況に耳まで赤くなっているだろう自分を李典は自覚していた。しかも部屋の明かりはついているため、その様子は曹仁の目にも映っている。
「口づけるまでなら大丈夫でも、実際、行為に踏み込むと駄目だということもありますでしょう。特に、曹仁殿はついこの間まで、同性ととは考えてなかったでしょうし」
「……それはお前もだろうが。……それとも何か、まさか」
「ありません。あってたまりますか。私も同性は初めてです」
「……すまん」
強い口調で言い返すと、曹仁はすまなそうに謝罪した。
「ですが、私は多分、大丈夫です。でも、曹仁殿は」
「…………」
曹仁は口を引き結んで黙り込んだ。考えている。やはり無理か。先ほどまでの展開ならば、勢いでいけたかもしれない。だが、その勢いに任せても、途中で体が拒絶してしまったら心理的にダメージが大きいだろう。何より、なるべくならば、お互い納得したい。曹仁に自覚を持って、曹仁から自分をほしいと思ってもらいたいと、李典は考えていた。
「……俺も、一つ、聞きたいことがあるんだが」
「はい」
胸の奥に、ごとりと重苦しいものが押し込まれた気分になる。何を言われるのかと不安になった。
「その、な、お前……このままで、いいのか?」
「え?」
「お前だって男だろう。以前はちゃんと女と付き合っていたし……」
視線を横に逸らし、言いよどむ。何やらはっきりしない。
「このままでも、本当にいいのかと、思ってな」
「……どういう意味ですか? 同性ですることならば、私は大丈夫だと、申し上げたはずですが」
「いや、そうじゃなくて」
もごもごと口の中で言い訳のような、うまく言葉にできないような、そんなことをぶつぶつと曹仁は言っている。
「はっきりおっしゃってください、曹仁殿」
わずかに苛立ちを覚えて言った。何が言い難いのだろうか。先ほどまでの甘いような空気がどこかへ行ってしまっている気がするが、ここははっきりとさせておいた方がいいだろうと判断する。
「……だから、このまま、俺がお前を抱いてもいいのかと聞いとるんだ!」
やけくそ気味に言われた言葉に、李典は呆気にとられた。
「お前も男だし、やはり抱かれるより抱く方がいいんじゃないかとか思ったんだ、だが、俺はお前のことは好いているが、さすがに女役は」
ああ、なるほど、そういう意味か。
李典は続けられたセリフに合点がいった。何を言いよどんでいるのかと思えば。いやしかし、男同士であるなら確かにその可能性もあるわけだ。しかし今までの状況や、この様子を見て、分かるだろうに。自分が攻めたいと思うならば、最初からその意思表示はする。
「……ずっと、それを気にしておられたのですか」
「悪いか!」
「…………いえ」
生真面目に、そんなところを気にしているとは。しかし、それだけ、自分のことを考えてくれたのだろうと思うと、嬉しかった。李典は小さく笑いを零す。
「何を笑っとるか!」
「す、すみません、まさかそんなことを気にしておられるとは、思っても、みなくて」
「そんなこととは何だ、そんなこととは! おい、笑うな!」
ツボに入ってしまって、李典は曹仁の下にいながらも、笑いを堪えるように横を向いて身を縮める。曹仁は顔を赤くしながら照れを隠すように李典の首に腕をからめて後ろから絞める。
「あは、ちょ、苦しいですよ」
笑いながらも、ぎゅうぎゅうと絞めてくる曹仁の腕を掴む。
「人が真剣に考えとったことを笑うからだ!」
「はい、分かってます、馬鹿にしてるとかそういうのではなくて、何と言うか、その、可愛らしいな、と」
その発言に曹仁が固まる。おや、と笑いを収めて李典は視線を後ろへ向けた。
「──誰が可愛いだ! やっぱり馬鹿にしとるだろう!!」
「そ、曹仁殿、苦しい、苦しいです、力強すぎます!」
「あ、す、すまん」
絞めていた腕を緩められて、李典は息を吐いた。自分から見ても惚れ惚れする太くて逞しい腕が傍にある。
「…………馬鹿になどしておりませんよ。私のことをしっかり考えてくださったのでしょう。ありがとうございます」
「………………」
横向けに二人横たわっている。後ろに曹仁の体があった。先ほどまで首を絞めていた腕は、今は所在無げに曹仁の腰のあたりにいるようだった。
「……しかし曹仁殿は、正直な方ですね」
「何?」
「この状況でそういうことを聞いて、しかも、受け入れる側は無理だなんて、下手をすればそこで終わりですよ。とはいえ、どんなことであれ、いくら好いていても受け入れられないことは少なからずあるでしょうから、それを相手に伝えるのは悪いとは思いませんが」
「………………」
「私にも、曹仁殿が良くて、私が駄目なものがおそらくあるでしょう。その時ははっきりと言います。言いますが、そこからどうするかを一緒に考えたいと思うのですが、どうでしょうか?」
「……そうだな。あれが駄目、これが駄目、で終わっとったらいかんか……」
「はい。お互いの妥協点や、そのあたりを話した方がいいと思います。……もっとも、今回の場合は、その必要はありませんが」
心臓の音がうるさい。背中を向けている状況で良かったと李典は思った。
「ご安心ください。曹仁殿のなさりたよういになさってください。……受け入れますから」
言った。言い切った。僅かに曹仁が身じろぎしたのが分かる。それからしばらく沈黙が下りた。李典は身を硬くしながら、曹仁の次の行動をひたすら待った。腕が伸び、李典の腰を掴んで引き寄せた。
「……いいのか?」
すぐ後ろ、耳元でで声がした。いつも聞いているはずの声だというのに、ぞくりと背中を撫であげられたようだった。ぐっと腹の底に力を入れて何かを耐える。
「はい」
「だったらこちらを向け。背中を向けたままでは、何もできんだろうが」
「何もできないのですか、本当に?」
「お前な……」
すると、曹仁が不意に体を起こし、横を向いていた李典の体を改めてベッドに仰向けに押し倒す。眉間に皺が寄ったまま、少し口を引き結んで、体が覆いかぶさってきた。唇が重なる。
「…………ん、ぅ」
「……するぞ」
「……はい」
頬に当てられた手が、酷く熱かった。
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暗転。
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