真赤―まそほ―

賽は投げられた・其の参



 約束の金曜日が来た。
 初めて曹仁の部屋へ行くので、李典はそれなりに緊張していた。だが、違う意味で諦めも入っていた。約束をした時の曹仁の態度からして、わざわざ週末の夜を選んだ意図には全く気が付いていないだろう。とはいえ、自分自身でも、週末の夜に約束をしたからと言って、そう簡単に事が運ぶとは思っていない。だが、今の状態よりは進めるんじゃないだろうか、と思ったのだ。だが、曹仁はまるで親しい友人を誘うかの如くあっさりとしていた。何の反応も見せなかった。気が付いていて、あの曹仁が何の反応も見せないわけがない。だからおそらく、この約束も本当に手料理を食べさせてもらうだけだろう。
 「………………」
 しかし、状況によっては勢いで持ち込めるかもしれない。その機は逃さないようにしよう、と密かに李典は決めていた。
 だが。
 「李典、仕事が終わったら待っていろ。車に乗せていってやるから」
 「はい」
 曹仁が少し周りを見回してから言ってきた。その様子に、おや、と李典は思う。
 どこかぎこちない。
 「………………」
 全く気が付いていないのなら、わざわざ周りを気にすることを曹仁はしないだろう。付き合っていても、ただ手料理を食べるだけならば、そこそこ親しい間柄なら特におかしくはない。だが、曹仁は少し気にしている様子だった。これはもしかして、気が付いたのだろうか。
 「……いや、まだ分からないか」
 一人呟く。曹仁の鈍さは身をもって知っているので楽観視してはいけない。
 「何が分からんのだ?」
 不意に背後から声をかけられた。李典はぐっと息を飲み込んだが、驚いた様子を表に出さないように振り返る。
 「社長」
 「おう。朝から仲がいいな」
 「……ただ一言交わしただけですよ」
 曹操は曹仁と李典の関係を知っている。何せ、李典に告白された曹仁の背中を蹴飛ばして向き合わせたのは曹操自身だ。しかも、身内がそういう付き合いをするのに、普通は多少なりとも複雑な反応を見せるものだと思うが、曹操はむしろ楽しむかのように容認している。こんな風に、李典の方が周りを憚るように気を使う。
 「今日、子孝と約束があるのだろう?」
 「……曹仁殿が言ったのですか?」
 「まぁ、言ったと言えば結果的にはそうか。いや、なに。今日、他の者たちと一緒に飲みに行こうと思っていたのだが、子孝の奴は予定があるから駄目だと言ってきたのでな。理由を聞けばお前との約束だそうだ」
 納得する。
 「李典よ、子孝が鈍いのは知っていると思うが、頑張るのだぞ」
 「………………何をですか」
 肩を叩かれながら力を込めた声で言われる。この人はどの辺りまで知っているのだろうか。曹仁が細かにそんなことを話すとは思えないが、曹操は観察眼が優れている。そして洞察力もある。でなければ一代で社長なぞになれるわけがないのだが、それにしても筒抜けのようにすら思えた。
 「まぁ、アレはスイッチが入るととんでもないからな。頑張りすぎて返り討ちにならんようにな。いや、そっちの方がいいのか?」
 「スイッチって」
 「吹っ切れるとでも言うのかな。そうなると昔からアレは恐ろしいほどの実力を出すぞ。仕事でも、あやつはもともと力はある。だが、普段は短気と短慮が少々災いして、詰めが甘くなる。お前も十分承知しているだろう?」
 確かに。何かがきちんとあの人の中で納まると、こちらがフォローすることもなく仕事を片付けてしまうときがある。その上こちらのフォローすらしてくるのだ。そういう時は本当に頼り甲斐があるのだけれど。
 ……しかしそれは、仕事だけでなく、私生活でもそう言える。告白して、返事をもらった時がそうだ。その時を思い出して、李典は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
 「うん? 何を思い出した?」
 「いいえ、何でもございません」
 にやりと、いたずら好きの子供のような視線の曹操から、李典は俯いて逃れる。
 「それでは、私はこの辺で失礼します」
 「ああ、呼び止めてすまなかったな」
 「いいえ」
 一礼をして曹操に背を向ける。
 「李典」
 「はい」
 だが、再び呼び止められて、李典は振り返った。曹操が至極楽しそうな笑みを浮かべている。
 「うまくやれよ」
 「…………失礼致します」
 何を。とはもう聞けなかった。





前頁次頁



楽しそうです社長。

戻る

designed