告白・其の六
李典に口付けた。
────その額に。
「──────」
顔を離すと、李典が目を丸くしてこちらを見上げていた。それに気恥ずかしくなって、口をへの字に歪め、眉間に皺を寄せる。
「……何て顔をしているんだ、お前────」
は、と続けようとしたとき、突然左頬に衝撃が走った。李典に殴られたのだ。体が少しよろけて、一歩後ろに下がるが、倒れはしなかった。頭のどこかでこうなる事を分かっていた気がする。痛みに顔を顰めながら李典を見ると、肩を怒らせ、眉を吊り上げ、そして顔を真っ赤にしながら李典は憤っていた。
「い、きな、り、何を────」
ぶるぶると拳が震えていた。その姿を見て、曹仁は奇妙に冷静でいる自分に気がつく。口の中が少し切れたな、と舌先に血の味を感じながら思った。
「すまん」
謝った。だが頭は下げない。李典は眦を吊り上げたままこちらを見上げている。
「すまん、て、何ですか。いきなりしておいて、何ですかその台詞は。しかも額って、中途半端にもほどがある……」
後半は俯いて、ほとんど呟きだった。だから素直に思った事を口走ってしまった。
「口でも良かったのか?」
「ッ!!」
息を飲んだかと思うと、今度は平手打ちがまた左頬を襲った。いっそ小気味良いほど軽快な音が響く。殴られた痛みよりも痺れる痛みが後を引く。
「……すまん」
今度は明らかに失言だったと反省する。李典は怒りを無理矢理静めるように大きく息を吸い込んで吐き出した。だがその双眸にはまだ火がくすぶっている。
「……何故、このような事をなされたのですか。例え上司殿と言えど、冗談やからかいでしたら本気で許しません」
「冗談やからかいではない、それは言える」
「では、何ですか。……あなたは、私があなたをどう想っているのかご存知でしょう。それなのに……」
「だからだ、かな」
「え?」
李典が訝しげに声を上げた。曹仁は左頬を右手で軽くさすりながら、李典を見ずに言う。
「お前に言われて色々考えた。結局今も答えは出ておらんのだが……少し、確かめたかった」
「何をですか」
李典を見た。まだ顔は赤い。
「……お前を受け入れられるかどうか」
「──────」
ぴたりと固まった。信じられないものを見るように、李典は息を詰めて曹仁を見上げていた。
「不思議な事に、俺はお前に告げられていやだとは思わなかったんだ。ただ困惑だけでな。だが、改めて考えてみたが、『男』と付き合う選択肢は選べない。むしろ、ない。しかし『お前』相手だと、答えが出ない」
「……何ですか、それは」
「俺にも分からん。お前は誰が見ても間違いなく立派な男なのにな」
半ば、自分に呆れたようなため息を曹仁はついた。
「……それで、まぁ、もしお前と付き合ってみたら、というのを考えた。……今と対して変わらんのじゃないかと思った」
何故だろう、あれだけうだうだと悩んでいたのに、今はさっぱりとした気分だ。吹っ切れたような。それはやはり、先ほどの行為のせいだろう。
「だが、興味本位で付き合うのはお前に対して失礼だろう。だから、男相手にキスが出来るもんかと確かめてみたんだ。額なのは、何だ、いきなりは、ちょっとな」
「………………変なところで順を踏む方ですね」
曹仁の言葉を聞いてから、李典も小さくため息をつき、俯いてぼそりと言った。
「変なところとは何だ、いきなりだったらお前、絶対拳骨一発ですまなかっただろう」
「当たり前です、当たり前じゃないですか。私はあなたの事が」
そこでぴたりと言葉が止まった。治まり掛けていた顔の赤さが、再び増したように見えた。それを見て曹仁も、居心地の悪さに顔の熱さを感じた。
「……それで、どうだったのですか」
「ん?」
「ですから、私に……して、どうだったのだと聞いているのです」
李典は俯いたままこちらを見ない。照れている。同時に不安そうでもあった。むくりと、胸の内で何かが湧き上がる。こういう顔も、するのか。
「………………」
「曹仁殿?」
「いや、………………よく、分からん」
「は?」
口元と顎を片手で押さえ、考えるように曹仁は言った。李典は思い切り眉を寄せる。
「額だったからか、何ともなかったと言うか、うん。違和感は、なかった」
「………………何ですかそれは……」
李典がまたため息をつく。今度は呆れたような様子だった。それから、顔の赤さが気になるのか、手の甲を頬に当てて、伏目がちに視線を横へ流した。目元も赤く染まっており、普段冷然としている様子と大分違った。
「……もう……もう、いい加減にしてください」
「何?」
「曹仁殿が真剣に考えてくださっているのは分かりました。ですが、分からないばかりなら、もうやめてください。こんな事までして……冗談のつもりがなくても、あまりに無神経です。ご自分の事しか考えておられない、身勝手な行動です」
目を瞑り、怒りと苛立ちを滲ませた声で李典は言った。非難されている。だが、それに対して怒りは湧いてこない。しかし、申し訳ない、という気持ちも湧いてこなかった。
「……自分で蒔いた種ではあります。黙っていれば曹仁殿を悩ませる事はなかった。言ってしまった自分が馬鹿でした。分からないのであれば、もういいです。ご迷惑をおかけしました。私の言った事で悩ませて、仕事に影響が出てはいけませんから、これでやめましょう」
「お前、言っていることが矛盾しているぞ」
「どこが矛盾ですか。曹仁殿の行動が身勝手なのは事実です。でも、そんなふうにさせてしまったのは自分の安易な行動が一因でありましょう。個人の感情を仕事の場に持ち出してはいけない。そう影響が出る前にやめてしまうのが得策です。だから」
「李典」
腕を掴んだ。李典がようやく顔を上げた。目はいつもの如く冷静だった。感情が高ぶって自棄になっているわけではない。冷淡なほどに割り切った視線だった。
「……このお話は、これで終わりにいたしましょう。もう気になさらないでください、曹仁殿」
は、とため息をついてそれから苦笑した。本当にそれでやめよう、という気配が李典からした。その事に曹仁はじり、と腹の底が熱くなった。
「人の話を聞け、李典」
「曹仁殿の口からそう言われるとは思っておりませんでした。普段は曹仁殿のほうが話を聞いてくださらぬのに」
普段の、会社での会話だ。先ほどまでの気恥ずかしい気配が微塵もない。まるでこちらを無視しているようで曹仁はかっとなった。
「茶化すな」
「茶化してなどおりません。いつも私の言葉を聞かず先走ってしまうのは曹仁殿ではありませんか」
「確かにそうだ、だが今は、お前が先走っているだろう」
「どこがですか」
平然と言い返した李典の腕を、曹仁は強く引っ張った。不意を突かれた恰好で、李典は前につんのめった。懐に落ちてきた李典の顎を掴むと、上に向けさせる。痛い、と李典が呻いたのを無視して、曹仁はその口に自分のものを重ねて塞いだ。
「………………ッ」
体が跳ね、次いでもがきだした。腕の拘束から逃れようと力を込められたが、曹仁は離さなかった。もう片方の腕は曹仁の体を押しのけようと突っ張っているが、足を踏み込んで、李典の体を資料の棚に押し付けた。顎を押さえていた手を滑らせ、耳元と後ろの首筋に指を回してしっかりと掴む。言葉にならないくぐもった声を李典は上げていたが、全て無視して口付けた。
体格差を活かし、李典の身動きを封じる。そのままでいると、次第に抵抗が少なくなる。伏せられた睫毛がほんの僅かに目元をくすぐった。力が抜けていくのが分かる。体を押し付けたまま、顔を少しだけ離した。
「………………何を、するんですか」
痛々しい、怒りを滲ませながらも今にも泣き出しそうな顔だった。
「お前が人の話を聞かんからだ」
「……………………まさか、私を受け入れる、とでも?」
「そうだ」
低い声の質問に、曹仁は短く答えた。李典の目がまた大きく見開かれた。だが、すぐに眉を寄せて苦悶の表情をする。
「先ほどまで分からない分からないと言っていたのはどなたですか。何故ここでその答えが出るのですか」
「確かに分からんとは言ったが、その後で、違和感はない、と言っただろうが。つまり俺は、お前にそうする事に嫌悪はないという事だ。冗談でもふざけていても、受け入れられんのであれば違和感はあるもんだろう」
「………………ですが、曹仁殿は……そう、多分、流されているだけです。曹仁殿は短気ですが人が良いから、私が想いを告げて、その答えを催促したから、何とも思ってなくても、そう考えてみようかと、流されているだけです。私を嫌ってはいなかったから、それでもいいかと流されてしまって、そう錯覚しているだけです」
「お前な、自分で告白しておきながら、錯覚って、何だそれは」
「人は気持ちを勘違いしやすいんです、その勘違いで一緒になって、結局うまくいかなかった、なんて事はたくさんあります。曹仁殿もきっと、悩みすぎてそう勘違いしているだけです」
まるで、李典に告白された当時、困惑していた自分のような状況だと曹仁は思った。ありえない、と否定して、現実から逃げているような。あの李典が。しかし、そう言われてしまうと、自分は流されたのだろうか、と考えてしまう。異常な興奮状態や危機的状況に陥ると錯覚しやすいのは知っている。確かに今、それに近しいものがある。けれど、こうなる前に自分は、李典と付き合うことを想像して、悪くない、と思っていた。つまりはそういうことだ。
「……お前は、きっちり黒か白か分けたいんだな」
「……あやふやなままでは、いつか誰かが傷つきます。不誠実な曖昧さは一番良くないと思います」
冷静で慎重な、李典らしい答えだった。く、と曹仁は笑う。
「だったら、もう一回するか?」
「え?」
「舌は噛んでくれるなよ」
そう言うと、曹仁はもう一度、李典に口付けた。今度は深く、舌を潜り込ませる。入り込んでいったぬめった柔らかいものに李典は体を硬直させるが、しばらく口内を舌先でゆっくりとなぞってやると、だんだんと強張りをといていった。
重ね合わせ、滑らせると、時折小さく水音が鳴る。気持ちがいい、と素直に曹仁は思った。されるがままだった李典の舌が動いて、怖々と絡んでくると、逃げないように吸い付いた。くぐもった、鼻にかかったような声が上がる。その声に、ぞくりと背筋が泡立った。
ひとしきり口付けを交わして離すと、李典は塊のような熱い呼気を漏らした。口元を手の甲で押さえ、俯く。耳まで赤い。その表情は曹仁の何かを刺激する。普段が普段なだけに、こういう表情もするのだと知ると、それをもっと見たくもあった。
「……お前」
「……何ですか」
ぶっきらぼうな声だった。
「いや、……意外と下手だな」
「なっ」
自分の顎に手を当てて、思い出すように唇を舐める。
「もう一回していいか」
「……下手なのでしょう」
「それでもいい」
顔を近づければ、李典は抵抗はしなかった。腰に腕を回し、柔らかい唇と温かい口内を、ゆっくりと味わった。
「……曹仁殿」
「ん?」
三度目の口付けを終えた後、しばらく黙って抱き合っていた。抱きしめていると、やはり男の体だと思う。女と違ってごつごつと骨ばって硬い。だが温かく心地良かった。首筋に顔を埋め、堪能する。
「本当に宜しいのですか?」
「何だ、今さら。お前の方から言ってきたのだろうが」
「それは、そうですが。まさか、本当にこうなれるとは、思ってなかったので」
「………………」
「そりゃ、まったく勝算がなかったわけじゃないのです。何だかんだ言いながら、曹仁殿は私を信頼してくださっていたから。ですがおそらく、ふられるだろうと思っておりました。仕事上では良い関係になっても、さすがに私生活までは、と」
「まぁ、確かにな」
李典は曹仁の腕の中で目を閉じて身を任せている。そんな李典を抱きしめているだけでも満たされる気分だった。ふと、そこで一つ思い浮かんだ。
「お前、俺に告白して、ふられたとして、俺が嫌悪でそれを誰かに言いふらすとか、そういう事は考えんかったのか?」
異性同志ならまだしも、やはり同性同志だと、受け入れがたい者はいる。それは時に相手を拒絶し、攻撃してしまう感情に転換する事もあるのだ。どんなに親しかった相手でも、とたんに変化し、相手に落ち度がなくとも、周りにその事を言うだけで相手は居辛くなってしまう。
「ええ。曹仁殿はそういった事はなされないでしょう。言いふらすなど、卑怯だと。そして私との距離を置かれたでしょう。私が一連の事を表に出さず、今までどおり、何事もなかったように仕事をこなしていれば、その距離もいつかはなくなっていたやもしれませんが。ですが、その前に私が異動願いを出すかもしれませんね」
「……そうか」
きっぱりと言われて、曹仁は微妙な気分になった。本当に李典は自分の性格をよく把握している。しかしさすがに今回受け入れた事は予想外だったらしいけれども。
「……しかし、まぁ、やはり周りには秘密だな」
「それはそうでしょうね。公表しなければならない事ではないですし」
「ああ。……いや、すまん」
はたと思い出した。李典を抱きしめたまま、青くなる。
「どうしたのですか?」
「……兄上……社長と従兄の夏侯惇には知られた。知られた、というか言い当てられた、と言うか……」
もごもごと言い淀む曹仁に李典はため息をついた。
「もしかして、今回の計画を社長に言いに言った時ですか?」
うなずく。見ずとも動きで伝わるだろう。
「いや、おそらく二人とも言いふらす事はしないだろうが、しかし……」
「そんな事はなさらないでしょうね、きっと。ですがおそらく、曹仁殿は顔を合わせるたびにからかわれると思います」
曹仁もそう思った。それを予想して、げんなりとする。
「……でも、理解してくださるのですから、多少のからかいは覚悟してください。私もおりますから」
「ああ……」
顔を見て、にこりと笑って言われると、そう対した事でもない気分になる。からかわれるのは気恥ずかしいが、スキンシップの一つだと思えば。
それにしても不思議な気分だ。数日前までは、まさか李典とこんな関係になるとは夢にも思っていなかった。悩んで悩んで悩み続けていたせいか、酷く長い時間を過ごした気がするが、振り返ればまだ一週間も経っていない。……安易だっただろうか? 一瞬そう思うが、すぐに打ち消した。今は落ち着くところに落ち着いた、という気持ちだった。
「曹仁殿」
「ん?」
「これからよろしくお願いいたします」
「……お、おう。よろしく、頼む、か?」
改めて言われてむず痒くなる。李典は眉をひそめながら言う。しかし声は表情ほど剣呑ではない。
「何故そこで疑問系になるのですか。曹仁殿は時折、はっきりなさらなかったり誤魔化すときがあります。それはいけません」
「う、うるさい! 分かっとる、そんな事! わざわざ言うな!」
「私が言わなければ、他に言う方はいないでしょう」
仕事をしている時の、容赦ない言葉と同じだった。そのやり取りが懐かしく思えてしまう。それだけ鬱々としていたわけだ。けれど内容は仕事の時にはない甘さがある。曹仁は、見上げる李典と四度目の口付けを交わした。
了
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お、おわ、終わった……!!!
後半の語りがピロトークのようだと思ったけれど、更には蛇足な気もしたけどそれは置いといて。
やっと納まるところに納まりました仁典。
小桂様、お待たせしてすみませんでした。こんな風になりましたが、どうぞお受け取りくださいませ……!(土下座
落ち着くところに落ち着いたとたん、お互いの調子を取り戻した二人。仕事も私生活も変わらん。いや、一応変わるんですけれども。
今度は典さんが仁さんちに泊まる話が書きt(以下削除
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