真赤―まそほ―

真白き雪が降り落ちて



 「陳宮を見捨てるわけにはいかん。返してもらうぞ」




 裏切りの投降兵により、馬に括り付けられ、曹操のもとへと運ばれていく。それは明らかな罠だった。例え彼の人一人になろうとも、篭城していれば、そう簡単には城は落ちない。けれども、穴に入り込んだ獣を誘き出すために、陳宮は、呂布の元に残っていた高順と共に投降兵に捕らえられ、曹操のもとへと連れ出されていた。
 残った配下の者と呂布は城の前に姿を現す。これは罠だと、出てきてはならないとあらん限りの声で陳宮は呂布を止めた。だが、呂布は馬を駆けさせ、陳宮たちを取り戻すべく、曹操軍へと突進したのだ。
 陳宮は愕然とする。明らかな戦力差。現時点では篭城してこそ、まだ勝機が見出せると言うものを、それを呂布も分かっているだろうに、それなのに、攻撃を仕掛けてきた。
 「呂布殿!! 来てはなりません、城から出てはなりません!! 呂布殿!!!」
 何故、どうしてあの方は己の言葉を聞かないのだと悲痛になる。理由は分かっている。自分たちを助けるためだ。そして、主が主であるためだ。呂布の誇り。それは、敗れざること。例え敵わぬと分かっていても、引き下がり、むざむざと捕らえられ膝を屈することなどありはしない。最後まで、己が足で、腕で、力で、駆け抜け戦い抜く。
 それが、呂布だ。
 「呂布殿!」
 黒き獣。その牙が、投降兵の後部へと追いつき食いかかる。だが、あまりにも数が違い過ぎた。呂布の愛馬の赤兎もいない。
 「呂布殿!!!」
 弓が絞られる。矢が狙い定められる。それは風を切り鳴き声をあげて獣たちを射る。次々と味方が倒れていく中、それでも呂布は戟を振り回し、矢を叩き落として駆け続ける。曹操の喉笛に噛み付かんばかりの勢いで。だが。

 どっ、と、一本の矢が、呂布を射た。

 「──────呂布殿!!!」
 何度目なるか分からない叫び。
 馬上で、縛られているにもかかわらず陳宮は体をひねり、後方の呂布を見ていた。両手足の自由がきかず、もがくが束縛は緩まない。だから陳宮は声を張り上げて呂布を止めようとした。それなのに、呂布は追ってきた。返してもらうぞ、と言い放って。
 矢に射られた呂布が落馬する。だがすぐさま起き上がって前を見据えた。それを狙うように、次々と矢が放たれる。一本、二本、三本、四本。己を狙う矢を呂布は叩き落す。けれど矢は雨霰のように呂布に降りかかり、そして。
 「がっ…………!!」
 肩に、胸に、腹に。
 「────────────……………ッ!!!!」
 吸い込まれるように突き刺さっていく。
 陳宮は目を大きく見開いた。あってはならない光景。あの、誰しもを怯えすくませた黒き獣が、数多の矢に射られ、地に、倒れた。
 「…………りょ、ふ、どの……っ」
 ぶるりと首をふるう。違う、この光景は違う。そんなはずはない、こんなことはない。あの、主が。獣が。こんな。
 「……呂布殿────────────っ!!!!!」
 叫ぶ。喉がつぶれることなどお構いなしに陳宮は叫んだ。もがき、暴れ、何とか束縛から逃れようとした。こんなところで自分は何をしているのだと怒りがわく。行かなければならない。今すぐに、行かなければ。
 「おい! 暴れるな!!」
 陳宮の激しい暴れ様に周りを囲んでいた投降兵があわてて押さえ込もうと、槍を四方から突き立てた。切っ先が陳宮の寸前まで突き付けられる。陳宮は、投降兵を睨み付けると、躊躇いもせず、後ろに縛られていた手を、その槍の刃へと突き刺した。
 「ぐっ!」
 「なっ?!」
 歯を食いしばる。刃は陳宮の手の甲と腕、そしてきつく縛っていた縄をも切り裂いた。突然のことにぎょっとして動きを止めた投降兵の槍を、陳宮はすかさず奪い取った。切り裂かれたところから血が飛び散る。痛みを感じたのは一瞬だった。今は、熱い。それは全身もだった。
 「──────どけぇっ!!!」
 激情のまま叫んだ。槍を構え、一度大きく振り回す。重さと反動に持っていかれそうになるが腹に力を入れて踏ん張ると、馬の手綱を取り、陳宮は馬の尻を槍の柄で叩いた。嘶きをあげ、棹立ちになる。それを押さえつける。馬は陳宮の言うことを聞き、矢のように駆けだした。
 「ま、待てぇ!!」
 追いすがろうと投降兵が武器を振り回すが一瞬遅く届かない。陳宮は馬にしがみつくように身を低く構え、突っ切った。その視線は前方しか捉えていない。行かなければ、今すぐに。己は、あの方の、唯一人の。
 「逃がすな! 奴を止めろ!!」
 魏続の言葉に投降兵は駆け出す。陳宮は自分たちが曹操軍へ降るための道具の一人だ。ここで逃がしては元も子もなかった。
 「追うな!!」
 だがそれよりもはるかに強く鋭い声が兵たちの動きを止めた。静止の声に驚いて振り返れば、そこには今から降るべき総大将が馬に乗って佇んでいた。
 「曹操殿!」
 「追わずとも良い。奴は逃げはせん」
 「しかし」
 苦い顔をする魏続に曹操は、目を細めた視線を陳宮の背に向けたまま言った。
 「最期の刻くらい与えるものだ」




 手綱を強く引き、馬を止まらせる。陳宮は目の前のことしか見えぬように馬から降りようとするが、まだ足が縛られていたままなことに今更気が付いた。上体を崩して頭から落ちそうになるところを、何とか堪え、持っていた槍で縄を切る。その行為すらももどかしく、足首が開放されると同時に槍を放り出し、馬を降りた。足がうまく動かず、体制を崩して肩から地面に倒れる。
 「呂布、ど、の」
 這い蹲った状態で顔を上げ、その視線の先に、矢に射抜かれた主の姿を捉えた。息を止め、弾かれるように体を起こす。
 「呂布殿!」
 駆け寄って、愕然とする。幾本もの矢に射抜かれ地に横たわる呂布の周りには、赤黒く血溜まりができつつあった。目は閉じられ、薄く開いた口からも血が流れ出している。がくりと膝をつき、震える手で呂布に触れる。
 「呂布殿」
 返事はない。
 「呂布殿!」
 声を叩き付ける勢いで陳宮は名を呼んだ。首筋に手をやる。槍で傷ついた手は血に汚れていて、それは呂布の首筋も汚した。赤い布。それは、無事を願って呂布を思う娘が巻いた物だった。
 触れたところが、ほんの僅かに動いた。それを指先で感じ取った瞬間、陳宮は呂布の肩を掴む。
 「呂布殿、呂布殿、呂布殿!!!」
 眠っている相手を覚醒させるが如く、何度も名を呼んだ。そうすることで、何かを押し留めるように。
 「…………、…………」
 目が、開いた。
 「…………っ!! 呂布殿、呂布殿!!」
 視線だけが、ゆっくりとこちらへ動いた。口が何事か言おうと、動く。だが声にはならない。陳宮は具足をつけた呂布の上体を血溜まりの中から抱き上げる。酷く重かった。これがあの呂布なのかと思うほど力なく、重かった。
 「…………、……」
 うわ言のように何かを言っている。胸の奥から喉へと何かがせり上がるのを感じた。呼吸がうまくできない。それでも呂布の口元へ耳を近づけ、聞き逃さぬように陳宮は息を詰めた。
 「……陳、宮……」
 掠れて聞こえてきたのは己の名前だった。
 「……はい、はい、私はここにおります、呂布殿」
 答えると、呂布は笑うように目元を幽かに歪めた。もう、いつものように不遜に笑う力すら残っていないのだ。
 「無事、だっ、た、か……」
 「…………っ、何を、おっしゃるのですか! 何故、出てきたりしたのですか! 貴方は、本当に、無茶ばかりなさる……!!」
 溜め息のように呼吸が混じる言葉に、胸が詰まる。喉がひりついて、目の奥が熱くなる。ぎり、と一度奥歯を噛み締め、陳宮は呂布を叱った。それに呂布はまた笑う。喉だけで、声にすらならない。
 「おま、え、も、こんな……とき、でも……お前、だ……な」
 「………………」
 「………………陳宮……」
 「はい」
 名を呼んでから、呂布は逡巡するように視線を横へ流し、そして改めて陳宮を見た。
 「俺は……逝く」
 「………………っ」
 「おま、え……は、好きに……し、ろ……」
 「────────────」
 その言葉に目を見開く陳宮を見て、呂布は、にい、と、ゆっくりと振り絞るように片方の口の端を持ち上げた。いつもの不敵な、笑み。視線が、陳宮から離れ、空を見上げた。それを追うように、陳宮も見上げる。
 「……赤兎、は……駆けて、いるか、……、………………」
 声が途切れた。
 腕にかかる重さが、増した。
 「………………呂布殿?」
 待っても続きはなく、視線を戻した陳宮は、目を伏せた呂布を見る。名を呼んでも返事はない。
 「……呂布殿」
 それでも、もう一度、呼んだ。ぱたりと呂布の頬に涙が零れ落ちた。今まで流れ落ちようともしなかった涙が、溢れかえり、頬を伝い落ちて呂布をぬらす。
 「呂布殿…………っ!!」
 額を押し付け、歯を食い縛り、目をきつく瞑った。喉は焼け付き、全身は熱かった。涙は止まらない。
 逝ってしまった。逝ってしまったのだ。黒き獣が。孤高の人が。最後の最期まで戦い続け、誇りを持ち続けた男が。逝ってしまったのだ。
 苦しくなり、一度息を吐き出すと陳宮は顔を上げた。果てしなく続く灰色の空。
 「………………ああ、呂布殿、見てください」
 陳宮は涙に濡れる顔のまま、静かに振り落ちてくるものを見てゆったりと笑った。
 「雪ですよ、呂布殿。赤兎の姿が、よく映えますな……」
 目を瞑れば、瞼の裏に浮かぶのは赤兎に乗る呂布の姿。思えば己は、あの姿に魅入られた。最初は己の人生を全うするため、己の夢を叶えるために選んだ相手だった。けれど、それを決定付けたのは、あの戦場を駆ける呂布と赤兎の姿だった。
 最初は己のために呂布を選んだ。今でもそうだ。しかし、心の在り様はまるで違う。
 「…………好きにしろ、とおっしゃいましたね」
 呂布を見る。涙は止まっていた。
 「私を試したのか、それとも不器用なのか」
 笑いがこみ上げてくる。遠くに曹操の姿が見えた。呂布の体を静かに横たわらせ、立ち上がる。それが合図のように、曹操の腕が上がり、投降兵たちがこちらへと馬を返してきた。
 「好きにさせていただきますよ、呂布殿」
 頬を撫ぜる風と髪。結い上げていた髪はいつの間にか乱れ解けかかっていた。笑んだまま、髪を解き、もう一度、簡単にまとめ直す。結い紐を締めた。
 「──────私は貴方の軍師ですから」

 了





陳宮は曹操に再び仕えないかと請われたが断り、そのまま振り向かず処刑場に自らの足で向かったそうです。

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