真赤―まそほ―

呼び方


 白勝の熱が下がり始めた。
 それまで安道全は梃子でも動こうとはせず、白勝の看病をしていた。もともと林冲は宋江から言われ、安道全を仲間に引き入れ、ウン城へ連れて行くのが目的だったのだが、これでようやくウン城に行ける。
 奇妙な二人だった。安道全は酷く偏屈な男で医術のことしか頭にない。虚偽の罪をかけられ不当に投獄されたというのに、医術に没頭できる環境だった牢獄を抜け出すことなど考えてもいなかった。だのに白勝という小悪党を助けるために脱獄の誘いに乗った。白勝はどこにでもいる、小狡い盗人だったが不思議と安道全と気が合っていた。擦れているようでいて、しかしどこか屈託なくなかった。二人は、林冲を慕っている。
 それまで白勝の見舞いに行かなかったが、白勝は運を引きつかんだ。生き延びたのだ。そして自分たちは旅立とうとしている。最後に見舞いに行こう、と林冲は思った。


 「林冲様、来てくれたんですか」
 まだ白勝は床についていた。すっかりやつれ、頬も削げ落ちていたが、目には力があった。生きよう、とする力だ。林冲の姿を見て、白勝は笑う。
 「熱が下がってきたそうだな、白勝」
 「はい、安先生のおかげです。付きっ切りで世話をしてくれて、本当にありがてぇ」
 「私は私にできることをしただけだ。お前の気持ちがしっかりしていたから、熱は下がったのだ。生きる気力がなければ、どんなに手を施しても、死んでしまうことはある」
 「そうだな。安道全も、運次第だ、と言っていたが、お前はそれに勝ったんだ」
 言われて嬉しいのか、白勝は照れたようにまた笑った。
 「でも、本当にお二人には感謝しています。俺なんかを助けてくれた。ただの盗人の俺を」
 「お前は昔、私を助けてくれた。そして私は医師で、お前は私の友だ。助けるのは当然だろう」
 「友、ですか」
 白勝は少し驚いた表情を浮かべた。
 「そうだ。林冲も、そうだ」
 安道全の言葉に、白勝は複雑そうだった。だがそれは、困惑に近かった。今までの白勝の生い立ちを聞けば、頷ける。友などいなかった。つるむ相手はいたが、長く続きはしなかったのだろう。
 「友、か。なんか、変な感じだな。林冲様と安先生が友達だなんて」
 面映ゆそうに笑う。まだ少し力ない手を目元にあて、白勝は言った。嬉しそうな声だった。林冲は後ろめたい気持ちになる。自分はただ、宋江に頼まれ、安道全に近づき、白勝を利用して脱獄しただけだ。二人のように友、などという純粋なものは、ない。それが何故か酷く恥ずかしかった。膝の上に載せていた手を握り締める。こんな自分を、二人は。
 「俺は」
 二人が林冲を見る。
 「俺は、お前たちに友などと呼んでもらう資格はない」
 淡々と言葉を続ける。二人は黙って聞いていた。
 「安道全の腕を必要としている人がいる。俺はそのために牢獄に入り、お前たちに近づいたのだ。頼まれたとはいえ、これは俺自身のためだ。お前たちを助け、脱獄したのも、お前たちのためではない。友などと、そう言われるような男ではないのだ、俺は」
 一気に言った。慕われる想いが痛かった。言ってしまうと、つかえが取れた気分だった。罵られるならそれでいい。
 「やっぱりそうでしたか、林冲様」
 返ってきたのは白勝の笑い声だった。
 「おかしいと思ったんですよ。林冲様みたいな人が俺を助けてくれるなんて、何か理由がなきゃあるわけない」
 どうということでもないように白勝は言う。失望したか。当たり前だと林冲は思う。
 「でも林冲様は、馬鹿ですね。とんでもねぇ、大馬鹿野郎だ」
 「なに」
 「そうだな、私も、そう思う」
 今度は呆れ返った安道全の声が聞こえた。
 「だってそうでしょう。黙ってりゃいいのに、わざわざそんなことを言うんですから。言わなくたって困らねぇでしょう」
 「だが、偽りたくはない」
 「そこが大馬鹿野郎だって言うんです、林冲様。俺を利用したって思っているなら、どうして言っちまうんですか。もう脱獄しちまったからですかい? でも、それじゃあ安先生が林冲様を嫌って、一緒に行かない、なんて言うかもしれませんでしょう。そしたら、林冲様も頼んだ人も困るでしょう」
 そうだ。その可能性はある。せっかく抜け出したというのに連れていけないのでは意味がない。偽りたくないというのは自己満足だろう。それでは、宋江の思いに応えることができない。だのに自分は二人に言った。
 「けど、林冲様は言ってくれたじゃないですか。俺たちに嘘をついていたくなかったってことでしょう」
 「違う、自己満足なだけだ」
 「いい加減うっとうしいですよ、林冲様。簡単じゃないですか。林冲様はしたいようにして、俺たちも思いたいように思う。それだけです」
 「お前はそれでいいのか」
 「そりゃあ、ちょいとがっかりしたのはありますよ。でも、きちんと言ってくれたから、いいんです。自己満足でも、言ってくれたってことが俺には嬉しいんです。だって林冲様は俺たちを担いで助けてくれたじゃあないですか。安先生だけでいいのに、死にかけてた俺を捨てたりしないで、助けてくれた。それで充分ですよ」
 雪の中、何里も歩いた。捨てようなどとは露にも思わなかった。ただ、歩いただけだ。
 「お前は、やはり馬鹿者だな、林冲。私たちはお前を友だと思っている。そんなことを聞いてもだ」
 安道全の言葉に白勝もうなずく。忸怩たる思いにかられた。
 「お前たちも馬鹿者だろう。俺を友と呼ぶお前たちも」
 「いいんですよ、俺は。実際、難しいことなんて全然分かりませんから、林冲様みたいに変に考え込んだりもしねぇ」
 「白勝、こんな奴に敬称なんぞいらんだろう。呼び捨てでいい」
 「人のことを言えるか、安道全。白勝、こいつのことも先生などと呼ぶ必要はないぞ」
 白勝が弾けるように笑った。反動で痛みを覚えてうずくまるが、笑いを堪えなかった。
 不思議な気分だった。二人を慕わしく思っている自分がいる。同時に、一歩離れている自分も感じていた。こんな風にただ慕われる想いには慣れていない。
 不意に張藍を思い出す。自分を慕っていた。自分も想っていたことに気が付いたのは、張藍が亡くなった後だった。
 一歩、踏み出していいのか。
 「これから、どこかに行くんですよね、二人で」
 「ああ。道中の安全を確かめてからだから、もう少しあとになるがな」
 「体が治ったら、俺も行っていいですか。なんか、難しいことしてるみたいだけど、俺も行きてぇ」
 「それは俺が決めることではない。来たければ来ればいい」
 「行く、行くよ、俺。絶対に行く」
 「体をしっかり治してからだ、白勝。私もお前がいてくれると、ありがたい」
 「先生のわがままをきくのは他の奴らじゃできねぇもんな」
 白勝が笑う。安道全は自分の行動をわがままとは思っていないので憮然としていた。
 林冲も笑った。脳裏に浮かぶ張藍が、微笑んでいた。










最初は林冲と安道全を敬称で呼んでいた白勝が、再会したあとは呼び捨てタメ口になっていた経緯をちょっと考えてみました。
以下、うざくて長い林冲語り。苦手な方はこのままお戻りくださいませ。



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安道全は林冲に言われるまで友誼というのを知らず、白勝は斜めに構えたところがあったと思います。そして林冲は自分を知らず卑下しているところがある。卑屈になっているんじゃなく、自分が慕われることはないと何故か思っている節がある。これは9巻になってもあると思います。自分をわざわざ罠にはめるために青蓮寺が動くわけないだろうとか思うあたり。
しかし自分の騎馬隊は強いと思っている。でもこれは、自負というより相応に鍛錬しているからただの事実である、という程度じゃないでしょうか。だからどれだけ強かろうがすごいわけじゃない。それがどれだけ味方にとって頼もしくあり、敵にとって脅威であるか。
謙虚というより、知らないというか鈍感というか馬鹿というか(酷い)

奥さんのことも、知らず知らず好きになっていったのに、慕ってくれていることも分かっていたのに、自分は奥さんを想っているわけじゃないと思い込んでいて、その想いに応える意味はないと自己完結して、後でものすごく後悔したり。
なので、安道全と白勝からの友誼には、どうしても一歩引いたところがあると思います。受け取っていいんだと分かっているし、返したいとも思っているけれど、何となく線を引いてしまう。それは駄目だと奥さんのことで分かっているのだけれど、なかなか難しい。
安道全と白勝はそういう林冲を馬鹿だなーと思いながら、でも返してほしくて友と思っているわけじゃないので気にしてないかと。気にされず、また慕ってくるから林冲さらに困惑。
宋江さんの場合は、最初からそう言うのを吹っ飛ばして宋江さんが林冲を包み込んでしまった。
公孫勝の場合は、真正面から向けられる友誼ではないので、むしろ心が通いやすい。
公孫勝と林冲は表裏一体のイメージです。同族嫌悪。相手を認めているがゆえに、相手が下手打つとそんなもんじゃねぇだろ!と言わんばかりに噛みつく。同時に自分を見ているようでもあるので、相手の失敗が自分のことのようでもあり、まるで自分の不甲斐無さに腹を立て、そして相手が自分を罵ることに安堵する。

面倒くさい男だな林冲。
だがそこがいい。
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