約束
西涼軍から逃げおおせた曹操を追って、散り散りになった兵士達が集まってくる。諸将達は曹操が無事なことに胸を撫で下ろしたが、曹操を守っていた許チョが満身に矢を負っている姿を見て息を飲んだ。ただ一人で、曹操を討とうとする西涼軍の雨の如き矢を防いだのだ。
軍医が駆けつけ、すぐさま治療をしようとするが、許チョはそれを拒んだ。
「丞相は」
「は」
「丞相は、おつつがないか」
先に軍医に託した曹操の身を案じ、許チョは繰り返す。
「丞相のご様子は、怪我は酷くはないのか。どうなのだ」
己の方がよほど酷い状態だというのに、許チョはひたすらに曹操の様子を問いただした。
「将軍、将軍の方が酷い様子でございます。さぁ、早く軍医の手当てを」
「俺は、丞相の御身の無事を聞いている」
配下の武将が許チョを気遣うと、その手すら振り払って眼光鋭く言い切った。許チョ自身が軍医に託したとはいえ、もしかしたら何かしら大事があるやもしれぬ。それを確かめるまでは頑なに拒もうと言う姿勢だった。
まるで手負いの虎の如く手当てを拒む許チョのもとへ、曹操を託した軍医が走ってきた。その姿を見て、許チョは身を乗り出す。
「丞相のご様子は、どうだ」
軍医が立ち止まる前にそう問い掛け、軍医は面を食らうが、次いで朗らかに笑った。
「大事無いです。丞相のお体にご異状はございません。ほとんどがかすり傷で、その手当ても済みました。将軍のお力のお陰でございます。さぁ、今度は将軍です。早く手当てを致しましょう」
「……そうか」
ほっと一つため息をつくと、今度は抗うそぶりを見せず、軍医の手に身を任せた。軍医達はすぐに許チョを陣屋へ押し込み、幾本もの矢じりを綺麗に抜き取り包帯を巻く。幸いにして、許チョの怪我も、見た目よりは酷くなく、だが、手当てが済むとすぐに鎧を身に付けて曹操のもとへ見舞いへ行こうとするので、半ばくくりつけるように寝床に寝かしつけた。
その夜。
夜襲をかけてくるだろう西涼軍に備えて本陣を移し、仮陣営を作り上げ、兵士達を伏し準備を整えた曹操は、後は西涼軍が罠にかかるのを待つばかりと腰を据えていたが、ふと思い立って、己の陣幕を出た。向かう先は許チョが休む軍医の陣幕である。怪我が酷くなかったとはいえ、大事を取って曹操は、許チョに今夜の夜襲応戦に参加するのを禁じた。許チョは大いに残念がったが、大人しく引き篭もっているようだった。
「これは、丞相」
「どうなされましたか、このような時間に」
陣幕の前にいた見張りの兵士と軍医が驚いて声を上げる。
「いや、何。許チョはどうしておる」
「はい、中でお休みになられています。傷の方も、多少の熱を持ちましたが、先ほど薬をお飲みになりましたので、まず大丈夫でしょう」
「そうか」
曹操は陣幕の中へ入る。簡易に作られた寝台の上に、もてあましたように許チョが身を起こして座っていた。入ってきた曹操を見て、驚いたように立ち上がり、膝をついた。
「丞相、夜分にこのようなところへ、何の御用でしょう」
「何の御用とは随分だな。お主の見舞いに来たというのに」
「それは、お心遣い痛み入ります」
「いい、いい。怪我人は大人しく寝ておれ」
からかうような笑みでそう言うと、許チョは思わず眉を寄せて困ったような表情をした。
「少しお主らは表に出ておれ。話したいことがあるのでな」
「分かりました。それでは」
軍医達が陣幕から表へ出て行く。残されたのは曹操と許チョだけだ。曹操は許チョに寝台に座れと促し、自身は側にあった椅子へと腰掛ける。
「今日はお主のおかげで助かった。改めて礼を言おう」
「勿体無いお言葉です。私は当然のことをしたまでですから」
「うむ。しかし何か褒賞を与えねばな。何が良い?」
「いえ、私は私の仕事をしただけです」
「相変わらず欲がないのう。まぁ、褒賞も、この戦を終わらせてからでないと色々と無理があるしな」
丁重に断る許チョに嘆息する。許チョからすれば、曹操を守り通したけれど、危険にさらしたのでもあるので、今回の働きは賞賛には値しないらしい。けれどもそれでは曹操としてはつまらない気分になる。思い立った好意を受け取ってもらえないのが残念なのだ。好意は押し付けるものではないのだが。
「──────そうだ、では、今すぐ与えられる、簡単なものならどうだ」
「え? ……何でしょうか、それは」
にやりと猫の目のように細めて笑う曹操に、何となく嫌な予感がしたが、許チョは主に逆らえるはずもなく。曹操が顔を貸せと手招きをするので、上体だけを曹操の方へ寄せた。そして、
「──────」
素早く、唇が重なった。
「────ふむ、やはりこの状態だとするのは楽だな」
「………………丞相」
顔を離した曹操は楽しげに笑う。許チョは口元を押さえて、何とも言えない表情でうつむいた。
「立っている状態だと、お主は背が高すぎるからのう。たまに首が痛くなる」
「……申し訳ありません」
「背が高いのは別にお主のせいではなかろう。それにそれはそれで良いしな」
あっけらかんと言われて、なおさらに許チョは答えに窮した。曹操はそんな許チョを見て楽しんでいる。兜を取り、つい、と手を伸ばし、曹操は椅子から許チョの座る寝台へ移動した。近づいた距離に、許チョが身を引く。
「逃げるな」
声を潜め、肩に手を置いて、身を更に寄せる。
「……丞相、このようなところで」
「これくらいなら構わんだろう。お主の功を労う行為だしな」
「………………」
「いらぬか?」
「………………いえ」
その返事に満足して、首に腕を回すと、許チョの腕も曹操の腰に回ってきた。まずは額に。次に眉間の下側に。それから瞼に触れて頬に落とす。戯れるようなそれに面映さを許チョは感じつつも、黙って受けている。曹操は喉で小さく笑ってから最後に唇を重ねた。舌を招き入れるよう促せば、そろりと入り込んで絡めてくる。
しばらく絡め取り、絡め取られを繰り返していると、次第に気分が高ぶってきたか、双方とも相手の体に回した腕の力を強めた。抱き込んで更に深く。
「……お主の体、少し熱いな」
「多少、傷が熱をもっておりますゆえ」
僅かに顔を離し、曹操は許チョの首筋に手を触れる。指先から伝わってくる熱はいつもより高い。
「……そうだったな。傷は痛むか」
「いいえ、気持ちとしてはすぐに戦線に戻りたいところです」
「頼もしい限りだ、だが、今回は休んでおれ。……しかし、この熱さは気持ちが、いい」
「………………」
再び重ね合わせた。くぐもった声が喉から漏れる。
「………………丞相」
すると、許チョは身じろぎをして曹操から顔を離した。解放されて熱い息が自然とこぼれる。
「は、……どうした、何故途中でやめる」
「いえ、西涼軍がいつ来るやも知れませぬし、そろそろお戻りになられた方が」
至極真っ当な意見に、曹操はつまらなさそうな表情を浮かべたが、確かにそうである。
「そうだな、これ以上やると歯止めがきかなくなりそうだしな。自粛するか」
「はい。……正直、私もこれ以上は」
「ん?」
「……不義を働いてしまいそうです」
視線を合わせず言った言葉に曹操は目を丸くしたが、次いで、盛大に笑いを吹き出しそうになった。しかし、あまり大声は出せないので、咄嗟に口元を袖で押さえて堪える。だが、堪えきれずに肩を震わせて体を丸めて笑い続けた。
「……そこまで笑わずとも」
「いや、すまぬすまぬ、忠義にあふれたお主が働く不義か、どれほどのものだろうな?」
許チョは答えない。
「だが、いつも私にしているあれも不義だと思っているのか?」
「それは……」
「だいたい、元々は私がお主を欲しがったのだから不義ではなかろう。今回のもお主に対する褒美だしな。……それとも、お主が不義と感じるほどの行為を私にしたかったのか?」
目を細め、曹操は顔を許チョに近づけた。視線を合わせぬようにそらす許チョの顔を掴んで無理矢理こちらへ向かせる。しばらく許チョは言いよどんでいたが、諦めたようにポツリと零した。
「……分かりません」
「ん?」
「……ただ、これ以上はまずい、と思ったので」
「……つまりはお主自身でも想像ができぬ衝動と言うことか」
「………………」
居た堪れないように許チョは顔は曹操に向けつつも目を伏せる。
「それは是非、実践してもらいたいものだな」
「っ、丞相」
「ははは、ともあれ、何にしてもこの戦が終わったら、だな。褒賞もそのときに改めてだ。お主の不義を問いただすのも、な」
軽快に笑って立ち上がり、兜を持って陣幕から出て行こうとする。その曹操の手を、許チョが掴んだ。
「どうし」
た、と言葉を続けようとする前に、立ち上がった許チョが曹操の首筋に顔をうずめ、強く吸い付いた。
「っ!」
びくりと身を震わせ硬直する。体が離れ、曹操は許チョを見上げた。
「────この戦が終わりましたら、改めて」
同じことを繰り返して言われ、曹操は首筋を押さえて、眉間に皺を寄せた。最後でしてやられた気分だ。
「……ならば、早く戦を終わらせようか」
だが、その表情もすぐに消して不敵に笑い、兜を被り直して身を翻す。許チョは拱手して頭を下げた。
「御意に」
陣幕から出てほどなく、遠く蠢く一団を斥候が知らせてきた。西涼軍だ。闇夜の戦が始まる。
了
吉川3594新装版四巻より。
『許チョは満身に矢を負うこと、蓑を着たようであったが、人々の介抱を拒んで、
「丞相はおつつがないか」と、そればかり口走っていた。
「貴体には何のご異状ももない」と人々は慰めて、ようやく彼を陣屋の中に寝かしつけた』
の文にたいそう悶えまして。
後で曹操は見舞いに行っているはずだ!と妄想根性逞しく出来上がった代物です。
横山版ではそれほど酷い怪我ではなかったようで、その夜の西涼軍来襲の後にも曹仁さんと一緒に曹操の側におりましたが、その前の曹操が許チョさんの怪我の様子を気遣って、許チョさんが男前に返すシーンもまた格好よいのでどちらも好きです。
どこまでも男前だよ許チョさん。
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