月見酒
「月が出てきたぞ、徐晃」
部屋の前の廊下の、幅広い手すりの上に腰掛けて曹洪が言った。側には酒の入った壷が置いてある。胡坐の姿勢から、片足だけ下ろしたような恰好で器用に座る後ろ姿を見ながら、徐晃はつまみを載せた皿と、自分の酒を持って側へ行く。
「満月まではまだありますが、大分丸くなりましたな」
「ああ。満月でなくとも、これはこれでいい肴になる」
曹洪は徐晃が持ってきたつまみに手を伸ばす。上機嫌で月見酒を楽しんでいた。徐晃は同じようにつまみを手すりの上に置くと、手すりに寄り掛かりながら、自分も杯を傾けた。
「たまには静かに飲むのもいいもんだな。相手がお前なのはなんだが。月はあるのに華がない」
「でしたら女装でも致しますか」
「やめろ、気色悪い」
「私も嫌です。まぁ、華はなくとも、それも時には良いでしょう。喧騒と静寂と同じように、交互にあるからこそどちらも楽しめると言うものです」
「ふん、珍しく小難しい事を言う。しょうがない、今日はお前で我慢してやる」
からからと笑ってまた酒を飲む。曹洪は徐晃が用意をしている前から酒を飲んでいたので、大分酔ってきている。とは言っても、まだ程よい酔い具合なので意識ははっきりとしていた。
「あまり飲みすぎるとそこから落ちますぞ、洪将軍」
「まだまだ飲んだうちには入らん。そんなヘマはやりはせん」
幅広いとは言え、本来ならば腰掛ける場所ではない。すぐ側に柱があるので少しは安定しているが、後ろに落ちれば廊下に後頭部をぶつけるだろうし、前に落ちれば顔面を地面に打ち付けるだろう。しかし曹洪は意味もなく上体を揺らしながら笑っている。
「徐晃、酒」
杯を突き出されて、徐晃はやれやれ、と言ったような表情で小さくため息をついたが、杯に酒を注いでやった。
「うん、やはり、美味いな。兄上がくれただけはある」
「丞相からですか。なるほど」
「美味い酒と美味いつまみと、良い月夜。これだけ揃っているのに飲まん手はないだろう?」
屈託なく笑う曹洪に徐晃はうなずいた。
「後は飲む相手、ですか」
「それはお前で我慢してやると言っただろう。兄上達と馬鹿騒ぎするのも楽しいがな」
「私は貴方がいれば十分ですよ」
徐晃の言葉に、曹洪は、眉を寄せて口を噤む。不機嫌になったと言うより、照れくさくなったらしい。徐晃から視線を外してまた月を見上げた。
「洪将軍」
「何だ」
呼んでも振り返らない曹洪の側へ徐晃は静かに歩み寄る。そしてそっと肩を掴むと、反射的に曹洪が振り向いた。はた、と目が合うと、徐晃はそのまま頬へ口付けた。
「お、おい」
「はい」
その行為に曹洪は少し慌てる。きょろりと辺りに視線を向けた。部屋の中ならともかく、ここは見通しの良い廊下だ。
「大丈夫ですよ。ここは貴方の屋敷の離れでしょう。それに下働きの者達の人払いもしたではないですか」
二人で気軽に飲む、と言うことで、曹洪は酒と料理を持ってこさせたあとは、下男も下女も持ち場へ戻している。
「しかし、な」
「他に、何か」
「………………」
言いよどむ曹洪に、徐晃は続けて、啄ばむように唇を重ねる。何度か繰り返された後、少し長く重ねた。
「……酒の匂いに、酔いそうですな」
「……もう飲んどるだろうが」
座った状態で、上半身だけひねって徐晃の方を向いている曹洪の体を安定させるようにそれとなく腕を回して支える。もう一度、軽く重ねる。
「………………」
「洪将軍?」
手すりに座っているので、曹洪は徐晃を少し見下ろす形になっていた。黙っている曹洪に首を傾げる。
「いや、お前より視線が上なのも妙な感じだな」
「そうですか? 私の膝の上におられるときはいつもそうだと思いますが」
暗に言われて、曹洪は顔を赤くした。その様子に和むように小さく笑うと、曹洪が拳を振り上げる前に口付けた。今度はもがく曹洪に、徐晃はゆっくりと舌先で唇を舐める。角度を変えたり、啄ばんだりと、緩急をつけて繰り返す内に、徐々に篭絡されるように曹洪の口が少しだけ開く。僅かに覗く舌先を追うように滑り込ませれば、慌てたように逃げる。そこで深追いはせずに、じっくりと口内を探った。時折掠めるように舌が触れ合い、そして絡められる。鼻にかかったような声が漏れはじめた。
「ん、………………」
とろりと目蓋が落ちるのが気配で分かる。徐晃の衣服を掴みながら、曹洪が気を緩めてきている様子を感じ取れた。普段頑なな人がこうして解けていくのを、己の腕の中で見ることができるのは嬉しかった。
そろそろか、と頭の片隅で考えたとき、きしりと廊下が鳴った音が耳に届いた。家鳴りかと思ったが視線だけを横に向けると、
「あ」
思わず声を上げてしまった。
「……徐晃?」
不意に中断された行為に曹洪はぼんやりとした風に声を掛けた。そして徐晃のその視線の先へ目を向けた。まずい、と徐晃が思ったときは遅かった。
「──────」
「………………………………おう」
徐晃のものでも曹洪のものでもない声が上がった。曹洪は大きな目を丸くして固まってしまっていた。そこにいたのは、曹洪の従兄でもある曹仁だった。
「……これは、曹仁殿」
徐晃は平坦な声で名を呼ぶ。呼ばれた方は片手を挨拶をするように軽く挙げた。顔は酷く複雑そうな表情が表れていたが、一番強く出ていたのは、しまった、と言う感情だった。
「あー……そのな、これから兄上たちと月見でもするかと思って誘いにきたんだが……」
「……なるほど、確かに良い月ですものな」
「ああ。それで、屋敷の者に離れにいると聞いて、徐晃もおると言うから一緒にどうかと思ったんだが……」
曹洪はまだ固まっている。徐晃は内心、曹仁の足音に気がつかなかった自分に憮然としていた。
「………………」
「………………」
沈黙がおりる。
曹仁は徐晃と曹洪の仲をはっきりとは知らないはずである。ゆえにこんな、妙な会話をしてしまうのだろう。知っていたら徐晃がいる、と聞いた時点で引き返すだろうから。李典がいたら何と言うか。
そこで、ようやく我に返ったらしい曹洪が、徐晃と曹仁を交互に見ながらぱくぱくと口を開くが、うまく言葉にならず、顔を真っ赤にしていく。その様子を見た曹仁は、なお居た堪れない表情を浮かべて頭をかいた。
「……あー、その、何だ。……すまん」
「いえ」
曹洪ではなく徐晃が返事をした。
「……お、お前が言うな!!!」
ごっ、と曹洪の拳が徐晃の頭に落ちた。やっとまともな言葉を吐けた曹洪は、真っ赤な顔のまま曹仁を見る。
「あっ、兄上、こ、これは」
「いや、うん、いきなり来た俺が悪かった。もう帰るから、邪魔してすまなかった」
まるで自分自身を納得させるように、曹洪に何も言わせないように言う曹仁に、曹洪はまたもやまともな言葉を次げなくなる。
「じゃ、邪魔して、って、いや、これは、違う、その、だから」
「……洪将軍、落ち着いてくだされ」
あまりにも混乱している曹洪に、徐晃が落ち着かせるように体に触れた。それに、まるで猫が毛を逆立てるかのように、びくりと強い反応を起こし、そして
「触るなーっ!!!!!」
全力で徐晃を突き飛ばした。反動で曹洪も手すりの上から体制を崩したが、そのまま地面に飛び降りて、全力で脱兎のごとく逃げ出した。
「………………」
「………………」
残されたのは突き飛ばされて部屋の壁に体を打ってしまった徐晃と唖然としている曹仁だった。徐晃は逃げ去っていく曹洪の後ろ姿を見送りながら、相変わらず短気だなぁとぼんやり思っている。
「………………徐晃」
「はい」
倒れこんだまま徐晃は返事をした。
「……お前と弟はそういう関係だったのか?」
「そういう関係とはどの関係をさすのか存じませんが、曹仁殿と李典と同じ関係だと思われますよ」
「………………」
曹仁は更に複雑そうに表情を歪めた。
「……本気か?」
「少なくとも、親類に知られたからと言って関係を解消する気はございません」
「……まぁ、お前のことだから、冗談でやっているとは思わんが。しかし、なぁ……」
こちらもまだ頭の整理がついていないらしく、少し苛立ったように曹仁は頭をかく。
「あいつのどこが良かったんだ?」
「従兄である貴方がそれを言われますか」
「従兄だからこそだろう。俺はお前とあいつはそこまで仲が良いと思っておらんかったからな」
「……そうですね、ですがどこが良かったのかと言われても、即答はできかねます」
徐晃は体を起こし立ち上がる。手加減なしで突き飛ばされ、体を打ったが、それほど痛みは残っていない。
「具体的にどこが、と言うよりは、あの人を知るうちに次第と、と言う感じだったので」
「……あー、おう、……そうか」
その言葉に、何か気にかかるところでもあったのか、妙に納得したように曹仁は頷いた。
「それでは、曹仁殿。私は洪将軍のところへ行って参ります」
「大丈夫か?」
「まぁ、何発か殴られるでしょうけれど。それよりも、このことについてはあまり洪将軍に言わないでくだされ。落ち着けばご自身で言うやも知れませんし」
「……そうだな」
曹洪の性格は、従兄弟である曹仁も熟知しているだろう。まだ何か色々言いたいような、思うところがあるような、奥歯に物が挟まったままのような表情の曹仁だが、重いため息をついて頷く。
「では、失礼致します」
「おう。……まぁ、なんだな。……あいつを頼んだぞ」
「それはお任せくだされ」
徐晃は深く笑みを刻んで言い切った。
了
漫画にしたかったけど画力がなくて文章にしたら長くなったよ。
とりあえず徐晃さんを見下ろす状態でちすをする洪さんとか間の悪い仁さんとか徐晃さんと仁さんの会話とか書きたいのを詰め込みました。ので、山なし落ちなし意味なし。李典さんが多分呆れ果てていると思います。
このあと、じっくりゆっくりたっぷり徐晃さんは洪将軍を宥めてあやしてくれるかと。
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