桃園の宴
ある日の事だった。日々の鍛錬に勤しんでいた関平に、劉禅が稽古をつけてくれと言ってきた。
劉禅が稽古をつけてくれと言うのは、実は珍しいことではない。頻繁にではないが、関平以外にも、趙雲にも教えを乞うことがある。劉禅の得手は一応剣であるので、基本の型は劉備や黄忠や他、剣を扱う者から習ってはいた。趙雲は教え方が一番うまいので、違う武器でもためになる。だが、軍人ではないので、日々の鍛錬、と言うわけにはならなかった。なので、劉禅の腕と言えば、ようやく人並み、といったところだ。
関平が稽古をつけるときはもっぱら打ち込みである。劉禅の体はやはり軍人のそれではないので、剣を扱っていても、剣に振り回されている、と言うところがあった。関平は基本は一応できている劉禅に、とにかく剣になれさせるために自分に打ち込ませていた。時折、間合いを見て、劉禅が避けきれるかギリギリの打ち込みを返す。
すぐに息が上がる劉禅のため、休憩を入れながらその日は二刻ほど過ごした。
日も暮れかかり、汗を流しに行こうとしたとき、劉禅が、夕餉を一緒にとらないかと誘ってきた。特に予定のなかった関平はその誘いを受けた。
「私はお前がうらやましい、関平」
夜もたけなわ。劉禅は、以前、叔父の張飛から貰ったと言う酒を用意してくれた。まだ歳若い劉禅のためか、張飛がくれたと言う割には随分と甘めの酒を関平も美味しく呑んだ。二人とも、そう酒に強いわけではなかったので、いくら甘めの酒と言ってもよい感じに酔いが回り始めていた。そんな時、劉禅がじっと関平を見、それからポツリと零した。
「……拙者が? 何が、ですか? 劉禅様」
零された言葉に瞬きを何度かすると、関平は問い返す。劉禅は杯の中の酒をくるくると揺らせながら、小さく頷いた。
「何もかも、だ。お前は優しいし真面目だし、良い性格をしている。軍人としても申し分ないほどの実力を持っているし、立派な男だ」
「な、何を言うのですか、拙者など、まだまだです。未熟で、もっと修行が必要な身でございます」
並べられる賛辞に酔いではなく顔を赤くして、関平は否定する。すると劉禅は、目を細めて微笑んだ。どこか、歳相応には見えない表情。
「ほら、そういうところもだ。少し融通がきかなくて鈍いところもあるけど、謙虚で人好きのする性格だ」
「……それを言うなら劉禅様だって、お優しいですよ。いつも皆のことを思って、分け隔てなく目を配っていると聞きます」
人伝えの言葉なのは、関平自身がまだ己の方に精一杯なところもあって、主に国の内側にいる劉禅の様子をよく把握していないからである。国の外に目を向け戦をしている身では、誰かに話を聞かねば分からないところが多い。
「有難う。だけど私はそれだけだ。お前のように強くも、勇敢でもない。……星彩のようにしっかりもしていないしな」
その名前を出されて、関平は一瞬息を飲んだ。幼馴染の娘。ほのかな恋情を向けている相手。そして、劉禅の妻となる予定の女性。
「私だけ……私だけだ。父達三人の義兄弟の中で、私だけが不甲斐無い息子だ。武力があるわけでもなく、胆力があるわけでもなく、ただ優しいと言われるだけ」
「………………」
杯を重ねる。料理には最初の頃箸をつけただけで、今、二人は酒ばかり呑んでいた。
「私は優しくなどないよ。臆病なだけだ。争いが嫌いで、怒ることも嫌いで、だから笑っているんだ」
劉禅は父親である劉備と違い、武に関してはまったくといっていいほど疎かった。穏やかな性格で、学問や民政には興味を示したが、武に関してはその性格ゆえに、敬遠しているところがあった。なまじ周りを英傑達に囲まれているので、劉禅は戦うよりむしろ、築かれた国を豊かにする方を取ったのだ。
「だけど、お前だけじゃなく、星彩も戦場に出た。女性の身でありながら、勇ましいことこの上ない。だのに私は、自分が守るはずの相手にまで守られている。なんとも、情けない限りだ」
「……それは、劉禅様はこの国の跡継ぎで在らせられます。守られるはけして恥じることでは」
そういうと、劉禅は眉根を寄せて、苦笑する。まるで今にも泣き出しそうにも見えた。それでも笑っていた。
「そうかもしれない。だけど、男として、どうだろう。関平、お前だってそうだろう? 身分がどうのこうのなど関係なく、好いた相手を守りたいと思うだろう」
「………………っ」
劉禅は、関平が星彩に好意を持っていることを知っていた。けれど関平はそれを口にするでもなく、心の内にしまっていたので、劉禅も言葉にはしなかった。
「けれど、そう思っても実力がすぐに伴うわけじゃない。熱意に心が追いつくわけでもない。むしろ、周りの強さを痛感し、己の非力さを目の当たりにしてしまうだけだ。星彩自身もまた、男顔負けに強いからなぁ」
肩を震わせて、溜め息のように笑いを落とした。それに関しては関平も同意だった。星彩は強い。その涼やかな姿からは想像のつかぬほどの覇気としなやかさを持ち、凛とした佇まいは近寄りがたさすらうかがえる。以前、危険だから自分の後ろへ、と言ったとき、はっきりと『気遣いは無用』と切り捨てられた。それは見栄でも意地でもなく、戦場に立つ以上は、性別の違いなどに囚われず、一人の軍人として見ろ、と言っているものだった。
「さすが、翼徳叔父上の娘、だろうか。お前も養子とはいえ、雲長叔父上の強さも志も立派に受け継いでいる。だが私は、父上の志の、ほんの一握りも受け止めていられない。強くありたい、と思う。周りもそうあってほしいと思っているだろう。父上のように。お前達のように。……それが正直、重い」
「………………」
「幾度も幾度も思う。強くありたいと。だが、駄目だなぁ、私は。すぐに壁に当たって気力が萎えてしまう。乗り越えねば、先へ進めぬと分かっているのに、な」
自嘲の笑みだ。その笑みを見て関平は、痛々しさと同時に、ちり、と腹の底に重い熱さを感じた。それは次第に膨れ上がり、体の中をゆっくりと満たしていく。まるだ酒の酔いが広まっていくように。あふれ出しそうになる。一つ、息をそっと吐いて劉禅を見る。苛立ちにも似た、思い。
「だから、お前がうらやましい。壁に当たっても、乗り越えるための気迫を持っている。そして誰かを守れる強さも持っている。何をやっても並程度しかない私は────」
「何を言っているんですか!!」
「!!」
不意に叩きつけられた大声に、劉禅は驚いて関平を見た。関平は眉を吊り上げ、口を引き結んでいた。それは劉禅にとっては初めて向けられた怒りの表情だった。
「己を必要以上に卑下してどうするというのですか、劉禅様!」
「関平」
「……確かに、劉禅様はそれほどお強くはないかもしれません、ですが、だからと言ってそんなふうに誰かと比べ、己を蔑んでどうするというんですか!」
「……だ、だが、これは、事実だ。私は実際に弱いし何の取り柄もない。別に卑下しているんじゃない、事実を言っているだけで────」
いつもは笑顔か困り顔を向ける関平の、初めて自分に向けられた怒りに、劉禅は困惑していた。関平自身は、おろおろとしながらも言う劉禅を見て、さらにかっとなる。
「事実だからと言うのですか! 言ってどうなりますか! 言うだけならば誰にでもできます、問題はそこからではないのですか?!」
「………………」
「拙者や星彩のことを褒めてくださいますが、まだ拙者たちも未熟です。養父上は完璧な者などいないとおっしゃられます。人は日々精進するのだとおっしゃられます! 劉禅様のそれは、事実を言っていると言いながら、現実から目を背けておられるようにしか聞こえません!」
言葉が止まらない。箍が外れたように感情が溢れ出す。いつもならば出しもしない大声を、目の前の相手に叩きつけた。
「そうやって人に言われる前からご自身で言って、ご自身を守っているようなものではございませんか! 劉禅様は、傷つきたくないんです、人に言われたら痛いから、自分で言ってるだけです! 弱いから何です、守られているから何です、それが悪いと、誰が言いましたか!!」
止めようとも思わなくなった。感情の溢れるまま、関平は劉禅に向かって叫び続けた。劉禅は、次々と叩きつけられる言葉の雨に酷く傷ついた顔をしてから、俯いて歯を食い縛る。そしてぎっと関平を見上げ、自分も立ち上がった。
「だ、誰も、言っていないが……でも! 皆そう思っているだろう?! お前だって、取り柄のない私が、星彩と一緒になるなんて納得いっていないはずだ!! 私はな、お前を見るたびに自分が惨めになるんだ、星彩だって、本当は、本当は……っ!!」
ぼろりと涙が溢れて零れた。それ以上が言葉にできない。それにまた悔しさが込み上げて、だが、劉禅は堪えた。
「星彩は、嘘や偽りはつきません!! ましてや同情もしません!! でもそんなんじゃ、星彩に愛想つかされますよ、劉禅様!!」
「大きなお世話だ!! それにお前だけが星彩を知っている風な口をするな!!」
「劉禅様が星彩を疑うからじゃないですか!!」
「誰が疑った!!」
「劉禅様です!! 星彩は劉禅様のことがちゃんと好きですよ!! ずっと見ている拙者が言うんですから!」
「私だって星彩を見てきた! 明らかにお前の方に気が向いている!!」
双方言って、同時に凹んだ。勢いに任せて口走ってしまったが、改めて口にすると重すぎる。劉禅はもう涙が止まらなくなっていた。酒の酔いも手伝って感情に枷ができない。
「だ、だが、わ、私は星彩が好きだし、それに、それに」
どす黒い感情も渦を巻いてあふれ出る。
「……星彩を私の妻にできたら、初めて、お前に、勝てる気が、したんだ……!」
「………………」
凹んでしゃがみこんでいた関平が驚いたように顔を上げた。言われた本人より、言った本人の方が酷く傷ついた顔をして、幼子のように涙を零しながら言葉を続けた。
「だが、だけど、そんな、それは、星彩を勝ち負けの、道具のようにしているようなもので、なおさら、私は惨めだ、星彩が大事なのに、そんなこと」
「……劉禅様」
「それに、それに」
手の平で涙を拭いながら、しゃくりあげる声は掠れたように引きつっている。
「お前の事だって、同じくらい、大事なんだ……っ」
止まらない涙。
「お前に勝ちたいと思う、だけど、それはお前が嫌いなんじゃない、お前を見ていると、自分が惨めに思えるのは、お前が嫌いなんじゃなくて、自分の不甲斐無さが情けなくて悔しいんだ……っ!」
まっさらな、嘘偽りのない言葉だ。笑顔に取り繕われた普段でもなく、怒りに我を忘れた状況でもない。ころりと転がり出た、素のままの感情だった。関平はまだ泣きじゃくる年下の幼馴染に呆気に取られていたが、次第に頭の中で整理がついてきたらしく、酔っている以上に顔を真っ赤にした。そして、慌てふためきながらも、言わなければならないことを叫んだ。
「……せ、拙者も、拙者だって、劉禅様が好きです! そりゃ殿ほどお強くないし、平凡かもしれませんけど、そんなの関係ありません!」
「はっきり平凡て言うな!!」
どうやら地味に気にしているようである。
お互い叫びに叫んで、息切れを起こす。軽く眩暈も加わって、二人で座り込んでうなだれた。
しばらく黙り込んだまま、時が流れる。ようやく劉禅の涙もとまり、しゃっくりも治まってきた。
「………………」
「………………」
劉禅は長い溜め息をついた。それはまるで、会話を促しているようにも聞こえて、関平は視線を向ける。
「………………星彩は」
「はい」
「美人だな」
「はい」
「綺麗だな」
「はい」
「……でも、中身は結構、翼徳叔父上に似ているところがあるな」
「…………はい」
二人で遠い目をした。
「沈着冷静だけど、こうと思い込んだら突き進むところとか」
「表情は豊かではないけれど、胆の据わりは人一倍だとか」
「…………お酒は私たちの中で一番呑む方だとか」
「…………叔父上のように豪快ではありませんが、淡々と、物凄い量を呑みますよね……」
見た目はまったく似ていないが、やはり親子なのだなとしみじみ思わせた。
「だがしかし、可愛いな」
「はい」
真面目に顔をつき合わせて頷いた。
「よし、呑みなおそう、関平」
「お付き合いします」
酒の入った壷を引っ張ってきてふたりは杯を再び重ねた。
「……劉禅様? 関平?」
所用で出かけていた星彩が戻ってきた。星彩は二人を探して、人伝に部屋を教えてもらい、辿り着いたのだが。
「おぉ、星彩〜!」
「星彩、おかえり〜」
星彩が見たのは、すでに顔を真っ赤にして出来上がっていた劉禅と関平だった。完全に酔っ払って、口調がすでに怪しい。
「……二人で呑んでいたの?」
「うむ! 叔父上からいただいた酒が美味しくてな! まだあるから、星彩も呑むか?」
「遠慮しておくわ」
上体もふらふらとおぼつかない関平に少し呆れたような溜め息をついて星彩はそっと杯を押し返した。
「星彩ー!」
「劉禅様」
劉禅がにこにこと上機嫌に笑いながら、星彩に寄りかかってきた。劉禅の、かげりのない笑顔を久しぶりに見たので、星彩は少し面を食らった。酔っ払っているからとはいえ、子供のような笑顔だ。
「……どうかしたのですか? こんなにお酒お呑むなんて珍しい」
「うん、関平とな、色んな話をしてたんだ」
「話?」
「ああ、それでな、私は決めたんだ」
「何をでしょうか?」
すぐにも倒れこみそうな劉禅の体を支えながら問いかければ、劉禅は持っていた杯を高く掲げ、呂律の微妙に回らない口で、朗々と宣言した。
「私はお前が好きだ、星彩!」
「は」
感情があまり表にでない星彩が、珍しく目を丸くして唖然となった。
「そして関平も大好きだ! だから、私は、お前達二人を娶ることにしたぞ!!」
「わー! さすが劉禅さまー!」
「………………………………」
満足そうに杯の酒を飲み干し、またそれを掲げる。関平はその呑みっぷりを拍手喝采して褒め称えた。そして星彩は、劉禅の宣言したその内容にあいた口が塞がらなくなっていた。側の二人は、言葉の意味も理解しているのか怪しい状態で、やんややんやと騒いでいる。
「そして、な」
からん、と劉禅の手から、空になった杯が落ちた。劉禅はそのまま、目の前にあった星彩の膝に頭を乗せて横たわる。
「大丈夫ですか?」
顔を一撫でして目をこすり、頬を揉む。それから劉禅は星彩の問いに頷いた。にこりと微笑む顔は、蕩けそうなほど幸せそうだった。
「劉禅さま、ずるいですぞ、星彩、拙者も!」
「駄目だ駄目だ、星彩の膝は私のだ」
「人の膝を所有物宣言しないでください」
二人の、普段なら絶対しなさそうな行動や言動には、酔いのせいだろう。膝に頭を乗せている劉禅は仰向けになり、星彩の手を取る。関平は残念そうにしながらも、口元には笑みを刻んだまま、すぐ側に寝転がった。
「そして、な、星彩」
「はい」
星彩の、年頃の娘にしては硬い皮膚の指を、劉禅は柔らかく掴んで揺らす。武器を持つ手だけれど、形の良さは変わっていない。
「戦が終わったら、三人で父上達の桃園に行こう」
「………………」
父親から、三人とも幾度も聞いている。懐かしそうに、眩しそうに、目を細めて愛おしそうに語る、義兄弟の誓い。劉備の故郷の村にある、見事な桃の花が咲き誇るあの場所。
「戦が終わったら、行こう、皆で。そしてそこで、父上たちがしたように、酒を呑もう。桃の花を肴に、色んな話をたくさんして、呑み明かそう」
「………………」
もう片方の手を天へ伸ばし、まるでそこに見たこともない桃園の光景を見出しているように、劉禅は微笑んだ。
「行こう、な。星彩、関平」
「……はい」
ただただ柔らかく無邪気に笑う劉禅に向け、星彩も相好を崩す。自分の指を掴む劉禅の手をそっと握り返した。その暖かさに満足したように目を細めると、劉禅はそのまま静かな寝息を立て始めた。気がつけば、側に寝転がっていた関平も、気持ちよさそうな顔で眠っていた。
「………………」
関平の少し硬めの髪を優しく撫ぜる。何か寝ぼけているのもう夢を見始めたのか、小さな笑いを零して言葉にならない言葉をもごもごと口の中で呟いた。
「……三人で。いつか、きっと……行きましょう」
眠りを妨げぬように、静かな声で、星彩は淡く愛しい願いを呟いた。
了
一人長生きした劉禅は二人分の想いを持って訪れてたらいいな、と。
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