てのひら
冬。裸木立が並びゆく道を武骨な具足に身を固めた兵士たちが歩いて行く。一つの苦い戦が終わり、許都へと戻る曹操の軍勢だ。冷たい風が吹きすさび、刺すような寒さをその肌に感じても表情一つ変えず、馬を進める男が一人。許チョだ。
曹操はあれから身体的に回復したものの、まだ本調子ではない。それでも勢いに乗ってくるであろう呉軍に対して、江陵を任せた曹仁に策を残している。それはさすがと言うべきだが、許チョの心中は重苦しい陰を残していた。
戦には負けたが曹操は守りきった。だがそれは、最後は敵の温情によるものだ。あの時すでに、皆、戦う力が残っていなかった。しかも相手は一騎当千と謳われる関羽だ。おそらくあのまま戦っていたとしたら、良くて相打ち、最悪の場合、曹操を討ち取られていただろう。
それでも戦人の誉れのために戦って死ぬのは己の勝手だ。だが許チョは戦人として強敵と戦うことに心は躍るが、誉れのために死ぬことに価値は見いだせない。恥辱にまみれ生き恥を晒すくらいなら戦って死ぬのはいっそ潔いと思う。そうなった時のその選択を愚かとは思わない。
許チョは曹操の護衛だ。
己の命は己の物に非ず。己の命は、曹操の物だ。それをどうして、自分勝手に終わらせることができようか。
許チョはけして、生きることに対して欲がないわけではない。生き方を決めることを放棄しているわけでもない。むしろ、己が望むことに忠実であると言っても良かった。
曹操を守ること。それが許チョの唯一無二だ。
それは、ただ守ればいいと言うわけではない。戦って、生き延び、守ること。誰かに縋って得るものではない。そうならざるを得なかったのは、己の力が足りなかったからだ、と許チョは悔いた。主に、その選択を取らせてしまった。一人で守っているわけではない。多くの武将や兵たちがいる。だが、それでも、悔いは心の底に苦く淀んでいた。口元を強く引き結ぶ。頬を切るような寒さに、痛みも感じない。
都に着き、曹操は戻ってきた者たちに指示を出し、己がすべきことをさっさと終わらせてしまうと室に篭ってしまった。仕事はする。それに手抜かりはない。だが、どこか精彩は欠いていた。声をかけるべきではないだろう。かけるとしても、良い言葉が思い浮かばなかった。こういう時、己の拙さが情けない。曹操は、お前はそれでいいと言うが、許チョは少しでも曹操の言葉の深さを理解したいと思ったので、仕事の合間合間にいろいろと学んだ。それでも、曹操の知識の海には溺れるばかりだ。
内心、ため息をつきながらも、部屋の入口の傍らに立ち、いつものように警護をする。廊下を渡ってくる風は相変わらず冷たい。
ふと、室内で動く気配があった。休んでいた曹操が起きたらしい。
「許チョ」
中に入れ、と言う意味を含んだ呼び方に、許チョは物音させず入ると拱手する。
「お呼びでしょうか」
「うむ、どうにも落ち着かんのでな、酒の相手をしてくれんか」
「分かりました」
相手をする、と言っても許チョはほとんど飲まない。曹操も無理に勧めない。ただ、傍にいるだけでいいというところがあった。許チョは酒を持ってくるように指示を出すと、自分は酒を飲む場の用意をする。ほどなくして、酒と簡単なつまみが運ばれてきた。
「まだまだ寒いからな。しかも夜ともなるとなお冷える。酒は体を温めるし寝付きも良くなるからいいものだ」
「はい」
そっとその杯に酒を注げば、一息にあおって飲み干す。ついた息はどこか投げやりだった。
「そら、お前も一杯飲むといい」
酒を満たした杯を許チョに手渡す。逡巡してから許チョは恭しくその杯を受け取った。
「今日も冷えるようだな。お前の指先、随分と冷たいではないか」
杯を受け取った時に僅かに触れただけだったが、それでも伝わる冷たさだったのか、曹操は視線だけを外に向けて言う。許チョは酒を飲み干すと、静かに杯を置いた。
「それほどでもありませんが、指先などは冷たく感じるものでございますから」
「確かにそうだが、ちょっと手を見せてみろ」
そういって手の平を出す。何をするのだろうかと思ったが、許チョは分厚い己の手を曹操の手の上に、触れぬ範囲で差し出した。すぐに曹操が掴んで引き寄せる。
「ふむ、確かに手の平はそれほど冷たくないな。しかし何だ、随分荒れているぞ」
曹操の指先が許チョの手の甲を撫ぜる。ざらりとした肌触りは、表皮が寒さで乾いて剥がれかけているせいだ。
「娘ではございませんし、手入れをしているわけではありませんから……」
「だが、こんなにガサガサでは痛痒くないか? ほれ、あかぎれまでできておる」
それらは戦続きだったせいもあった。しかもあの河での戦だ。濡れたまま、寒空の下で大薙刀を振り回していれば、そうなってしまう。しかし許チョはこちらに戻ってきてからも、開いた傷口に薬を多少塗りこんだだけであとは放置していた。武器を持てぬほど動きに差し障るほどでもなし、気にするものではない。そのうち治ってしまう。
「いかんぞ、小さな傷とて侮ってはならん。此度の戦は終わっても、次にいつ出るか分からんのだしな。しっかり治しておけ」
「……はい」
そう言って曹操は立ち上がって何やら棚から持ってきた。どうやら薬のようだ。そして許チョの手を取ると、自ら手の甲や指先に揉み込むように塗る。主の手を煩わせている、と思い手を引こうとしたが、あらかじめ予測していたのか、引き抜く前に力が込められて抜けなかった。
「……許チョの手は大きいな」
「そうでしょうか」
「ああ。大きくて分厚い。実に頼り甲斐のありそうな雄々しい手よ」
「……有難うございます」
「この手のおかげで、幾度命を救われたか分からぬな」
「…………」
許チョは口を引き結んだ。
「……此度の戦、殿を守りきること敵わず、誠に申し訳ございません」
すると曹操は驚いたように目を丸くした。
「何を言っている。お前たちのおかげで、我らは生きて江陵に辿り着けたではないか」
「いいえ。あれは関羽が見逃してくれたからです。そうでなければ、逃げ切ることもできたかどうか」
「……そうだな。それは確かにそうだ。だが、そこまで辿り着くまでに、張飛や趙雲と言った猛者もいた。お前たちがいなければその前にわしの首はこの体と離れていただろうよ」
途中、共に合流した李典の軍とともに許チョたちは劉備の軍勢と戦った。それだけではなく、寒さや飢え、そして疲労との戦いで、幾人もの兵が死んだ。
「最後は過去の縁を頼ったが、それでもわしは生きてここにいるだろう。それは間違いなく、お前たちのおかげだ」
「…………」
「許チョよ、気に病むというならば、これからもわしを守ればよい。お前のその忠義を余すことなくわしに向け続ければよい。そうであろう?」
「……はい」
言いながらその両手に薬をつけ終わると、くるりと返して手の平を上に向ける。そこへ、曹操は重ねるように手を置いた。武器を振るうのを知る手だ。同時に軽やかに筆を滑らすこともできる手だ。しかし許チョの手と比べれば小さく細く見える。
「わしを守れ、許チョ。悔いるのはわしが死んだ時だけにしろ。それまでは守り続けることだけを考えろ」
死、と言う言葉を聞いて、反射的に息が詰まった。死は武人にとって身近な物であり、隣り合わせの存在だ。それが、曹操が口にするだけで恐ろしい気持ちが湧きあがる。曹操の、死。
「殿は、死にません。死なせません」
語気が強くなった。その勢いに曹操は目を丸くしてから、くっ、と眉を下げて笑みを零す。
「そうだろう。お前が守るのだから。ならばもっと強うなれ。悔いる暇などないほどに」
「はい」
許チョは己の手に重ねられた曹操の手を握った。見下ろす視線の先には、いつものように笑う曹操がいた。ほんの少し前までの、どこか投げやりだった気配が薄れている。
「……そうだな、お前が守ることを誇りにするほどに、わしも生きねばならぬなあ」
重ねた手と反対の手で曹操は許チョの頬に触れる。
「手や頬をこんなに冷たくまでして毎日守ってもらうのだ、その本人が腑抜けていてはいかんな。ん?」
「……殿」
何か、踏ん切りがついたかのような、さばさばとした声だった。同意を求められているようでいて、それを実は必要ともしていない問いかけに聞こえる。
「大丈夫だ、許チョ。わしにはお前がいる。皆がいる。そうであろう?」
「はい」
今度は返事をした。
「……ふふ、おかしいものよ。お前が落ち込んでいたというのに、今はわしの方がお前に励まされた気分だ。お前とわしは、もしかしたら、一体のようなものかもしれぬな」
「そのようなことは」
恐れ多い、と思ったが、曹操は手を目の前にかざして言葉を止めた。にやり、と笑う。
「お前はわしを守る。それはすなわち、お前が死ねば、わしも死ぬということだ。お前が死ぬほどのことが起きるならば、他の誰も、わしを守れぬだろうからな」
「…………」
「ならばお前はわしの命そのものよ。お前に何かあれば、わしにも何かあるのだろうよ。その逆も然り。されば許チョ。やはりお前は何者よりも強くあれ。それは同時に、わしを強くするだろう」
「……はい。承知いたしました」
曹操の笑みに応えるように、許チョもまた力強く微笑んだ。
了
どこかで『許チョを拾った曹操は、まさに自分の命を拾ったのだ』的なことが書いてあってそれにぶわーっと来たことがあります。あと、蒼天でも許チョと初めて出会ったとき『あれが俺の天命か』と曹操が言うんですよね。話の流れで意味合いが微妙に違いますが、許チョとあそこで出会ったからこそ、後の繋がりが生きるわけで。
蒼天の曹操は許チョといると本当に子供っぽい顔をすることが多くてたまらんのです。許チョも曹操の細かい体の不調とか気づいたりするんですけど、最終話で傍にいないのを見ると、曹操がわざと遠ざけたんかなとも思うわけで。
北方版だと、温情に頼るシーンはなく、それこそ許チョさんが命懸けで張飛と趙雲を足止めするんですけれども。『お別れしなければなりません』、と言っていたけれど、完全に死を覚悟していたわけじゃなさそうだよなあと思います。最後まで戦いきって、それで死ぬなら仕方ない、というような。生き抜いてやろうと言う気はあったんじゃないかなと。曹操に言われたし。
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