煙草
久々に働いていた会社にやってきていた李典は、一階の廊下にある休憩エリアで、見知った顔に出会った。
「曹洪殿」
「おう、李典か、久しぶりだな」
「お久しぶりです。……曹洪殿」
「ん?」
李典は珍しそうに曹洪を眺める。正確には、曹洪の指がはさむ物を。
「煙草、のまれるんですね」
「ん、ああ」
そう答えて曹洪は煙草を一息吸うと、細く煙を吐き出す。少し長くなった灰を、灰皿の上でトンと叩いて落とした。
「たまにだがな。気分が落ち着かん時にのむ事が多いかも知れんな」
「へぇ」
李典は曹洪の座っている長椅子に腰掛けた。李典は煙草を嗜むことはない。側でのまれても気にすることはなく、好きでも嫌いでもないが、わざわざ囲まれた喫煙場所に行きたいとは思わない。この場所は廊下の途中にあるので、空気の流れも悪くはない。
「お前はどうしたんだ、誰かに呼ばれたのか?」
会社を辞めた李典がここにいる理由とすれば、以前の繋がりで誰かが呼んだ、という線が強いが、李典は首を振る。
「いいえ、曹仁殿の忘れ物を届けに来たのですよ」
「兄上の?」
「ええ、書類を一枚。他のは全部持っていっていたのですが、一枚だけ、机の資料の下になっていて気がつかなかったみたいで。整理をしていたらひょっこり出てきたので、持ってきたのですよ」
「なるほどな。それで、また兄上に説教をしてきたのか?」
にやりと笑って曹洪が李典を見る。李典はここで、曹仁の部下として働いていた頃から、上司であった曹仁に対して、物怖じすることもなく冷静な指摘をしており、それは曹家の血縁の従兄弟達の間では皆、知るところになっていた。
「しませんよ。私はもうここの社員ではないのですから。ただ、帰ってきたら言おうとは思っていますけれど」
「しっかりしていることだ」
あっさりと言う李典に、曹洪は喉の奥で笑う。もう一度、煙草を咥えて大きく吸い込むと、細く長く煙を吐き出した。辺りに紫煙が揺らめく。
「先ほど、気分が落ち着かないときに嗜まれると言っておられましたが、何かあったのですか?」
「ん? まぁ、少しな」
はっきりとせず、言葉を濁した曹洪の様子を見て、李典は首をかしげながら聞いた。
「徐晃殿ですか?」
次の瞬間、ぐっと息を詰まらせた曹洪が思い切り煙にむせこんだ。
「だ、大丈夫ですか?」
あまりにも突然で激しい咳き込み方に、李典は驚く。何度か大きく息を吸い込み、そのたびに咳き込みながらも、曹洪は何とか息を整えようとしていた。喉の調子を直すように、咳払いをして、生理的に浮いた涙を目の端にためながら、李典の方は見ずにそっぽを向く。そして、
「………………何故、そこで徐晃の名前が出てくる」
平坦な声で問い掛けてきた。
「いえ、以前、働いていた時にも、徐晃殿の事で、曹洪殿がイライラしていた事があったなと、思い出したので」
その答えを聞いて、曹洪は見えないようにこっそりと安堵のため息をついた。だが、
「それとこの間、曹仁殿を会社まで迎えに来た時、駐車場で帰り際のお二人を見かけて」
再び咳き込んだ。
「あの、本当に大丈夫ですか? 煙草、のむのやめた方がいいんじゃ」
「……気にするな。それより」
口元を押さえ、僅かに肩を震わせながら曹洪は、残っていた煙草を灰皿に押し付けた。辺りを窺うように見回す。李典もつられて周りを見たが、広い社内、あまり人が通らない時間か、近くにも人の気配はない。
「……この間、とはいつ頃だ」
「え? ……10日くらい前……でしょうか。確か金曜日、です。………………………………あの」
曹洪は思い切りあからさまな疲れたため息を盛大につくと、額に手を当ててうつむいた。
「……やはり、秘密、でしたか」
「………………やかましい」
居た堪れないように、少し顔を赤くして、曹洪は吐き捨てるように言った。
元々李典は働いていた頃から、何となく二人の空気、と言うか、徐晃の態度に引っかかるものを感じ取っていた。もしかしたら、多分、と言う範囲ではあったが、一つの予想がたっていた。それがこの間、社員用の駐車場の近くを通りかかったとき、偶然見たのだ。辺りはもう暗くなっていたが、その駐車場の一角で、一台の車に荷物を放り込んでいたらしい曹洪に、後からやってきた徐晃が顔を近づけて何かやったのを。すぐに曹洪の大きな声が上がったが、外だと言う事に我に返って声はしぼみ、代わりに拳が徐晃の後頭部を襲った。遠くからだったのではっきりとは見えなかったが、李典は今までを振り返って、二人の関係を察してしまった。妙に気恥ずかしくなって気がつかれないうちにさっさと正面入り口へ駆けて行ったが、二人は一緒の車に乗り込んだようなので、多分、間違いないだろうと思っていた。
「ですが、曹仁殿はともかく、社長はご存知のようでしたが」
「………………」
なおさら曹洪は、頭を抱え込むように片手を後頭部へのせて顔を伏せてしまった。
「確かに大っぴらに言えることではありませんが……そうですか、やっぱり……」
「察しが良すぎるぞ、お前……」
苦虫を噛み潰した表情を、手の平で覆う。指の間から李典を睨むと、曹洪は、頬を赤くしたまま、苛立ったように頭を掻いた。崩れた髪を乱暴に撫で付けると、内ポケットにしまってあった煙草を取り出した。軽く叩いて一本、直接口に咥えて引き抜くと、残りの煙草をしまう代わりにライターを取り出す。火をつけた煙草を思い切り吸い込むと、今度は大きく口を開けて吐き出した。
「……誰にも言うなよ」
「言いませんよ。……否定されない、と言う事は、本当に本当なんですね」
「………………」
「曹仁殿にもですか?」
「あー……そう、だな……言わんでくれ」
身内に知られる事は相当居た堪れないらしく、曹洪はそれを紛らわすように煙草を吹かし続ける。それを見ていた李典は、ふとあることが気になった。
「曹洪殿」
「ん?」
疲れたように椅子の背にどっさりと背中をあずけながら、視線だけ李典の方に向けた。散漫に、煙草を指に挟んだ手を口元に、覆うようにあてる。
「あまり煙草のみ過ぎると、口の中に味が残りません? 徐晃殿に何か言われたりしないのですか?」
またもや曹洪は強く咳き込んだ。この人、曹仁殿より反応が分かり易いなぁと李典は内心思う。
「………………何で徐晃に何か言われにゃならんのだ」
「いえ、……キスとか。なさるでしょう。 煙草をのまない人には、匂いだけでもすぐに分かりますし、味だとなおさら」
「余計なお世話だ!」
李典の問いに曹洪は真っ赤になりながら大声を上げた。だが、すぐに自分で口をふさいで、辺りを見回す。幸い、誰もいなかった。再び曹洪は長いすに沈み込んだ。
「………………っ、だ、だいたい、徐晃の奴も煙草をのんどるわ。それに、しようがしまいが気にするものでもなかろう」
「そうでしょうか。曹仁殿も煙草はたまに嗜まれますけど、やはり、その後のは、あまり」
「………………。……何でお前とこんな話をせにゃならんのだ……」
がっくりと項垂れる。それから、しばらく無言だったが、ふと、李典の方を見た。
「兄上の煙草の量が減ったのはお前のせいか」
「え、……どうなのでしょう。私は煙草は嗜好品と思っていますから、嗜んでいても構わないのですが、まぁ、あまり一日に一箱も二箱ものまれるのは遠慮したいです」
李典は、曹仁と逢ってからの曹仁の煙草の量を思い出した。確かに昔よりは、煙草をのんでいる姿を見る事はなくなった。会社でのんでいるかも知れないが、帰ってきても煙草の匂いをさせている事はあまりない。自身でも吸っておらず、そういう場所に行く機会もない、というわけだ。煙草を嗜むについて文句を言った事はない。体に悪いから、ほどほどにしておいた方がいい、とは言ったが。
「兄上も、お前には弱いなぁ。純や俺の前ではしっかりしておるのに」
呆れと感心が入り混じったような顔で曹洪は言う。李典はそれに赤くなった。人に言われると、嬉しいやら恥ずかしいやら複雑な気分だ。
「まぁ、昔はお前に説教されるほど無茶が過ぎるところがあったのは確かだがな。それがお前と組むようになってから変わったものだ」
「……それは、社長が色々曹仁殿に難題を押し付けて育てたからだと思いますが。私はその補佐をしていただけです」
「だから、その補佐が巧かったんだろう。でしゃばるわけでもなく、だが兄上を奮起させるような物言いが良かったんだと思うぞ。実際、社長も言っていたしな」
曹洪は、人前では従兄とはいえ、曹操の事は『社長』と呼ぶ。
「社長には、私は上に立つより、補佐の方が向いていると言われましたし、私もそちらの方が性に合います。夏侯惇殿は曹仁殿より仕事がしやすかったですが、遣り甲斐があったと言えば、やはり曹仁殿とでしょうか」
「兄上も酷い言われようだな」
「事実です。頼り甲斐は確かにあるのですけれど、どこか抜けておられるから。今日の事にしてもそうですし」
「まぁ、何にせよ仲睦まじい限りで良い事だ」
吸い終わった煙草を曹洪は灰皿に押し付けた。一筋の煙がふつりと消える。
それからもう少しだけ話した後、曹洪は仕事に戻り、李典も家へと帰る事にした。
「帰ったぞ」
「お帰りなさい、曹仁殿」
帰宅した曹仁を玄関先で出迎える。靴を脱いで、居間へと向かう曹仁が通り過ぎた後、李典は、ふと鼻をひくつかさせた。
「曹仁殿、煙草、のみました?」
「ん? ああ、分かるか?」
鼻をかすかにくすぐったのは煙草特有の煙の匂いだった。普段煙草を嗜まない者にとってこの匂いは、すぐに分かる。言われて曹仁は自分の腕やスーツの襟元を引っ張って匂いを嗅いだ。
「徐晃がのんでいたんで、一本貰ってな」
「曹仁殿は徐晃殿といたのですか」
「あ?」
「いえ、こちらのことです。……曹仁殿」
李典は一つ思いついて、曹仁の側に歩み寄った。呼ばれて振り返った曹仁は、すぐそばに李典がいて驚いたように動きを止めた。李典は曹仁の頬に両手を伸ばすと、寄りかかるように背伸びをする。そして引き寄せて口付けた。
「──────」
唇を緩く開いて、歯列の間を通り、舌を滑り込ませる。曹仁の舌を絡め取り、口内を味わうように動かした。
『……あ、やっぱり』
李典は舌を動かしながら、思った。微かに煙草の味がする。この味は、おそらく残り香も影響しているだろう。曹仁はヘビースモーカーではないから、煙草の味がするのはまれだ。この苦さは嫌いではないが、好きとも言えない。煙草をよくのむ相手を持つ者は、この味に慣れるのだろうか。双方とも煙草をのむ場合はどうなのだろう。そんな事をぼんやりと考えていると、ふと、腰と背中に腕が回ってきた。はたと我に返る。
「……何だ、お前、……誘っているのか」
唇は離したが、顔は近づけたまま、曹仁が訝しげに聞いてきた。
「……違います。煙草をのんだのなら、煙草の味がするのかと思って、確かめてみただけです」
あくまで平静を装いながら李典は言う。実際そうなのだが、誘っているのか、と言われて、自分のした行動を振り返って内心、恥ずかしさに叫びたいほどだった。
「何だって、今更。今まででも煙草なんぞのんでいただろうが」
「そうですけど、特に気にした事がなかったからです。だから、別にそういう意味じゃありません」
「その割には、随分念入りだったぞ」
少しばかり情欲に火がついたらしい曹仁が、引き寄せるように腕に力を入れる。李典は逆に曹仁の顔から手を離して、胸元に手を当てて離れるように力を入れた。
「だから、確かめただけです。曹仁殿、まだ帰ってきたばかりで、お風呂も入っていないし、ご飯も食べていないんですよ、駄目です」
「………………」
はっきりと拒否されて、曹仁は僅かに拗ねた顔をした。
「ご飯食べてないからお前を食べるとか言ったら殴りますよ」
「言わんわ!!」
冷ややかな視線で言われた台詞に、曹仁は流石に即答でツッコミを返した。それに気分が削がれたか、呆れたようにため息をついて李典の体を離した。そしてスーツを脱いで着替え始める。それを見た李典は、小さく安堵の息を吐いた後、さっさとキッチンへ向かった。
『……あ、と言う事は』
夕食の用意を再開しながら、李典は、曹仁が徐晃と煙草をのんでいたらしいので、曹洪殿も煙草の味がするんだろうなと考えた。更に、あの二人だと、どちらがどちらなのだろうと、下世話な事までに考えが至って、慌てて頭を振って追い出した。
「何をやっとるんだお前」
「何でもないです!」
後ろから見ると滑稽だったらしい姿に、着替えを終わらせてやってきた曹仁が眉を寄せて問い掛け、李典は反射的に否定した。あからさまに何かあるような答えだったが、曹仁は胡散臭そうな顔をしつつも、席に着いた。
因みに。
「洪殿」
「………………」
むっつりと不機嫌な顔で曹洪は煙草を口に咥えたまま、そっぽを向いていた。
「李典に気がつかれていたからと言って、すねないでくだされ」
「………………」
徐晃を目の前にしたとき、どうやら人に関係を気づかれていた、ということを再認識したらしく、半ば八つ当たり気味に一発殴ってそれから口を利いていなかった。曹洪が徐晃の前で煙草をのむのは、しゃべりたくない、と言う表れでもある。
分かり易いな、と思いつつも徐晃は、引かない。
「私が言うのもなんですが、何事も、過ぎるのは体に良くありませんぞ」
「っ、おい!」
言いながら、徐晃は素早く曹洪の口元から煙草を抜き取ってしまった。眉を吊り上げて取り返そうとする曹洪に、押さえ込むように唇を押し当てた。びくりと体が硬直する。
「お吸いになるなら私にしておきなされ」
「ばっ、何を言っとるかお前は!!!」
真っ赤になってわめく曹洪の声を聞き流しつつ、徐晃は煙草の火を灰皿で揉み消した。
「私は煙草より洪殿の方が良いですが」
「………………っ、お、お前はもう黙っていろ!! それから、いきなりそういう事をするな!! だからばれたんだろうが!!」
「自粛しますが、二人で部屋にいる時は良いでしょう」
「駄目だ!」
「それは流石に酷いですぞ、洪殿」
「うるさい! 煙草の味なんぞ、自分がのむだけで十分だ!」
「何ですか、それは?」
妙な言い回しに徐晃は素直に疑問符を上げると、曹洪ははっとしたように口を塞いだ。
「何でもない!」
全力で否定する曹洪に、何かあったな、と聡く徐晃は気がつくが、あまりつつくとなおさらへそを曲げることは分かっているので、今はやめることにした。後でゆっくりと聞き明かせばいい。
「……まぁ、取り合えずその話は置いておくとして、夕食にしましょう。腹が減っては戦はできぬと申しますし」
「何の戦だ」
「お好きな答えでよいですよ」
つれっとして答える徐晃の後ろ頭に曹洪は、思い切り側にあった本を投げつけた。
了
また無駄に長く……orz
そしてとうとう出てしまった曹洪さんと徐晃さん。この二人も一人称が違いますが、パロ物と言うことで大目に見てください。そもそも原作からして『わし』なんだか『俺』なんだか『私』なんだか。
煙草は苦手なのですが、曹洪さんは煙草をのむ姿が結構、様になりそう。
あと作中ではほとんど『のむ』と表現しています。喫煙とも言うし、本来、『吸う』より『のむ』のが昔からの使われ方らしい。(逆に言うと昔の表現とも言えるのだろうか……)
曹仁さん⇒たまーに嗜む程度。外にいる時のみ。昔はそこそこのんでいたが、李典さんに注意されてから自然と疎遠に。
李典さん⇒自分ではのまない。人のは好き好きなので嫌がらないが、度が過ぎる人、マナーを守らない相手には言う。
曹洪さん⇒三、四日で一箱。
徐晃さん⇒一週間〜10日で一箱程度。
くらいでしょうか。煙草のまないからよく分からない。曹操は葉巻っぽいなぁ。許チョさんはまったくのまない。
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