春夜
花は清々しい香りを放ち、月は朧に霞んでいる。
この香りが桃の花であると教えてくれたのは主であった人だった。
「花の名…ですか?」
「これは桃だ。花を花と一言で終わらせてはならんぞ。個々に与えられたその名を呼ぶからこそ、より情も沸き、益々愛でようと思うものだろう」
手にした花枝に顔を近づけて、あの方は穏やかに微笑む。
「虎痴よ、儂がそなたを虎痴と名付け呼ぶのと同じ理由だ。まぁ…そなたを虎痴と呼んで良いのは儂だけだがな」
ごく当然の様に言い放ったあの方は、花をひとつ髪に挿し悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを振り返った。思わず伸ばしかけた腕を押し留めるが、そんな己の行動が気恥ずかしくて視線を伏せる。私の葛藤を知ってか否か、あの方は楽しげにこの腕にじゃれついてきた。
「虎痴よ、虎痴よ…」
小柄なあの方は私を見上げて何度も私の名を呼ぶ。名を呼ばれる度に私は「ハイ」と答えた。ただそれだけのやり取りは、まるでささめごとの如くこの耳に響く。そんな穏やかに流れる時間を愛し、その中で穏やかに微笑む主を誰より愛していた。
「虎痴、そなたは春を連れて参ったか…」
病に臥せるあの方の枕元に届けたのは、一足早く花を咲かせた桃の花。気の利いた言葉ひとつ浮かばずに、ただ黙って差し出した花を受けとって、あの方は穏やかに笑って下さった。
桃の香りはあの方の愛した春の香り。
そんな春の香りに包まれて、あの方は静かに九泉へ旅立った。しかし、この身が供をする事は許されない。土産話を聞かせて欲しいからと、あの方は残酷にも無邪気に笑って言った。
《天寿を全うせよ》
それがあの方の遺した最後の命だった。
春が来る度に思い出す。
桃の香りを聞く度に思い出す。
杯に満ちる酒に花びらがひとつ舞い降りた。あの方を偲ぶ夜は静かに更けてゆく。
了
春夜/蘇軾
春宵一刻値千金
(春の夜には値千金の価値がある)
花有清香月有陰
(花は清々しい香りを放ち、月は朧に霞んでいる)
歌管楼台声細細
(歌や管弦で賑わっていた楼は静かなたたずまいをみせ)
鞦韆院落夜沈沈
(遊ぶ人のない中庭に夜は静かに更けてゆく)
『箱庭の正義』のまるもち様よりいただきました!
許→操で曹操追悼話。お持ち帰りOKとの事だったので遠慮なくお持ち帰りしました。有難うございます!
切ない、けど愛しい、と申しましょうか、不器用な優しさの許チョさんがたまりません。
『天寿を全うせよ』というのは、ある意味、後を追いたい者にとっては枷のように重いものだけれど、同時に相手を大事に思っていた言葉だと理解していると思うのですよ。だからこそ追えない……切ないなぁ。大好きです主従。詩に合わせて情景が浮かぶ。
土産話をいっぱい持って、あっちで一緒にお酒を飲まれていますように。
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