春風
ぼんやりと庭にある桃の花を見ていると、側仕えの者が来客を告げた。やってきたのは相変わらず表情の読めない馴染みの男だった。
「徐晃か」
「どうも、洪将軍」
見慣れている鎧姿ではなく、近所に出かけるような気軽な服装だった。曹洪は自分の隣をぽんと叩いて促す。徐晃も心得たようにそのとなりに腰を下ろした。
「見事ですな」
「おう、今がちょうど見ごろだ。今日は天気もいいし風もほとんどないし暖かいしな。花見にはもってこいだろう」
曹洪の屋敷の庭にある桃の花は白や薄桃色が主で、見事に咲き誇っていた。曹洪の側にはすでに酒の瓶が置いてあり、片手には杯を握っていた。
「お一人で花見ですか」
その酒に気がついた徐晃が笑う。曹洪は杯に残っていた酒を飲み干して、悪いか、と言い返した。
「しばらく、ほとぼりが冷めるまでは自粛せんといかんからな」
僅かだけ、疲れたような声が出た。徐晃は何も言わない。
少し前に自分が食客として扱っていた者が罪を犯してしまい、その余波を受けて、甥である今の帝の曹丕に処断されそうになった。結局は曹丕の母である卞太后のおかげで死罪は免れたが、所領も爵位も削られた。財産まで没収されたが、こちらも卞太后の計らいで手元に戻った。
昔、曹丕が金を貸してくれと頼みに来た事があり、曹洪はそれを拒否した。その事を恨まれて、今回の騒動になったのだと言う話がある。実際のところは分からないが、おそらくそうだろう。自分の財は元々、今は亡き従兄の曹操のため、いざと言うときの蓄えだった。曹操がいない今は魏国のため、ではあるが、使う気にはなれない。それに蓄えるうちに、蓄える事が楽しくなって、使うのが惜しいと言う気分もある。そのせいでけちだと言われるが、気にしていない。
「篭りっ放しでも、鬱々としてしまうでしょう」
「そうでもない。こうやってお前みたいのが訪ねてくるしな」
「なるほど」
笑ってやると徐晃も笑う。昔から比べて、大分自然に笑うようになったなと曹洪は思った。常日頃は無表情に近く、感情の起伏がほとんど見られなかった。それが見られるのは戦場で、時には酷薄な笑みを浮かべる時すらある。武人の塊だ、と言う者もいるが、確かにそうだろう。
「ではこの花見に私もご一緒してよろしいでしょうか?」
「おう、その、脇に置いてある酒はそのためのだろう」
「気が付かれておりましたか。ええ、良い酒が手に入ったので共に飲もうと持ってきました」
きちんと蓋のされた小ぶりの壷を曹洪の前に出す。
「そうなると酒のつまみがいるな、おい、誰か」
曹洪は屋敷で働く者を呼び、二人分のつまみを用意させるように頼んだ。
「ああ、良い風ですな」
ふと、風景を眺めていた徐晃が和やかに呟いた。穏やかな風が吹き、桃の花を柔らかく揺らしている。池には陽光が照り返り、そのみなもを風が揺らめかせ、きらきらと輝いていた。
「こうしていると日々の戦が遠い出来事のようだ」
「おいおい、戦好きのお前が言う台詞ではないだろう。それとも歳を食ったか?」
杯を渡してやり、徐晃が持ってきた酒を注ぐ。
「別に私は戦が好きというわけではございませんよ。武人と戦うことは好きですが。歳は……まぁ、否定はできませんかね」
お互い、少し髪に白いものが混じってきている。曹操と共に戦い何十年経ったか。まだ曹操が駆け上がる途中の頃に徐晃とも出会った。三十年は経っているだろう。
「ですが老いた、と認識しても、戦う事をやめようとは思いません。かつてほどの力は出せませんが、それならばそれなりの戦い方がありますしな」
「お前らしいな。わしは正直歳だの何だのの以前に張り合いがなくてな。戦があってもどこかで気持ちが萎えているようだ。手を抜きはせんが、緩みがでるやもしれん」
「………………」
杯を置き、曹洪は空を見上げる。青空の中、鳥の声が遠くに聞こえた。
「わしだけ、生き残った」
掠れた声が出る。
曹操も夏侯惇も夏侯淵も、そして曹仁も逝った。曹純も逝ってしまっている。近しい者たちがどんどん九泉の下へと旅立ってしまった。共に戦場を駆けた頃が懐かしい、と思うのはやはり年老いた、と言うのだろう。そしてそれをどうにかしようと言う気も湧かない。年齢的にはやろうと思えばまだまだ動ける歳だ。曹操も六十を過ぎても歳若い者に引けを取らなかった。だが、それよりも若いと言うのに自分は。
「洪将軍」
徐晃が名を呼ぶ。顔を下げて徐晃を見ると、徐晃はこちらを見ておらず、庭の桃の木に目を向けていた。
「春ですな」
「………………」
黙って見ていると、ふ、と小さくほのかに笑って視線だけを向けてきた。
「春です、洪将軍」
もう一度、言う。
「………………」
曹洪も桃の木を見た。春の日の光の中に佇む薄紅の花の木。芽吹き、綻び、咲き誇る。
「……ああ」
遠い日の思い出。懐かしい日々。それらに支えられて生きている。その思い出を共有する者たちを思うのなら。
「春だな、徐晃」
噛み締めるように呟く。
暖かな風が頬を撫ぜ、花びらが楽しげに舞った。
了
題名に反して微妙に暗くてすみません。
曹洪さん没年は232年。
曹丕は226年、曹休さんは228年、曹真さんも231年、卞太后230年。本当に近しい人たちを先に亡くしています。
張コウさんも231年、許チョさんは不明だけどおそらく230年前後、そして徐晃さんは227年。
年上や同年代が亡くなるのは分かるのですが、甥っ子たちが先に亡くなるってどうなん……。
「酒を飲むには良い季節です。今度は先年漬けた梅酒を持ってきましょうか。よく漬かっていると思います」
「そりゃあいい」
「今年もまた新しく漬けるつもりですから、来年も飲みましょうか。うちで漬ける梅酒は良いできですよ」
「……そうか、そいつは楽しみだ」
余談。
戻る