真赤―まそほ―

雪の散花


 「あなたは裏門より出てください」
 その言葉を聞いて呂布は眉を寄せた。
 曹操軍は当然真正面から攻め込んでくる。それを防ぐに正面には兵を配置し防御の構えを取っている。攻めあぐねる曹操軍の只中を、呂布率いる騎馬隊が突っ込み撹乱し他の隊で殲滅する。そうやって少しずつ兵を削ってきた。水攻めをされようが、こちらは糧秣はまだまだ整っており、相手は底をつき始めている。持久戦だ、と言ったのは陳宮だ。
 「裏門に貂蝉殿が待っておりますので、お二人で赤兎と共にここから脱出してください」
 「何だと?」
 はっきりと告げられた言葉に呂布の声が上がる。
 「私に逃げろと言うのか。お前はどうするんだ、陳宮」
 「私はここに残ります」
 相変わらず陳宮は表情も変えず声も平坦だった。人によっては見下されているように感じる色のない視線。この場においてもまったく変わっていなかった。
 「……大将が逃げて、軍師が残るのか? 笑い種だな」
 「状況を判断した結果で申しております。篭城しようと思えばできますが、兵の心までは私は抑え切れません。すでに脱走者が出始めています」
 「………………」
 「そのうち裏切り者が出て曹操の手引きをするでしょう。そうなってからでは遅い。その前に呂布殿には脱出していただきます」
 呂布はがり、と奥歯をかみ締め、不快をあらわにした。
 「この私が」
 「逃げていただきます。不服でしょうがそうしていただきます。私のためにも」
 「何?」
 陳宮は細くも太くもない体に具足を見につけている。腰に剣を佩き、背には得手の弓矢があった。ほぼ同じ目線の高さである呂布を見て、ほんのわずかに、笑った。呂布は息を飲む。言い知れない何か。
 「私は曹操を倒し、あなたを立て、その下で世を平定するのが夢でした。昔は自分のやりたいことができれば、主は誰でもよいと思っておりました。だから、もっとも力のあったあなたを選んだ。────けれど」
 「………………」
 「人の話を聞かず、奔放すぎるあなたには本当に頭を悩ませました。手のかかることこの上ない」
 「……だったら、とっとと見切りをつければ良かったんだ」
 「まったく本当に。正直、今でもあなたが嫌いですよ」
 書簡を読み上げるような平坦さで言う言葉は呂布を鼻白ませた。
 「だのに、あなたは私にとっていつの間にやらただ一人の、呂奉先と言う名の主となっていた」
 「──────」
 「……あなたの想いに応えるつもりはありません。私にとってあなたはやはり、主である呂奉先なのですよ」
 いっそ清々しく陳宮は呂布を傷つける。何度も言われた言葉だが、何度言われても痛みは優しくなどならない。この男の心は呂布に向けて確かに注がれている。けれどそれは呂布がほしい心ではない。違う、求めるものだが、それだけでは足りないのだ。
 「私があなたを選んだ理由。あなたが一番強いからだと申しましたね」
 「ああ」
 「まだ私が曹操の軍勢にいた頃です。雪降る中、並み居る豪勇をものともせず、赤兎に乗り駆け抜け、その武を揮うあなたを見ました。あのときのあなたの姿は今でも鮮明に思い出します。思えば、私はあのときからあなたを見ていたのでしょうな」
 「………………」
 遠くを眺める。それは在りし日の呂布を見ていた。そして視線を今の呂布へと戻す。
 「あなたは玉座に座るよりも、戦う姿が一番なのですよ。私の夢はあなたに天下を取らせること。そして私が世を平定すること。何とも皮肉なことに、私が一番だと思うあなたの姿と、私の夢は矛盾する。平定してしまえば戦はなくなりますからな。あなたを籠の鳥にはしたくありません」
 「……はっ、私が籠の鳥になるとでも思っているのか」
 「猛禽ですからな。檻にいたしましょうか」
 こんな状況だと言うのに陳宮は普段と変わらない。慌てもせず、かといって勇み走ったりもしない。
 「ですから。あなたはここから脱出して、自由に生きてください。私が何よりもと思う姿で生きてください。あなたは誰かに使われることも、誰かを使うことも元から向いていないのですよ。側に誰かそれができる者がいれば良いかも知れませんが、今の世に、あなたと共に戦を生きることができる人間はいない」
 「────お前が」
 「私も無理ですよ。だからこんな現状だ。ならば私が今できるのはあなたを解き放つだけです。私を求めていただいても、あなたに見合う力まで、至らなかった。不甲斐無きことです」
 嘆くでもなく、当然のことのように告げる。まるで人事のようだ。割り切り、その中からできることのみを遂行していくだけ。
 「呂布殿。現状を見誤れてはなりません。私にこだわり続けるのは愚です。……あなたと共に戦で生きる人間はおりませぬが、あなたには赤兎がおります。貂蝉殿はあなたの家(や)となりましょう。戦い続けるだけの者は哀しいです。だがあなたには帰る場所がございます。特定の地を持たずとも」
 「……それでお前は死ぬのか」
 「さて、どうでしょう。あの曹操にやられるのは死ぬよりも屈辱ですから。あなたが去ったあと、折を見て私も逃げましょうか」
 そうはしないだろうと言うことを呂布は知っていた。この男にとって確かに曹操に倒されるのは屈辱だが、背を見せ逃げるのもまた屈辱だろう。
 「長話が過ぎました。さぁ、お早く」
 声は静かだが、有無を言わさぬ強さを秘めていた。呂布は腹の底が熱いと思った。目の前のこの男は誰だ。沈着冷静に状況を判断し、冷徹に指示を飛ばす。変わりない、陳宮の姿のはずだ。けれど納得がいかなかった。しかし、促すその視線と手に呂布は逆らえなかった。




 「────軍師殿」
 呂布が去った後、入れ替わりに現れた人物の声に振り返る。
 「高順殿。兵の配置は整いましたか」
 「抜かりはない。……殿は行かれたか」
 「ええ、大分ごねられましたが、何とか」
 高順は呂布が去ったであろう出入り口を眺めてから、陳宮を見て、ため息をついた。
 「難儀なものだな、お主も」
 「何がでしょう」
 「それほど大切ならば共に脱出すればよいものを」
 「これは高順殿の言葉とは思えませんな。あなたの奥方様やお子はどうなされた」
 「………………」
 陳宮の切り返しに高順はもう一度ため息をついた。高順の妻子は高順と共に、この地に留まることを強く願っていた。しかし高順は妻子たちを部下に守らせ逃がしている。
 「さて、参りましょうか。死ぬつもりは元よりございませんから、皆様には正しく動いていただきましょう」
 「お主に使われるのはどうにも納得いかぬが、この状況ではお主の策が上策だからな」




 閑散とした裏門に、一頭の赤い馬と、粗末な被り物をしながらも、どこか漂う艶やかさを隠しきれない女性が立っていた。
 「奉先様」
 歩いてきた呂布を見つけた貂蝉はその字を呼ぶ。そして呂布の顔を見てから、そっと微笑んだ。
 「……奉先様、どこか痛いのですか?」
 「………………」
 「今、ご自身がどういうお顔をなさっているかご存知ですか」
 柔らかな細い指先が呂布の頬に触れる。手の平で覆われ、その両手の温かさを感じながら、呂布は貂蝉のたおやかな体を抱きしめた。
 「……陳宮様は本当に、女心というものが分かっておりませんわね。……いえ、あの方の言葉で言えば奉先様の心、でしょうか」
 「奉先様の心には応えぬというのに、あの方はご自分の想いだけは押し付けていかれる……まったく、勝手なものです」
 貂蝉は背の高い呂布の背を、ゆっくりと撫ぜてやる。鍛えられ、しっかりと引き締まった体だが、それでもやはり、男のものとは違う。並みの武人では歯が立たぬ強さを秘めているけれど、違うのだ。
 「………………奉先様。奉先様は、どうなさりたいですか?」
 「…………」
 それとなく手の位置を変えると、呂布は意図を察したように体を離す。それでもお互いの体を抱いたまま、顔を見合わせた。
 「このまま、わたくしと共に当てのない旅へ出ましょうか。わたくしはどこまでもお供いたします。奉先様が戦い、疲れたら戻ってくる家となりましょう。奉先様が戦場で倒れるならば、それを看取り、その地にあなたを還しましょう」
 「……貂蝉」
 名を呼ばれ、ふわりと、花が綻ぶように笑う。貂蝉は微笑みのまま、言葉を続けた。
 「ですが、奉先様が本当になさりたいことは何ですか?」
 「………………」
 「わたくしは、奉先様の、けして心に嘘偽りを持たぬところに惹かれました。他者にも己にも、誤魔化しなどしない。そこがたまらなく好きのです。けれどその心に、陳宮様は別のものを植え付けていった」
 無垢、という言葉が相応しいだろうその心。獣のようだと人は言う。ならばその獣に人の心を教えたのはあの軍師だろう。
 「陳宮様を想う奉先様を見て、わたくしはますますあなたを愛しく思いました。……今の奉先様も、とても愛しいです。ですが、このままで本当に宜しいのでしょうか?」
 「……だが、今更戻っても、あいつは私を追い返すだろう。あいつは、人一倍頑固だから、私が戻ったとしても迷惑だとしか言わぬだろう」
 貂蝉はその様子が浮かんで、くすくすと困ったように笑う。想像に易い。難儀そうなあの軍師も実は、酷く単純なのだろう。だから貂蝉は、今度は朗らかに笑う。
 「それがどうしました。奉先様、わたくしには戦のことはよく分かりません。ですが、だからといって殿方の言うことをただ聞いているだけでよいのでしょうか。そうは思いません。女も貫き通すことがございます。ましてや、奉先様はそれを貫き、他の方すら従えるお力を持っておいでではございませんか」
 「………………」
 「奉先様。陳宮様がお好きですか?」
 「………………ああ」
 「ならば、奉先様のお心のままに。貂蝉はそのお帰りを待っております」
 そっと呂布の体を放し、呂布の手から離れた。その手に赤兎の手綱を握らせる。呂布はその手綱を掴んだ手をじっと見た。そして更に握りこむと何かを振り払うように顔を上げ、目の前の貂蝉をもう一度抱きしめた。
 「貂蝉」
 「はい」




 「陳宮、もう無駄な抵抗はやめろ! 貴様ほどの才をこのまま失うのも惜しい、我が軍門に再び下れ!」
 陳宮の予想通り、城内から内通者が出た。ただそれが、一般兵ではなく位の高い武将内から、しかも複数出たのは予想外だった。味方の裏切りと圧倒的な数の敵兵。瞬く間に城内は混戦となる。だがそれでも陳宮は引かなかった。曹操がその姿を捉え降伏を促しても武器をとる手を離さない。
 「貴様がほしいのはただ己がために便利に動く駒だけだ! 貴様はただすべてを思いのままにしたいだけだ! そのような者に誰が従うか!」
 「ただ武を揮うだけの猪武者の何がいい!」
 「呂布殿は少なくとも、嘘偽りがない! 貴様のように薄汚い根性を持ち合わせてはおらぬ!」
 曹操の誘いを真っ向から切り捨て、陳宮は弓を絞る。放たれた矢は風を切り空を鳴らし、曹操の旗本の一人を射抜いた。
 「……例えどのような場所においても頑固なところは変わらぬか。────やれ!」
 どう、と後方に控えていた新たな陣が動き、攻め込む。すでに浮き足立っていた兵たちは、抵抗する間もなく打ち倒されるか降伏していった。陳宮は囲まれ、逃げ場を失う。高順も孤軍奮闘しているが、時間の問題だった。
 その剣戟の音や怒号が飛び交う中、真っ直ぐに駆け抜ける一騎がいた。何の迷いもなく、ただ突っ込んでくる。前をふさぐ兵はその手に持つ戟で弾かれるように斬り飛ばされた。
 「何だ?!」
 「──────」
 疾駆してその一騎は陳宮の前に立ち止まり曹操を睨み付ける。ざあ、と流れる綸子。嬉々と笑みを刻む口元。
 「すまんが曹操、陳宮を貴様にやるわけにはいかん。返してもらうぞ」
 「呂布殿!!」
 現れたの葦毛の馬に乗った呂布だった。
 「おう、陳宮。ちゃんと無事か。お前は弓は得意でも力はあまりないから、な!」
 側に突き立っていた槍を引き抜くと、それを無造作に投げつける。それは高順に切っ先を向けていた兵の背中を突き刺した。
 「殿!」
 「高順、遅くなったな。よく持ちこたえた」
 「は、あ、いえ」
 突然現れた呂布に高順は呆気にとられる。それは陳宮もそうだった。しかし陳宮はすぐに眦をつりあげる。
 「何故戻ってこられた! 呂布殿!!」
 「そう怒鳴るな、陳宮」
 噛み付かんばかりの憤りをみせる陳宮に、呂布は笑って肩をすくめる。そんな態度を取りながらも、襲ってくる敵への攻撃はやめない。
 「陳宮、私は私のやりたいことをする。お前は私が戦う姿が一番だと言った。ならばすぐ側で存分に見るがいいさ。ここを突破して、その後もずっとな!」
 片手で陳宮の腕を掴み、馬上へと引き上げる。側に顔を寄せ、にい、と笑った。
 「……あなた、という人は……馬鹿だ馬鹿だと思っておりましたが、ここまでとは」
 「ははは! それがよくて私の軍師をしているんだろう!」
 「良いなどと一言も申しておりませぬ。赤兎はどうなされましたか」
 「貂蝉に預けてきた。高順! 一気に駆けるぞ! ついてこい!!」
 「はっ!! 軍師殿、どうやら我らが主はお主以上に難儀な方だったようだな!」
 高順はおかしくてたまらないといった風に笑みを浮かべて陳宮を見る。陳宮は苦虫を何十匹も噛み潰したかのような表情で馬をあやつる主を睨む。
 「行くぞ、振り落とされるなよ、陳宮!」
 「いっそ私がこの場であなたを蹴り落としましょうか!」
 「はははっ、それでこそだ、なぁ、陳宮!」






 「……連れて行ってもらえなくて、寂しい? ……ごめんなさいね。私がいなかったら多分、一緒に連れて行ってくれたでしょう」
 声を聞くように、耳がひくひくと動いていた。遠く聞こえる喚声。赤兎の体は温かだった。降り積もる雪が風に舞う。
 「……奉先様、嬉しそうだったわね、赤兎」
 太く逞しいその首筋に頬を寄せ、貂蝉は呟いた。赤兎はそれに応えるように首を動かす。
 「……待ちましょう、一緒に。たとえ何があっても戻ってくるわ。……きっと、ね」
 雪の花が、散った。











あんまり女性化の意味がない気もするけれど一応呂陳呂。
下ヒ城の戦い。ところどころ他作品のネタもふまえてます。
張遼さんは別場所を守っていたのでこちらにはおりません。
いろいろ勢いで書いたから粗が目立ちますが、おおむねこんなイメージです。
ここの呂布さんと陳宮は最後までくっつかないけど相思相愛みたいなもんだという。
難儀だなぁ。


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