真赤―まそほ―

命の音


 不意に許チョは抱き込まれた。寝台の端に腰を下ろし、そろそろ持ち場へ戻らねばと仕度をし始めたところで、後ろから手が伸びてきて抱き込まれたのだ。相手は分かっている。だが、寝ているものだとばかり思っていただけに許チョは少し驚いた。
 背後の気配に気がつかないとは、いかなる時でも気を抜いてはいけないというのに。
 職業病と言うべきか、そんな風につい考えてしまう許チョだが、言葉には出さない。許チョを抱き込んだ相手は、そのまま引き倒す。仰向けになった相手の上に倒れこむ形になってしまい、許チョは素早く体を起こすが、逃がさない、とばかりに再び頭を抱え込まれ、胸元へ押し付けられた。
 「………………丞相」
 笑い声が上から聞こえた。許チョは静かな声で、諌めるように言う。
 「油断大敵だな、許チョ。……もう行くのか」
 「はい」
 臣下たる者が主君と同じ寝室で眠ることは許されない。寝室に入ることが許されていても、その本人が許しても、だ。
 「お前が一緒にいる方が安全だと思うがな」
 「それとこれとは別です」
 きっぱりと言う許チョに、曹操は面白くなさそうに眉を寄せる。とはいえ、共に眠ることはできずとも、側を離れるわけではないのだ。許チョとて、眠る時は眠る。曹操の寝室の隣にある小部屋で武器を片手に眠っていた。そして曹操より早く起き、具足を身につけ警護に当たる。そんな毎日だ。
 「ですから、丞相、お離しください」
 きつく戒められているわけではないが、非常時でもないのに主君に強引なことはできない。なるべく、曹操の方から解放してくれることを願う。だが、案の定、曹操は離さない。
 「いいだろう、もう少しくらいは」
 そう言いながら、なおも離さないと言うように、許チョの頭を抱え込むように横向きになって深く抱き込んだ。
 「………………」
 許チョはされるままに任せている。無理に離れるより、少しだけ間を置けば、自然と離してくれるはずだからだ。深く抱き込まれることで、夜着を通して温もりがすぐに伝わってくる。まだ曹操の体温は高かった。許チョ自身が与えた熱だ。先ほどよりは規則正しい、心(しん)の音も聞こえてくる。
 「……どうした?」
 少し、自ら顔を胸元へ寄せた許チョに曹操が問い掛けた。
 「……いえ、心の、音が」
 「音が、どうした?」
 「………………心地良いな、と」
 一定の間隔で身の内から聞こえてくる心の音。それは聞いていると、不思議に心落ち着くものだった。
 「ああ、そうだな。私もお前の懐にいるときは、よく聞いている。心地良くて眠ってしまいそうにもなるな」
 そういえば、曹操はよく左側の胸元に頭を寄せていた。心地良くて眠ってしまいそうになる、と言うのも頷ける。どこか懐かしいような気もする音。命の音だ。
 「………………」
 命の音。それはどんな者でも変わりはない。尊い存在であろうと、卑しい身分であろうと。だが、変わりはなくともやはり命の重さは違う。しかし、許チョの重さは人のそれと少し違った。
 身分の差をわきまえている。尊敬すべき人は尊敬する。けしてでしゃばりはしない。だが、許チョが最も重きを置くのは曹操だった。それは当然のことだが、許チョは例え曹操が丞相でなくとも、曹操に重きを置く。許チョは、『主君』や『丞相』を守っているのではなかった。『曹操』を守っているのだ。曹操が王になろうと、帝になろうと、それは変わらないと言える。例え人に卑しい身分と言われる立場だったとしても、曹操が曹操であるならやはり、許チョは曹操を守るだろう。許チョにとっては、帝よりも曹操が大事であった。帝を蔑ろにするわけではない。守るべき者は守る。だが、やはり何事も曹操に重きを置くだろう。
 己は元々農民で、普通ならばこのような場所にいるはずもなかった。それが、あの時、変わった。曹操は許チョを見て、身分が何だと言う前に、許チョ自身を欲してくれた。自ら、己を戒める縄を解き、手を差し伸べてくれた。ただ、その者の持つ才を愛する。ならばその想いと期待に応えようと許チョは思った。
 時折、困ったところを見せるが、それでも芯の部分は変わらない。仕え続けるに至って、今では、期待に応える以上にただ、曹操を守りたいと思うようになっていた。
 生きている音。己と変わりない心の音。けれども最も大事な音だ。耳に届く穏やかな音に、許チョは目を瞑る。そろそろ起きなければ。己に課したやるべきことをしなければならない。だが。
 「………………丞相」
 「何だ」
 「……一つ、乞うても宜しいでしょうか」
 「ん? 珍しいな、お前がそんなことを言うとは。いいぞ、私ができることならな」
 滅多にない、と言うより一度もなかったであろう言葉に曹操は機嫌が良さそうに答えた。
 「……では、………………もう少しだけ、こうしていることをお許しください」
 許チョは曹操の胸元に耳を当てるように身を寄せ、その腰に腕を回した。曹操は目を丸くするが、すぐに小さく笑いを吹き出して、抱え込む許チョの頭をなお抱き締めた。
 「私の心の音が好きか」
 「はい」
 「では朝まで聞いておればよいのだ、いっそ」
 「それは、ご辞退を」
 「素直にはいと言え、はいと」
 「いいえ。……申し訳ございません」
 頑ななそれに曹操は今度は少しばかり寂しげな目をしたが、抱え込まれている許チョには見えない。だが、強められた腕の力に何かを感じ取り、自身も、回した腕の力を強めた。
 「……では、もう一度、相手をせい」
 「………………それは」
 許チョは困惑する。曹操は許チョの頭を掴んで上げさせる。視線がかち合った。
 「良いことを思いついた。お前が朝までいるよう、足腰を立たせなくしてやればいい」
 にやりと目を細めて笑う曹操に許チョは自分で頭を抱えたくなる。
 「……それは、無理かと」
 「何を言うか。こちらの技量に関しては私の方が上だ。……何も腰を使うだけが方法ではないぞ?」
 許チョの背中にいやな汗が流れた。曹操がたまに見せる、獲物を狙う目だ。普段はもっぱら戦の時に見せるのだが。
 「ならばなおさらご辞退いたします」
 「逃げるな。私に任せろ」
 「いえ、任に支障が出ますゆえ。……貴方を守ることをおろそかにはしたくありません」
 そう言うと、曹操は細めた目を、一度眉を寄せてから瞑り、再び開けた。
 「……どんな状況でも状態でもおろそかになどするはずもなかろうに。だが、そう言われると無理強いはできんか。……ずるいな、お前は」
 「申し訳ございません」
 「いい、いい。……だが、あと一度、付き合え」
 言いながら曹操は許チョの額に口付ける。それから唇に。流石にここで辞退すれば、曹操の機嫌は最悪になるだろう。許チョは静かにその口付けを受けた。そしてゆっくりと組み敷くように覆い被さると、曹操の息を乱していく。心の音も、乱れていく。己が乱していると言うことに、許チョは息が詰まる。
 夜明けまではまだ遠い。









甘え……甘えてるのでしょうか。
むしろいつもどおり曹操が許チョに甘えているような気がしないでもないです。
朝っぱらから何書いてんのと突っ込まれそうですが、昨日のうちに下書き保存しといた奴なので問題なし(何が。
許チョさんは曹操が曹操であるが故に守っていそうだなと。
国より曹操個人に仕えている印象です。

横山3594設定で書いていますが、許チョさんは北方許チョさんに近いかも。

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