深き眠り
目を覚ますと、窓の外に見える空は仄明るくなっていた。
曹操は身じろぎをし、ゆっくりと自分を包み込む腕の中から抜け出す。掛け布団からも出ると、外気が思いのほか冷たい。寝間着の上から上着を引っ掛けると、足音静かに窓辺に歩み寄る。日はまだ昇っていなかった。
「………………」
日が昇る前の空には明星がちらりほらりと輝いている。ごくごく薄い朱と紫の空は次第に日の光に染まっていくだろう。夕暮れと同じ、刹那のときだ。
「殿」
しばらくぼんやりと外を眺め、上着を羽織っていても寒さを感じ始めたころ、後ろから声がかけられる。振り返れば、先ほどまで自分を包んでいた男が新たな上着を持って立っていた。
「虎痴」
男の、自分だけしか呼ばない異名を呼ぶ。それを了承と取ったように、許チョは持っていた上着を曹操に着せる。
「お前は寒くないのか?」
「はい」
着せられた上着は許チョのものだった。許チョは寝間着姿のまま、曹操の傍に立って、同じように外を見た。
「いつから起きていた?」
視線は向けずに問いかける。
「殿がお目覚めになる前には」
端的な答えが返ってきた。やはりか、と思って笑う。腕から抜け出したとき、すでに起きているだろうと思ったが、あえて起こさなかった。
「お前はいったいいつ寝ているのだ」
「眠れるときに眠っております」
「しかしわしはお前が熟睡しているところを見たことがないぞ」
「殿のお傍にいるときに熟睡はいたしません。それでは殿を守れませんので」
まったくそうだった。しかしそうすると、自分の傍にいるときは仮眠程度しかとっていないことになる。己が眠りから覚め、名を呼べば、許チョはすぐに反応する。常にその守りが崩れることはなかった。
「よく体が持つな」
「昔からのことなので」
体が慣れたと言うことだろう。だが、慣れても限度がある。
「では、仕事が休みのときは熟睡しておるのか」
「いえ」
おや、と思う。許チョとて、年中通して己の護衛をしているわけではない。交代で休むときもあった。ならばそのときにゆっくりしているのだろうと思ったが、そうではないらしい。
「何故だ、わしの傍におるわけではないのに」
「………………」
「虎痴」
黙る許チョに追求するような口調で言った。許チョは逡巡してから重たい口を開く。
「……落ち着かなくて」
「何?」
「私は、殿をお守りするのが役目です。殿のお傍に控えている方が、落ち着きます」
それを聞いて、ぶ、と思わず笑いを噴き出した。許チョは少しいたたまれないかのように顔を伏せる。ともすれば、交代で護衛を務める部下を信用していないとも、自分の力を過信しているとも取れる考えだが、そうではないのだろう。ただ純粋に、曹操を守りたい。それだけだ。
「そういえば以前、お前が休みのときも、嫌な予感がしたとかで休まず戻ってきたときがあったな」
「はい」
官渡の戦いのときだ。謀反を企てていた者が、許チョが休みのときを狙って曹操の命を狙っていたのだが、許チョは休みを取らず引き返してきており、その暗殺を防ぐことができた。
「あれは確かに助かったが、わしを守るためにお前がずっと起きていたら、いつか本当に体が持たなくなるぞ?」
苦笑して大柄な許チョを見上げれば、許チョはふるりと首を小さく振る。
「いえ、己の体のことは己で分かります。それにまったく寝ていないわけではございませぬ」
「そうは言うがな、お前にもしものことがあったら、それこそ、誰がわしを守る」
「私が、守ります」
答えになっていない、けれど強い意志を込めた言葉を許チョは返した。
「……そうか」
愚直なまでの意志に微笑む。思い起こせば今までずっとそうだった。だが、これからもそうであるとは限らないが、許チョはそれを成し得そうに思えた。己が死なぬ限り、許チョは死なない。眠らない。つまりそれは、己よりも後に死ぬことだ。守りきった後に、許チョは眠り、死ぬのだろう。
「ならば、もう少し睡眠をとろうか。夜は明けつつあるが、まだしばらく時間はある。わしが傍におれば、少なくとも落ち着いて眠れるのだろう?」
「いえ、私はこのまま職務に就きます。殿はお休みください」
その言葉を聞いて、不満に思う。許チョはいつも、己が目覚めるより先に寝所から抜け出し、目が覚めれば、ずっと前からそこにいたかのように不動の佇まいで立っていた。その姿は確かに安心できるのだが。
「虎痴」
「はい」
「今日は少し寒いな?」
「はい」
「寝台はもう冷えてしまって、眠るにしても寝付けないと思うぞ」
「もう少し上に掛ける物を持ってきましょう」
冷静な物言いに苦笑する。いつ、なんどきもこの姿勢は変わらない。
「虎痴」
「はい」
改めて名前を呼んだ。
「お前の体は温かいだろう。それにお前の懐はどの場所より暖かく安心が出来て心地良いではないか」
「………………」
「のう、虎痴よ」
言って、その頬にそっと触れる。許チョは一度瞬きをしてから、触れた手を、その大きな片手で包み込む。
「────分かりました」
いつもの短い言葉で返事をすると、慣れたように膝裏と背に手を当てて、己の体を抱き上げた。やはり、その懐は温かい。小さく笑って胸元に顔を寄せる。寝台まで運ばれ、冷えてしまった寝具の上に横たわるとすぐに許チョがその隣に入り、掛け布団を被る。そして先ほどまでと同じように、己を包み込んだ。ああ、これだ。
「お休みください、殿」
心地の良い声に目を伏せた。
了
曹操追悼話。
久々に北方っぽい感じで書いてみました許操。
曹操が傍にいないと落ち着かないのは多分あったと思います。しかし結局、曹操が亡くなった後も、許チョさんは熟睡することはなく。生きよと言われたから。
この後は、許チョさんは寝ませんが、曹操の気持ち良さそうな寝顔にほっこりしているといいよ。
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