真赤―まそほ―

境界線 其の二


 『男』が欲しいと思ったことは一度もない。女気のない戦場では長丁場になればなるほどそういうこともあるものだが、自分自身はなかった。戦になると情欲はすっかり消え失せる。その代わり、戦の高揚感が溢れ出し、そのことだけに集中する。そのため、昔から酷かった頭痛すらも戦の時は起こる気配も見せなかった。戦が終われば情欲が溢れ出したが、後宮に数いる女達を抱いた。細身の女や肌の白い女が好みだった。
 それが不思議なもので、今、欲しいと思ったのは長年側に仕えていた見事な体躯を持つ男だった。女体に溺れている気持ち良さとは違う懐の暖かさが心地良かった。常に何者でもなくただその男はその者であるだけで、揺ぎ無い心根が好ましく思っていた。だからこそ、だろう。性別云々と言うよりは、その者だからこそ、欲しいと思った。何の損得もなく、ただ、己を守り側にいると決めてくれた者。そこに立っているだけで落ち着く。側にいるだけで安心した。月日を重ねるにつれ、それは曹操自身の中で深いところまで根を下ろし、側にいないと言うことは考えられなかった。
 それを思い知ったのはついこの間だろう。自覚したのは今さっきだ。多くの言葉は要らず、ただ、虎痴であり続ける男がどうしようもなく欲しくなった。側にい続けるだけではない、身を挺して守ってくれるだけではない、何か、もっと繋がりが欲しい。
 深い繋がりは心なのだと言う。曹操はそんなものはありはしないだろうとどこか冷めた気持ちでいたが、同時にそれを酷く求めてもいた。裏切りにあったり、有能な武将が己以外の者を慕う姿を見ると、やはりそんなものはないのだとささくれ立つ気分になる。最期まで仕えていても、己の思いに応え切れなかった者に対しても、やはり同様に思う。
 許チョはそんな中で常に曹操の思いに応えていた。赤壁で己を守るために残ると言った許チョに曹操は生きて戻ってこいと暗に言った。有能な武将が死ぬのは痛い。だが、そのとき思ったのは、『許チョ』を失うのは嫌だ、ということだった。己を守る『虎痴』は『許チョ』でなければならない。
 許チョが馬を失いながらも戻ってきた時は、いつにない安堵が襲った。衝動的に抱きつきそうになったが、押さえ込み、『よく戻った、虎痴』と一言だけ言った。虎痴という呼び名はそれ以来、他の者には許していない。
 あの時、強く感じた想い。この者を失いたくない。側においておきたい。言葉にすると薄っぺらく感じてしまう。けれど想いを表せばそうなのだ。そして許チョとの繋がりがもっとほしいのだと自覚した。思えば、己は許チョを求め、許チョはそれをすべて行動で表し応えているが、己自身はどうだろう。地位や名誉は許チョには必要ない。ただ『曹操』を守ることが許チョにとっての大事だ。
 そして今の想いもまた、許チョに対して応えることを求めている。繋がりが欲しい、と考えて自然にでた結果が体の繋がりとは、浅はかにも程がある。けれど、今はそれが一番深く相手を知る方法でないかと思う。常ならけして求めないことをこの者には求める。そして、許チョはそれに応えた。


 「……殿、そうご覧になることではないと思います」
 「そうか? ……そうだな。まぁ、今日は気にするな。見られて減るものでもあるまい」
 曹操の寝室にきたはいいが、許チョは未だ鎧のままである。放り投げられた兜を小脇に抱え、少しばかり困惑したように入り口に立っていた許チョを招いて、まずはとにかく鎧を脱げ、と曹操は言った。
 重い鎧を一人の手でゆっくりと脱いでいく許チョを曹操は寝台に腰掛けながらじっと見ていたのだ。
 「……しかし、改めて思うが羨ましくなるほど見事な体躯だな」
 「恐れ入ります」
 鎧の下に着ている衣服があっても分かる厚い胸板、広い背中、引き締まった腰周りに、全体にしっかりとついた筋肉。同性から見ても見事としか言いようがなかった。その言動と同じで無駄がない。
 「不思議なものだ」
 曹操の呟きに許チョは無言で視線を向ける。
 「女の体を見て反応するのは当たり前だが、まさか、お前を見て情欲がわくとはな」
 「………………………………殿」
 「鎧を脱いだらこちらへ来い。寝台へ座れ」
 何と答えていいのか分からない許チョを気にしないように、曹操は己の隣を叩いた。あまりにもあけすけで、これから本当にするのか、と疑いたくなるほどだった。許チョは表情こそ変えないが、少しばかり動きが鈍いことを曹操は見て取った。
 「……無理だと思うのならば、ここで止めても良いのだぞ」
 「………………」
 「私は女の方が好きだし、今まで男相手にこういう気分になったことはないからな、多少戸惑っている」
 許チョは側に来て、寝台に座らず曹操の目の前で片膝をついて跪く。曹操はそんな許チョを見下ろしながら続けた。
 「お前もそちらの趣味はないのだろう」
 「はい」
 「ならば何故、受けた」
 「……それは」
 「無理にこんなことまで私に付き合わなくとも良いのだぞ」
 「いいえ」
 苦笑して言ってみれば、許チョは今度は即答した。その態度に、曹操は少しだけ目を見開いてから、眉根を寄せてまた苦笑した。
 「本当に良いのか? 今ならば、酒に酔った勢いでのことにできるぞ。私も、これはただの夢だったのだと眼を瞑ることができる。こう思うことにも今宵限りで、またいつもどおりの私とお前でいられる」
 酔っ払っておかしな夢を見たのだと思い込んでしまえば、お互いの関係も今までどおりだろう。何の陰りもなく許チョを頼りにし、身を任せ過ごして行けるだろう。許チョも、守ることに専念できる。ただのおかしな夢だったと、行き過ぎた夢だったと笑い話にしてそのまま終わるのだ。関係を進めてしまえばどうしても、それまでどおりとは行かなくなる。
 「……殿は」
 「ん?」
 「……このままで宜しいのでしょうか」
 「何がだ」
 「酒に酔った勢いで、この関係になられて、後悔はなさりませんか」
 「………………」
 言われて、曹操は不満そうに眼を眇めた。
 「私が酔った勢いで言っていると思っているのか?」
 「少なくとも、常の状態ではないと存じます」
 「……まぁ、確かにな。だが、酔いの勢いでこんなことを口走るほど前後不確かにはなってはおらん。けれども、酒を呑んだのは事実で、そのせいにもできる、と言うだけだ」
 「では」
 「ああ。お前が欲しいと思うのは私の確かな意思だ。お前はどうだ。私が欲しいか」
 「……恐れ多いことだと」
 珍しく許チョにしてはどちらとも取れない返事だった。
 「曖昧は、いかんだろう、虎痴」
 跪く許チョの腕を引いた。許チョは逆らわず、腰を上げる。寝台のすぐ側に立ち上がった許チョを、曹操は手を掴んだまま見上げる。その大きな手を己の頬にあてた。温かく大きな手。簡単に包み込むその手を、眼を伏せながら感じる。心地が良い。しばらくそうしていると、その手が、静かに曹操の頬から首筋へと滑った。僅かだけ、背中が泡立ち、だが悟られないよう眼は開けなかった。すぐ側に、許チョの気配があった。首筋に下りた手は首裏に触れ、もう片方の手が伸びて頬と顎に指を添えてきた。
 「………………」
 重なった。顔が自然と持ち上がり反動で喉で声が鳴る。やはり、心地が良かった。
 「……後には引けんな、虎痴」
 「はい」
 少しだけ顔を離して、笑いながらそう言うと、許チョは表情を変えず返事をした。声は低く静かだった。








何気なく許チョの方から行動を起こさせようとしている曹操。

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