真赤―まそほ―

境界線


 その強く逞しい腕に抱きかかえられた時の安らぎは、おそらく戦いで得る充足感とは真逆の、けれど己がどこかで強く求めるものの一つなのだと、自覚した。




 月影を己に落とす男の頬に光る一筋。四六時中共にいたにも拘らず、この男が涙を流したのを見たのは初めてだった気がする。例え誰が死のうとも見せなかったはずだ。ふと惹かれて、曹操は己の酔った体を支える許チョの頬に手を伸ばした。指先が触れると、ほんのわずか、ひくり、と表情を強張らせたのが分かった。だが、その指が拒まれることは無く、曹操は親指で目元を拭ってやる。許チョは微動だにしない。そのまま頬を包んだ。少しだけ粗い肌。だが、その内は暖かい。
 「──────」
 己よりも高い肩口から見える冷たい月を遮るように、曹操はその懐に顔をうずめる。許チョが常日頃から身に着けている鎧は無骨な冷たさをもつが、不思議と不快ではなかった。
 「殿」
 どこか気遣うような声だった。酔いで気分が悪くなったのかと考えているのかもしれない。体を支えてくれてはいるが、あの時のように確かな意志を持って抱きかかえてはくれない。当たり前か、と曹操は内心笑う。
 「お休みになられますか」
 余計な言葉は吐かず、許チョは曹操に尋ねた。
 「そうだな」
 言葉を返しながらも、曹操は許チョにもたれかかったまま動かない。
 「……寝室までお運び致しますか」
 動こうとしない曹操に許チョは間をおいて問いかけた。勝手に抱きかかえて運ぶのは不敬に当たると考えているからだろう。思えばあの時も、追われているというのに律儀に言っていた。今度は喉で笑いが零れる。
 「いや、いい。……虎痴よ」
 「はい」
 「やはり、いいな、お前は」
 「は」
 顔を上げ、見下ろしてくる許チョの首に腕を回すと、強めに引いた。自然と、許チョの上体が屈む。近付いた顔に己のそれを寄せた。
 「──────」
 掠め取るようなものだった。だが離れた後の表情はまったく違っていた。珍しく驚いたように目を見開いている許チョに、曹操は意地の悪い笑みを浮かべている。それは子供のように無邪気でもあり、何かを狙うように獰猛でもあった。
 やはり少し酔っているか。どこか体が己のものでないような現実味の無さがあった。けれど酔っている、という自覚は薄い。と言うより分からない。さきほどまで心を占めていた甘く誘うような死の光は未だ胸の内で沈んでいる。その淵で、己の側に立ち支えている者がいた。おそらくは求めれば引きずり上げてくれ、誘えば共に堕ちてくれるだろう。だが堕ちたとしても、その者が何かに変わるということは無く、どこへ行こうとも、ただその者はその者で側に在り続けてくれるのだろう。
 だとするならば、それはどこに堕ちようと、己には何の揺らぎも与えない。
 「虎痴」
 己だけが呼ぶと定めた名を呼び、曹操は再び顔を寄せた。許チョは拒まなかった。拒めなかったのかもしれない。今度は深く。それは想い合う者が交わすそれではなく、むしろ何かを得るために喰らいつく、と言った方が近かった。
 「は、」
 口を離す。間近にある眼。驚きがまだある。兜が邪魔に感じられ、無造作に剥ぎ取った。がらん、と床に落ちる。同時に角度を変えて重ね合わせた。僅かに開いていた歯の間から舌を滑り込ませる。なお深く。だが、体格の差で、上を向きながら喰らいつく曹操は息苦しくなる。普段ならば立場的になることはないその行為に僅かな苛立ちを覚えて、曹操は重ねたまま、腕に力を込めて引き寄せた。
 「、ふ」
 知らず、鼻にかかったような声が漏れる。息を飲み込み、喉が揺れる。許チョの肩が強張った。逡巡があった。次に、最初から曹操の体を支えていた腕に力がこもり、許チョの体が引き寄せたよりも今少し傾いた。近付いた距離に、口だけではなく、抱き込みも深くする。動かなかった許チョの舌が少しばかり遠慮がちに絡んできた。逃がさないように押さえ込めば、反発するようにやり返してくる。その強さは圧倒されるようで、背中を何かが這い上がる。溢れた唾液が顎を伝った。
 「……、く、ふ……」
 ようやく顔を離し、だが寄せたままで、曹操は笑う。許チョは相変わらず表情の色は薄かったが、自身が取った行動に驚いているようでもあった。
 「虎痴」
 「はい」
 「お前を寄越せ」
 「………………」
 体を支える腕に力がこもる。
 「お前も、私を求めろ」
 少し伏せられた瞼はそのままに、視線は曹操を捉えていた。
 「──────はい」
 返事はいつものように短かった。







巻の七の例のシーンの後です。すみませんごめんなさい良いシーンなのに腐向けなこと考えて!!曹操襲い受け。
自分絵でも描いてみたいけれど、やはりここは横山先生の許チョさんで。あの渋さがたまらない。
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