癖
文机に運ばれた竹簡を積み上げ、一つ一つ目を通しては筆を入れていく。正座をし、姿勢は型を取ったように整っており、背筋は真っ直ぐ伸び、筆を走らせる腕にも乱れは一切ない。
結い上げてまとめた髪にほつれはなく、時折生じる体の動きに合わせてほんの僅かに赤い羽根飾りが動く。竹簡に落とされた伏し目がちの視線は、ほとんど動きのないその姿の中で、一番忙しなく動いているようだ。
昼下がり。穏やかになりつつある日差しが差し込む執務室で、呂布は陳宮のそんな姿を黙って眺めていた。呂布の前にも同じように竹簡が並べられているが、その量は陳宮のものより大分少ない。陳宮は己で捌けるものは捌き、どうしても呂布が目を通さなければならないものだけ呂布に渡している。今日もいつものように調練に出かけようとしていたのを陳宮に捕まり、呂布はこうして執務室に押し込められ、仕事をこなしていたのだ。
戦ならばどんなに長くなろうが続く集中力も、執務室の中では散漫になる。やろうと思えばそれこそ恐ろしい集中力を示すのだが、今日はそれはできないようだ。筆を片手に、さっさと手早く竹簡を捌く陳宮を呂布はただ眺めていた。
「………………」
この男は、出会ったときからこうだった。
几帳面で生真面目で、やることなすこと整っていた。だがそれが、不思議と窮屈に見えない男だった。整っていると言うのに、からくり仕掛けのような違和感はない。この男にとってそれが自然の動作だからだろう。動作だけではない、生活でのいわゆるしきたりや周りでの『常識』と思われることにも細かい。
これは決まりなのだ、当然の行為だと言われて、呂布にも色々と押し付けてきたけれど、それを嫌って拒否しても、陳宮は懇々と、どうしてそれが必要なのかと言うことを呂布に説いた。最後は呂布の方が折れる。このやりとりは、周囲には驚きらしい。呂布自身も不思議ではある。押し付けられるのが嫌いな呂布は、今まで大抵、それを押し付けようとした者に何かしらやり返して拒絶した。耐えたとすれば、妻に関係することだけだ。妻が言ったことは我慢したし、受け入れた。陳宮の言うことは、それに似ている。だから不快に思わないのだろうか。
だが、妻とする行為が似ていても、妻と陳宮はまったく違う存在として呂布の中にある。妻には甘えにも似た感情があったが、陳宮に対してはそれはない。むしろどこか、武人として知者として鎬を削っている気がするときもあった。自分がこれをするからお前はこれをしろ。やってみせろ。逆も然り。それはそうだ、自分たちは天下を目指している。天下を掴むためにお互いのやれることをやり、歩いていく。走っていく。戦い続ける。どちらか一方が潰れてはお仕舞いなのだ。
「呂布殿、私の顔に何かついているのですか?」
視線を感じたらしい陳宮が筆を休めて呂布を見た。
「いや」
陳宮を眺めたまま、呂布はくるりと筆を指で遊ぶように回した。
「楽しそうだな、お前」
「は?」
「女を囲うこともせず、夜も遅くまで仕事に明け暮れて、最初こそ、無理をしすぎていると思ったが」
「………………」
「確かにこのままだとお前、いつか倒れるだろうが、よくよく見ていると、この激務すら楽しんでいる節があるだろう」
その言葉に陳宮は顔をしかめた。
「激務になってしまっている一端を担う方が何をおっしゃいますか。そう思われるのでしたらはやく書簡に目を通してください」
「面倒だ」
「呂布殿」
据わった視線で陳宮は呂布を見据える。その眼光は鋭いが、呂布はどこ吹く風だ。しかし、状況が分からないわけではないので、大人しく仕事の続きをする。
「陳宮」
「はい」
竹間を巻く音と筆が走る音がひそやかに室内を満たす。
「これが終われば仕事は一息つくのか」
「明日になればまた新しい仕事が入ってきますが、まぁ、一応は」
「だったら今夜は酒に付き合え」
「………………」
陳宮の筆が止まった。だが、すぐに流れるような字がつづられる。日にそっと照らされる頬が少し赤い。
「……どこで呑まれるのですか」
「官舎の俺の部屋に来い。どうせ今日もお前は官舎に泊まりだろう」
「……分かりました」
静かに吐かれた息が陳宮の心情を表しており、呂布はそれに気がついたが特に何も言わなかった。
呂布の屋敷で呑まない酒の誘いは、別の意味も含まれている。いつからそうなったのか分からない。というより、呂布自身は意識して誘っているのではないが、陳宮自身はそうとっているようだった。それは以前、陳宮が自分で、呂布の屋敷でするのは嫌だとはっきり拒否したせいだろう。それ以来、呂布は律儀に己の屋敷以外で陳宮を求める。だから、呂布が夜、己の屋敷以外に陳宮を誘う場合は、そういうことなのだと、陳宮は思ってしまっているらしい。する気がないときはもちろんしないのだが、呂布は、どこか構えている陳宮を見ていると、奇妙にねじ伏せたくなる。そのため、雪崩れ込んでしまうことが多く、いつの間にやら酒に誘うはつまりそういう事なのだという図式ができあがってしまった、らしい。
陳宮もいい歳なのだが、この行為に吹っ切れた様子がない。軍師として策士として仕事をするときはそれこそ笑顔で人を騙すほどの狡猾さと口の回転のよさを発揮するというのだが、本来この男は、生真面目で実直だ。腹が黒いわけではなく、どこか達観した思考や割り切った視線も持つが、こういった事に関しては、どうにも慣れないらしい。
するかしないかは、そのときの呂布の気分しだいなので、今、何だかんだと言うつもりは呂布にはない。
しばらくお互い、何も言わない時間が過ぎ、一刻ほど経ってから、呂布が筆を置いた。首を回すと、ごきり、と音が鳴った。
「終わったぞ」
「お疲れ様です」
呂布は胡坐をかいて仕事をしていたのだが、固まった体をほぐすように立ち上がる。陳宮に歩み寄ってみれば、仕事はまだもう少しかかりそうだった。すぐ隣に腰を下ろし、また胡坐をかいて、その膝の上に頬杖をついた。
「……あの、呂布殿」
「何だ」
「何故、そこに座るのですか」
「いかんか」
「座るのは構いませんが、……じっと見られるのはどうにも居心地が悪いのですが」
呂布はじっと陳宮の仕事する姿を見ていた。陳宮はあえて視線を呂布には向けず苦笑いをする。何かを誤魔化そうとする笑いだ。
「気にするな」
「気になります。呂布殿にお頼みする仕事はもうございませんから、赤兎と駆けに行ってきてはどうですか。さすがに今から調練は無理でございましょうし」
「お前の仕事はあとどれくらいだ」
「……あと、半刻、というところでしょうか」
「それくらいならここで待つ。お前を見ていれば飽きん」
「………………………………何ですか、それは」
陳宮の表情が固まり、次いで頬が染まっていくのがわかった。その様子を眺めながら呂布は答える。
「お前、感情が顔に出やすいな。よくそれで交渉だの何だのがうまいものだ」
「それとこれとは別です! ……だいたい、仕事する私の何が面白いのですか」
思わず声を上げてしまったが、一つ咳払いをして陳宮はもう一度聞いた。
「面白いわけではない。飽きん、それだけだ」
訳が分からない、と陳宮は額を押さえる。だが、これ以上問答をしても埒があかないと判断したのか居心地悪そうにしながらも仕事を再開した。呂布はやはりそのまま眺め続ける。
伏し目がちに竹簡に落とされる視線、ゆるく引き結ぶ口元、乱れのない髪に崩れない姿勢。生真面目と几帳面を形にしたような男だ。呂布から見れば小さな双肩に色々と背負い志を実現するために走っている。許容はあるが妥協がない。いつか倒れてしまうのではないかと周りが懸念するほどひたむきだ。常に考え、考え込み、振り絞って前を見据える。
所作は定められたように整っていると言うのに、それとは裏腹に生き方は酷く不器用だ。だが、呂布は、それが嫌いではなかった。痛いほどのひたむきさが何を訴えているようで、聞き逃したくないと思う。常に前を見続けていた呂布が、ふと、耳を傾けたくなる相手だった。
陳宮といると、何故か色々と考えるようになる。以前は深く考えることはせず、思った瞬間に行動していた。今は一つ間を置くように考える。陳宮の悩み癖がうつったか。呂布は僅かに苦笑した。
「呂布殿?」
珍しく呂布が笑ったので、陳宮も気になったらしい。手を止めて呂布を見る。
「いや、お前の癖が俺にもうつったのかと思ってな」
「癖?」
「悩み癖だ。お前はいちいち細かく考えすぎるからな」
言えば陳宮は不機嫌そうに眉を寄せた。
「細かく考えねばならぬ時もあります。癖ではございません。それに呂布殿は即決過ぎるところがございます。武人はそういうものなのだとは思いますが、呂布殿は極端すぎますから、丁度良いのではございませんか」
「言うか、お前」
「はい。貴方に回りくどい言い回しは通じませんから」
「ふん」
陳宮の面白いところは、悩むくせに言動ははっきりとしているところだ。これもまた、性格が出ているのだろう。呂布は一つ鼻をならす。
「いいからさっさと仕事を終わらせろ。俺のことは気にするな」
「気にするなと言われて、そうはできない御仁でしょう、貴方は。存在感からしてありすぎますから。……ともあれ、善処はいたします。……その」
「ん?」
不意に陳宮の言葉が濁った。
「……明日も朝は早いので、酒はほどほどで、お願いします」
「………………」
陳宮の視線が流れている。
「陳宮」
「はい」
「回りくどい言い回しは通用せんぞ、俺には」
さらりと言えば、陳宮は瞬時に真っ赤になり、こちらを見ずにそっぽを向いて肩を震わせている。面白い男だなと思いながら呂布は、今夜は酒はほどほどにするかと考えた。その意味は、本当の意味でのほどほどなのか、それとも隠された意味なのかは呂布にしかわからない。
了
呂布さんは陳宮のことになると色々と考え込んだり(呂布さんにしては)気を遣ったりすることが多いと思う。
夜のお酒云々は作中にもあるとおり、陳宮がそう思い込んでいるだけで、呂布さん本人はそういう意味はなく純粋にお酒に誘っています。するかしないかはその時の気分!
陳宮はそういう誘いの言葉なんだと思い込んでいるので、呂布さんにしては珍しい遠回しな言い方でもあんまり気にしていない感じです。表現は遠回しだけど、誘いはストレートなので。
けれど呂布さん本人は、するときは本当にストレートに言うので関係なかったりします。最近は自重しているようです。陳宮の教育の賜物でしょうか。
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