真赤―まそほ―

呼ぶ声音



 「たまには字(あざな)で呼んでみろ」
 唐突にそう言われ、陳宮は面を食らった顔をしてしまった。
 今、陳宮がいるのは呂布の部屋である。屋敷ではなく、官舎の方の部屋だ。呂布は屋敷に帰ることは少ない。それは単純に、官舎にいた方が調練をするときに都合がいいからだ。
 似たような理由で陳宮も己の家には滅多に帰らない。軍師としての仕事と内政の仕事が山のようにあり、家から仕事場への移動の時間すらも惜しいし、家に帰っても寝るだけだ。家のことは母親に任せてある。
 そして、揃って官舎にいた二人だが、ようやく陳宮の仕事が一段落ついたとき、呂布が酒を持って突然やってきた。酒盛りに付き合えという。正直疲れているので断りたかった陳宮だが、呂布は有無を言わさず陳宮を己の部屋へ引っ張ってきたのだった。
 酒は嫌いではない。だが、酔うほどに飲むことはしない。酔っては思考が鈍るし次の日に支障も出る。つまらない飲み方をすると周りに言われるが、程度を守って飲む方が美味しいのだと陳宮は思う。
 それはさておき、陳宮は結局呂布の酒の相手をする羽目になった。別にこれが初めてではないのだが、呂布の飲みっぷりに付き合うことはない。呂布は水のように酒を飲むが、陳宮は味わうようにゆっくりと飲む。毎度のことなので、呂布も何も言わなくなった。つまらなさそうだと思ったが、陳宮は陳宮でちゃんと酒を楽しんでいることを呂布も分かったのだ。
 お互いが心地よく飲んでいると不意に、呂布が言ったのが先の台詞だった。
 「……何ですか、突然」
 至極当然の質問をする。呂布はくるくると指先に杯を乗せて回しながら答えた。
 「何となくだ」
 「何となくで字を呼べとおっしゃるのですか」
 親しい者であれば、字で呼ぶのは自然ではある。だが、それは本当に『親しい間柄』のことで、通常、唯の知り合い程度であれば、苗字や役職名で呼ぶ。
 呂布と陳宮は主従の関係だ。普通なら、字で呼ぶのは不敬にあたる。が、
 「いいから呼んでみろ」
 「……いいえ、私は殿の臣でございますから」
 「俺が構わんと言っているんだぞ」
 「呼びません」
 「………………」
 冷めた表情で陳宮は杯をあおった。嚥下の動きに喉が揺れる。
 「呼べ」
 「呼びません」
 「呼べと言うに」
 「呼びませんと申しております」
 お互い、酒の杯を持ったまま睨み合う。呂布が一気に飲み干すと、かぁん、と高い音を立てて卓の上に置いた。
 「たかだか字を呼ぶだけだろう」
 「たかだか字を呼ぶだけであるなら、こだわらずともよいでしょう」
 呂布のこめかみに青筋が浮かぶ。陳宮は己が良しとしないものを曲げることは滅多にしない。呂布の空気が苛立ったものに変わっても、陳宮は表情を動かさなかった。
 「何故、そう呼べ呼べと連呼されるのですか」
 「何となくと言っただろう。それに、そう頑なにされると無理にでも呼ばせたくなる」
 「子供ですか」
 堂々と胸を張って言うので、思わずため息が出た。
 「お前も似たようなものだろう。俺が呼べと強要するから、意地でも呼ばないつもりになっているんじゃないのか」
 「まさか。臣が主の字を呼ぶこと自体、ありえぬことでしょう?」
 「だから、その主がいいと言っているんだ。……ちっ、埒があかんな」
 話が元に戻っていることに舌打ちをして、呂布は卓に置いた杯に酒を注いだ。なみなみと注いだ酒を飲もうと口元へ持ってきたとき、ふと思い立った。動きの止まった呂布に、同じように注いだ酒を飲もうとしていた陳宮が、杯に口をつけながら怪訝そうに視線だけを向けた。
 「公台」
 勢いよく吹き出した。それを見て呂布が面白そうに顔を歪める。
 「お前が呼ばぬと言うなら俺が呼んでやろう。主が臣の字を呼ぶ分にはなんら問題はないだろう」
 「………………ごもっともで」
 吹き出してぬれてしまった口元を袖口で拭いながら、苦りきった表情で陳宮は答える。
 「公台」
 「は」
 「公台」
 「………………」
 字を呼ぶだけなのに、呂布は随分と嬉しそうだった。何か特別を許してもらった子供のようだ。字呼びなど、今の仕事場から離れればいくらでもいる。それを呂布も知っているだろうに、嬉しそうだった。その様子を見ていると、頑なに断る自分の方が、なお幼い気もしてきた。主従であれば陳宮の態度の方が正しい。主の許しがあるとは言え、そう簡単に礼儀を崩しては、周りへの示しがつかない。けれども、度を超す忠義は不敬に当たるときもある。
 陳宮は杯に残った酒を一息に呷った。
 「……奉先、殿」
 「──────」
 楽しげに酒を飲んでいた呂布の動きが止まった。そして陳宮を目を見開いて凝視した。言ってしまった陳宮は途端に恥ずかしい思いに駆られ、赤面した。たかだか字。そう、たかだか字だ。だのに何故こうも気恥ずかしいのか。
 何も言わない呂布が気になって、ちらりと視線を向ければ、見事にかち合い、呂布はにい、と笑った。立ち上がり、勢いよく陳宮の隣に座り込んで、肩を抱く。
 「おう、何だ?」
 呂布の体格は見事だ。平均的な体格である陳宮はあっさり懐に納まる。顔が近すぎる。
 「あ、あなたがっ」
 一瞬唖然となったが、陳宮はあわてて呂布の胸元に手をやって体を引き剥がそうとした。
 「あなたが呼べと申したから、呼んだだけです! 特に用はございません!」
 「ふん、ようやく呼んだと思えば相変わらずだな」
 「聞き分けの良い私など気味が悪いだけでございましょう、それよりも何故わざわざこちらに来るのですか!」
 「親しい者と肩を組んで酒を飲むことのどこが悪い」
 心底楽しげに、逃れようとする陳宮に顔を寄せてなおさら抱き込んだ。
 「悪くはございませんが限度がございます!」
 「うぐっ」
 胸元を押しても離れない呂布に陳宮は、今度は寄ってくる顔を押さえようと、顎を掴んで防いだ。
 「お、前な、字を呼ぶのが不敬だとか言うなら、これは不敬には当たらんのか」
 「例え主君でも、行動は正されるべきです!」
 必死に抵抗する。だが、力比べをしたら明らかに陳宮の方が分が悪い。そう時間が経たないうちに、陳宮は背中に板の感触を覚える。いつの間にやら押し倒されていた。これではなおさら身動きが取れなくなってしまう。
 「俺に力で勝てると思ったか?」
 未だ顎を押さえられているが、呂布は体ごと陳宮に体重をかけていた。ひるんだ陳宮の隙を逃さず、顎を押さえる手を取り上げる。
 「さて、どうしてやろうか」
 獰猛な笑みに押し倒されている陳宮は青ざめて冷や汗を流すしかない。
 「このまま食い尽くしてやろうか」
 呂布がそう言うと洒落にならない。本当の意味で食われそうな気がして、逃れようと身をよじる。
 「ご、ご冗談もほどほどに……、って、ちょ、どこ触って、なっ、と、殿っ!」
 「何だ」
 「太ももを撫でんでください!!」
 「減るもんじゃないからいいだろう」
 「そういう問題ではございません!そもそも私の腿なんぞ撫でて何がよいのですかっ!」
 「尻の方がいいか」
 「余計に駄目です却下ですお放しください!!!」
 好き勝手に動く呂布の手に慌てふためきながら陳宮はもがいてもがいてもがきまくる。しかし、どう足掻こうとも呂布の拘束から抜け出せない。下に押さえつけられ暴れると、余計に体力を使う。一頻り暴れた後、ぜぇぜぇと俯いて肩で息をする。まとめていた髪は解け、床に散らばっている。上の呂布は涼しい顔だ。
 「もう終わりか?」
 「っ!」
 睨み上げて降参しない意志を見せると、呂布は嬉しそうに口元を歪めた。そして、
 「それでこそ、だな。公台」
 「────……っ」
 耳元に口を寄せ、低い声で静かに言った。ぞくりと腰から背中を何かが這い上がる。
 「公台」
 「………………ぅ」
 「……公台」
 「……っ、………………」
 体の中へ潜みこむように字を呟かれる。陳宮は唇を噛み締めて、湧き上がる何かをやり過ごそうときつく目を瞑った。大きく張り上げれば朗々と響き渡るだろう声音。今は低く己の耳にだけ届くような声で言葉を紡ぐ。思考が奪われそうになる。それでも、声に、抗う。
 けれども。
 「……素直に従わないと、先ほどまで苛立っておいでだったのはどなたですか」
 「俺だ」
 「だのに私が抵抗するのを望んでおられるとは矛盾ではありませぬか」
 呂布は小さく笑い、陳宮の首筋に顔をうずめる。
 「……っ!」
 「それでなくては、面白くない」
 陳宮から顔は見えないが、おそらくはこれ以上ないほど、意地の悪い笑みを浮かべているのだろう。一つ、溜め息をついて陳宮は呂布の肩に手を置いた。それに気がついて、呂布が顔を上げる。
 「……今日はかなり疲れております。更に明日も朝から忙しいのです」
 「だからどうした」
 「………………ですから。……加減してください」
 言われて呂布は一度瞬きをしたが、次いで笑みを浮かべると、陳宮の背に腕を回して抱き上げた。
 「一応は加減してやろう」
 「一応ではありません。絶対にです。でなければお断りいたします」
 「体力のないお前が悪い」
 「殿と一緒になさらないでください。だいたい、誰のせいで日々疲れていると思っているのですか。仕事を山ほど溜め込んでおられるのはどなたですか!」
 少し良い雰囲気になったかと思えば再びこれだった。呂布は眉間に皺を寄せて、すねた顔をする。
 「お前は情緒のないやつだな」
 「こんなときに情緒も何もないでしょう」
 冷ややかに返すが、その手は呂布の肩に置かれたままだ。
 「……分かった、加減する」
 「本当にですよ」
 「しつこいな。ただし」
 「ただし、何ですか」
 訝しい顔をしながら相手を見れば、またもや意地の悪い笑み。
 「今夜は字で呼べ」
 「は」
 「字だ字。今夜はそういう気分なんだ。呼ばんと加減はせん」
 まだその話を引きずっていたのかと言ってやりたくなったが、ここで言ってしまえばおそらくは、先の譲歩を放り出し、呂布は己の好きなように行動するだろう。陳宮は明日の自分を思い浮かべて再び溜め息をついた。
 「………………分かりました、────奉先殿」
 「よし」
 それはそれは嬉しそうに、子供のように無邪気に笑って、呂布は陳宮を抱きかかえたまま閨へ足を向けた。







お約束の字呼びネタ。
作品によっては字呼びは本当誰でも呼ぶことがあるものですが、陳宮が呂布を字呼びするのはあんまりないなと。
まだ二人の設定が固まりきっていないからかなりぐたぐたですが、基本はイチャイチャべたべた甘いのより押しつ押されつの喧嘩腰でお願いします。

戻る

designed