真赤―まそほ―

桃の岸辺






 語り合った。心の内から想いを打ち明け語り合い、この乱世を、駆け続けた。







 「──────………」
 眠りから覚めるように自然な動作で目を開ける。しかし開けた眼前に広がるのはただただ闇だった。
 「……私は……」
 記憶を掘り起こす。私は何をしていた。最後に覚えていること。
 戦。
 北伐。
 ──────遺言を。
 「ああ────……」
 思い出した。
 私は、死んだのだ。
 死んだというのに、私は私としての意識を持っている。
 それとも、まだ生きているのか。これは夢なのか?
 もし、ここが世に言う冥府というならば、それならば。
 「………………」
 否。
 逢えるはずが、ない。
 夢を託されて、道を示されて、志を遺されたのに。
 彼らから、あの方から委ねられたのに。
 私は何一つとして、成し遂げてはいない。
 そんな私がどうして、皆と同じ場所へ逝けようか。
 「ならばこの道はどこへ続いているのだろう」
 歩く。立ち止まっていてもしょうがない。ただ歩く。
 目を伏せる。そのまま歩く。同じ闇だ。何を恐れよう。
 瞼の裏に浮かぶかつての日々。酷く痛く、切なく、身を引き裂くような涙が出るほど愛しい記憶。
 戦の日々だった。苦渋の毎日だった。それでも、生きているのだと、生き抜いているのだと、笑いあって。

 ──────それなのに。

 逢いたい。
 逢えない。
 語りたい。
 語れない。
 相反する想い。けれどそれは無意味だ。
 なぜなら私は、一人、ここにいる。闇の中に、一人。
 恐ろしくはない。不安もない。静寂が支配するここはいっそ安らぎすら覚える。すべて終わったのだと、あとは安らかに眠れと、ただただ包み込むような闇。

 目を開ける。
 「──────」
 ぽつんと、一つ。
 ──────桃の、花。
 「──────……」
 闇の中、不思議なほどくっきりと浮かび上がる柔らかな花。
 前を向けば、遠くに一つ、また一つ。ぽつん、ぽつんと、零れ落ちていた。
 ──────どこから。
 まるで導くように。
 ──────どこへ。
 足が辿る。無意識に、否、こいねがうように、体が動いた。
 闇の中を、迷わないように、道標のように、その桃の花はあるようだった。
 辿って、辿って、気持ちが焦る。逸る。これは、なんだ。
 しばらく行った、その先に一枝。
 幾つかの桃の花のついた枝が手折られていた。
 その先にはもう、何もない。
 再び闇が広がるだけ。
 「………………」
 そっと、拾い上げる。
 闇の中、その花はただ。









 「孔明」









 目を、見開く。
 耳を疑う。息を飲む。
 ただ唖然と立ち尽くす私の目の前に、三人が、いた。
 「よう! 孔明!」
 「久しぶりだな、孔明殿」
 相変わらずの豪快な声と、落ち着いた声。屈託なく、静かに、それぞれ笑っている。
 「……張飛、殿、関羽殿……」
 声が震える。これは、夢か? 死してものち、夢など見るのか?
 「ほらほら、突っ立ってねぇでこっち来い! 皆揃ってんだぜ!」
 「みん、なって……」
 強引に掴まれた手首。少し高い体温と荒い手のひらと力強さ。
 夢、では、ない?
 己の手首を掴む男の手から、再び眼前を見る。
 そこに広がるのは、闇ではなく、柔らかな日差しと茂る緑と、けぶる桃の霞。
 そして。
 「孔明様!」
 「孔明殿!」
 「諸葛亮殿!」
 口々に笑顔をもって呼ばれる己の名。記憶に刻まれる姿と声、そのままに。
 「孔明殿」
 「………………趙雲、将軍……」
 目を瞬く私の目の前に、最期に別れた姿よりも若く、おそらく出会ったときの頃の姿で佇む武士。されど笑みの深さは晩年のそれと同じで。
 「お久しぶりですな」
 「……趙雲殿……これは……ここは……いったい……」
 目の前の男は柔らかく笑うだけで答えない。
 ぽんと背中が叩かれた。
 「……ホウ統」
 「何て顔をしている」
 落ち着いているようで、実は気の強い同門の友人。今は少しからかうような笑みを浮かべていた。
 「そら、行こう。そこで待っているぞ」
 「え……」
 促された視線の先。そうだ、最初にここへ辿り着いたとき、彼らと一緒にいた。
 「………………」
 笑っている。あの、人をひきつけるような、穏やかな笑み。その笑顔で見つめられれば、つられてこちらまで笑ってしまうような、そんな笑みをする人。
 口が名を紡ごうとするがうまくできない。
 三回訪れ、己が内を語ってくれた。想いをそのままの形で吐き出してくれた。志を熱く紡いでくれた人。


 「孔明」



 この方だと己が決めた主が歩み寄り、私を見上げる。手を取り硬い手の平で肩を叩いた。



 「お帰り、孔明」



 「──────………………っ、と、の……っ」
 喉がひりつき、やっとそれだけを言った。
 涙が溢れる。ぼろぼろと、とめどなく頬を伝い、主と私の手に零れ落ちた。主の手を両手で握り締め、膝をつき、額に押し付ける。涙は止まることなく流れ落ち、喉を焼いた。
 「殿、殿、との……との、と……の……っ!」
 うわ言のように繰り返し、崩れ落ちるように背中を丸める。それでも手を離せなかった。主は振り払おうとせず、同じように膝をついて、泣き崩れる私の背中を、まるで子供をあやすように包み込んで撫ぜた。
 「膝をつくな、孔明。顔を上げるんだ」
 「……っ、は、……………っ」
 言葉すら出せなくなり、それでも主の言うとおりに、力を振り絞るように上体を起こした。
 「……お前がそんなに泣くのはあの時以来か。孔明」
 「……す、みっ……ま……っ」
 反射的に涙を堪えようとするが、留まるところを知らず、溢れてくるばかりで、私は目をきつく閉じるしかなかった。主は変わらずに笑ってうなずいた。
 「いい、いい。泣いてしまえ。存分に、泣いてしまえ」
 「殿……っ」
 「泣き止むまで側にいてやる。皆もいる。お前はそれが許される。だから、泣いてしまえ。そして、たくさん泣いたら、また、語ろう。駆けよう。なぁ、孔明」
 言葉が染み渡る。許される。語り合える。側にいることができる。ただ、ただ、それが嬉しい。
 己が求めた、最もたる願い。また再び、駆けることが、できる。
 握り締める手が熱い。握り返してくれる力が心地よい。何もかも、すべて、その声で、言葉で、満たされるようだった。
 「さぁさ、孔明が来たんだ、呑もう呑もう! とことんまで呑みつくすぞ!」
 「普段ならほどほどにしておけと止めるところだが、まぁ、今は自分も飲み明かしたい気分だな」
 「私もです。倒れるまで呑みましょうか」
 笑いながら交わされる会話すら耳に優しく涙を誘う。
 泡沫(うたかた)の夢だとしても、永久(とこしえ)の幻想だとしても、それはまぎれもなく今の己にとっては現実なのだ。
 「子龍、いくらなんでも翼徳の配分に合わせて呑むんじゃないぞ。お前は私より弱いんだからな」
 「若い頃よりは随分と呑めるようになりましたよ、殿。張飛が特別なだけです」
 「確かにな」
 「違いない!」
 気兼ねなく、屈託なく、笑いあう光景。けぶる桃の花が優しく全てを覆う。
 「孔明」
 節くれだった手が私の手を引いた。手折られた桃の花は懐に。
 「いこうか」
 「──────………はい」













八月二十三日、追悼。

主公が皆を字呼びなのは願望です。
北方では桃園の誓いはないけれど、あえて。

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