君想いて 其の四
「………………揺」
初めは気にもしていなかった。むしろ、今でも亡き人を想っているのだという一途さに、切なさと同情と微笑ましさを覚えていた。
一日中、食事を取るのだけは別に、陳宮は役所の己の執務室にこもっていた。呂布が徐州を治め始めたばかりなので、仕事は山ほどあったが、苦にはならなかった。ここから足がかりに飛躍していくのだと言う思いがあるので、やり甲斐があった。だがしかし、ここ最近の陳宮は鬱々としていた。
今、呂布達は兵を率いて調練に出ている。遠くから聞こえる兵の声はおそらく高順と張遼の部隊だろう、活気があり勇ましくあった。その声を聞きつつ、陳宮は珍しくぼんやりとしていた。
戦に生きる呂布とはいえ、州一つの主となったからには、戦ってばかりではいけない。どうしても呂布が目を通さねばならない内務の仕事もあるので、陳宮は逃げる呂布を捕まえて執務室に放り込むことがある。もちろん、自身が監視の役割もかねて手伝っているのだが、慣れない仕事のせいか、呂布の集中にはムラがある。やればできるが、気がのらないと遅々として進まない。居眠りをすることもよくある。
それはとある日だった。天気の良い午後だ。昼食も終え、心地の良い日差しで、静かである。まさに昼寝をするにはぴったりで、案の定、呂布は竹簡をさばいている最中に眠ってしまった。陳宮は最初起こそうとも思ったのだが、その時はその日の仕事は大方やり終えていた時だったので、気持ちよく眠っている主が珍しかったのもあって、そのまま眠らせておくことにした。おそらく、近づいたり触れたりすればすぐに目を覚ますのだろうけれど、あの鬼神のごとき主の寝顔が、不思議なほど穏やかなので、もったいない気もしたのだ。普段、休息をとる時は大抵、むっつりとしている。
しばらく時が過ぎた。外の音は遠くに聞こえる。部屋の中は、陳宮の進める筆の音以外はなく、時折、小走りに駆ける人の足音が廊下でするだけだ。ふと、呂布が何かを呟いた。
「はい?」
思わず返事をしたが、呂布は居眠りをしたままの体制で、何も答えなかった。
「……寝言か。……呂布殿も寝言など言うのだな」
小さな声で一人ごち、くすりと笑いを零す。すると、
「………………揺」
誰の名前だろうと思ったが、すぐに思い出した。呂布には大切にしていた妻がいた。その妻の名前が確か『揺』と言うはずだ。
「………………」
陳宮は眉を寄せつつ、切なそうに微笑んだ。呂布が妻を亡くしてそう月日はたっていない。一途な主に少し同情と共感を覚える。陳宮も妻を亡くしていた。もう随分と前のことだが、新しく妻を娶る気にはなれずにいた。一人娘がいるが、そちらは母親に任せ、今は戦火の届かないところにいる。折を見て呼ぼうと思っていた。
この、穏やかな空間がおそらく、呂布に妻といた時間を思い出させているのだろう。ならばもうしばらく静かに眠らせてあげようと陳宮は思った。
だが、それから幾度か、似たようなことがあった。呂布が居眠りをすると、大抵妻の名を呟いていた。それほどまでに想っているのだろうなと考えたが、何故か少し、苛立ちがあった。
獣並みに感覚が鋭い呂布だと言うのに、側にいるのが妻ではないと分かっているだろうに、それでも呂布が寝言で言うのは妻の名前だった。一度や二度ならともかく、回数を重ねられると陳宮は複雑だった。もしかして呂布は、どこかで妻と己を重ねているのだろうか。
ありえない、と思った。いくらなんでも飛躍しすぎである。呂布の妻と会ったことはないが、人となりはきいていた。穏やかで真面目。綺麗なものが好きな、ごく普通の女性だったらしい。だがしかし、陳宮はそれにさらに、あの呂布の妻をやっていたということで評価を高めていた。付き従って分かったが、あの傍若無人についていくのは至難である。もっとも、呂布が妻に惚れ込んでいたと言うから、鬼神も妻の前では穏やかな夫になっていたのだろう。
そんな呂布の妻と己。似ているわけがない。重ねる要素もない。では何故呂布は言うのか。
苛立ちは、己を見ていないのではないか、という疑問だった。呂布にとって陳宮は何か妻を思い出させるところがあるのかもしれない。二人の絆を考えれば呂布が妻を想うのは至極当然であるが、つまりそれは己は特に気にも留められていないということではないのか。
己はこの軍の軍師である。呂布を主とし、覇者とするために働いてきた。最初は己の理想にかなっていれば誰でも良かったが、今は呂布のために働くことが好きになっていた。傍若無人で戦しか頭にない。欠点が多いけれどどこか惹かれる。言葉で言い表せない感情で、陳宮は呂布を好ましく思っていた。この男のために働き、この男を覇者にしよう。そう思っていた。ゆえに、呂布にもそう思われたいと、思っていた。己は己であるから、呂布軍の軍師なのだとそう思ってほしかった。
だが。
「…………」
少し前のエン州では、己は呂布軍の軍師として仕事をこなせず、曹操軍にエン州から敗退させられた。今はそれでも徐州を手に入れることはできたが、あの戦は今でも後悔の嵐だった。曹操の下にいて、曹操の戦を知っていたというのに、己は仕事を完遂できなかった。呂布はどう思っただろう。己の他に有力な軍師を任せることはしていないが、期待もしていないのではないかと時折頭を掠める時もある。
己は今、軍師として生きている。曹操は確かに己の実力を認めてくれていたが、結局は自分のやりたいようにやっていた。それは陳宮の求めるところ、目指すところではなかった。戦の覇者が内政にまで手をかけてはいけない。それはいつか歪みをうむのだ。曹操自身がやらずとも、彼の配下には己を含め、多くの文官がいたにもかかわらず、曹操は全てを自分でやろうとしていた。それを見て、陳宮は曹操に夢は託せないと判断した。
己が己として知略を駆使し働ける場所。主。それを求めて見つけたのが呂布だった。だから、呂布には己を己という軍師として見てほしかった。押し付けがましいにもほどがあるが、己が求めぬ役割で誰かに必要とされても、いつか心は疲れる。結局は切れる繋がりだ。
この乱世、生き抜くのであれば、己の実力をもって生き抜きたい。だから己自身を見て認めてほしかった。主は誰でも良かった。己を認めてくれる主なら、おのずとその主に敬意を持つだろうから。
なんともはや、傲慢な考えだ。
陳宮は苦笑する。結局呂布が相手でも自分本位にしか考えていない。けれど呂布に嫌われたくはないし、裏切ろうとも思わない己がいた。それでも生き方を変えることはできなくて、どうか呂布が、己を己のまま受け入れてくれとこいねがう気持ちだった。受け入れてもらえないときは、己はどうするのだろう。それが、今だった。
己が望むままの己を、呂布は見ていないのかもしれない。
己は軍師だ。この軍の、呂布の軍師だ。呂布の妻を思い出させる存在ではなく幾人かいる文官の一人でもない。
しかし呂布に己をどう思っているのかなど聞けなかった。己と一緒にいる時、何故奥方の名を寝言で言うのかなどと、どこの痴情の縺れだ。だいたい、寝言に関してはまったく想像の域を出ていないし、本人が知らず呟いているのだから聞いても無駄だ。それに己が本当に知りたいのは『己をどう見ているのか』である。
冷静に考えると、それは男女の恋慕のようでなおさら聞けない。そういう意味はまったくないのに、下手をするとそう取られかねない。言葉は実に難しい。
頭を抱え込んで唸っていると、兵士達の声が近くに聞こえてきた。調練が終わったのだ。陳宮は手元の竹簡を見る。まずいことにほとんど進んでいなかった。大急ぎで纏め上げ、それをしかるべき相手に渡しにいき、帰りに別の竹簡を引き取ってきた。その途中、調練帰りの張遼と出会った。張遼は竹簡を抱える陳宮を見て、手伝おうかと言ってくれたので、陳宮はありがたく頼むことにした。
溜まり込んでいた考えを、酒の勢いも借りて、張遼に言った。ただ言うだけで、何の解決にもなりはしなかったが、張遼は穏やかに聞いてくれたので、話しただけでも随分とすっきりした。しかし、年下の武官に吐露するとは、情けなくもある。
張遼が帰り、陳宮は己の部屋で着替えていた。寝る前に、食事をした後片付けをしなくてはと、すでにかすみがかりはじめた頭を振るって動いた。
あらかた片付け終わり、さて寝ようか、と思ったときだった。
「陳宮、起きているか。俺だ」
ぎょっとした。呂布の声だった。
今日まで、何となく呂布とは話しづらく、仕事以外の話になるとそれとなく会話を終わらせて退散し、さりげなく会わないようにしていたのだが、まさか向こうから、こんな時間に来るとは思わなかった。確かに呂布の屋敷と陳宮が借りている長屋は近いが、今まで呂布が来たことなどなかった。
それでも慌てて呂布を出迎えようとして、まだ睡魔の残る陳宮は足を縺れさせて机や壁に激突する。痛みをこらえて戸を開ければ、いつもの仏頂面の呂布が立っていた。
「りょ、呂布殿? どうなされたのですか、このような時間に」
「どうもせん。用がなければ来てはいかんのか」
「……そういう、わけではございませぬが」
けれど今はあまり会いたくなかった。呂布は勝手に中へ入り、堂々と居間の椅子へ腰を下ろす。陳宮も立っていてもしょうがないので向かいに座った。
呂布の顔にはありありと不機嫌さが浮かんでいる。顔を背け、余所余所しくなってしまう己に対してだ。用がない、と言うけれどそれは嘘だろう。おそらくはここ最近の己の態度を問い詰めにきた、と言うところか。呂布は隠し事もまどろっこしい事も嫌いだ。はっきりしないと機嫌が悪くなる。
「……陳宮」
「はい」
沈黙に耐え切れなくなったのはやはり呂布だった。
「曹操のことで何かあったのか」
「──────は? ……あの、何故ここで曹操の話なのでございますか」
「違うのか?」
「何がでしょう」
面を食らった。どうして曹操の名前が出てくるのか。訝しげに片眉を上げる呂布に陳宮も疑問をあらわにする。
「……最近、お前は俺に何か言いたげにしていただろう。それは曹操のことじゃないのか」
言われて、陳宮は悟る。やはりここ最近の己の態度についてだった。それがどうして曹操に繋がったのかは不思議だが、苦笑しながら否定した。
「本当か? ならば何故、ここ最近、曹操の名前を出さなかった」
「え? ……そうでしたか?」
指摘され、思い浮かべてみる。そういえば確かに呂布と曹操の話をしばらくしていない気もした。だが、他の相手とは、特に外交を担当する文官とは話をしているので、そういう気にはなっていなかった。特に他意はないと首を振る。
「確かに曹操は強敵ではございますが、今はお互い土地を落ち着けるとき。それに曹操の他にも劉備や袁術や孫策もおりますから」
「……ならば、なんだ」
「………………」
「何を俺に言いたいのだ」
「……何でもございませんよ」
「陳宮」
怒鳴る声ではなかったが、強かった。陳宮は口を噤む。
言えるわけがない。これは己個人の感情の問題で、呂布はおそらくそれをぶつけられるのを嫌うだろう。己の理想とする覇者たれ、と呂布に言っているだけでも十分だと言うのに、これ以上はまずい。子供のような我侭をあからさまに求めても呂布は受け入れないだろう。
しかし、心の内は呂布を求めている。呂布に、己を己のままで認めてほしいと願っている。呂布に、己は、
「……お前は俺の軍師だろう」
「──────」
顔を上げた。耳を疑った。今、何と言った。
「他の者では務まらん、俺の軍師だろう。違うのか」
繰り返された、言ってほしかった言葉に、陳宮は混乱する。息を詰まらせながらも頭の中で反芻した。
他の者では務まらない、俺の軍師。
膝の上に置いていた手を握る。突如もたらされたその言葉は、己が求めているものと一致するのか? させていいのか? 呂布は遠まわしな言い方を好まない。紡がれる言葉はいつでも呂布の心を真に表していた。ならば、この言葉は。
「……いえ、……いいえ、いいえ、私は、貴方の軍師、です。呂布殿」
疑問も不安も押さえつけ、首を振って陳宮は答える。呂布は怪訝そうな顔をしていた。当たり前だ。呂布にとっては何気なく吐いた言葉かもしれない。だが、それは今の陳宮が最も欲していた言葉。思いもしないそれに感情が高ぶっておいつけない。平常な相手から見れば不思議に思うだろうが、抑え切れなかった。こんなにも己は求めていたのかと、驚きすらある。
一度息を無理やり飲み込み、吐いた。聞くなら、今だ。これを逃すとおそらく己は、またあれこれと考えて聞けなくなる。
「呂布殿」
「何だ」
「私は貴方の軍師でしょうか」
「そう言っただろう」
「…………他に替えのきく者では……ございませんか」
呂布が目を丸くした。一人気持ちが先走りしていると自覚しつつも立て続けに言った。今しか言えない。聞けない。
「私は、私であるがゆえに、貴方の軍師でしょうか。陳公台だからこそ、呂奉先の軍師であるのでしょうか。私は他の、違う方の代わりではございませんか?」
問い掛け。それは懇願にも似ていた。
「誰の代わりだと言うんだ」
「……それは」
「俺の軍師は最初からお前だろう。俺は俺の戦をする。お前はお前の仕事をする。そうではないのか」
当たり前だ、と言わんばかりの、ため息すら聞こえてきそうな声だった。だが、呆れも含まれていそうなその言葉は逆に、呂布にとっては世辞でも繕いでもない、自然なものなのだと思わせる。うなずき、言葉を噛み締める。
「俺が戦をするのにお前は全てを整える。だから俺はお前の望む天下を取る。そうだろう」
「はい。はい、呂布殿」
そのとおりだ。最初に言った。そして受け入れてくれた。呂布が己自身を認めてくれる、その事実が嬉しかった。
「……お前以外に俺の軍師は務まらん」
「……有難う、ございます」
感情の高ぶりで涙が出そうだったが、堪えた。己でも、ここまでこの男に認められる、と言うことが嬉しい気持ちに気後れする部分がある。だが、事実、嬉しかった。堪らなく嬉しかった。
「何を泣く」
「泣いてなどおりません」
涙は流れていない。だが体は熱かった。呂布が笑みをこぼす。
「……実際、俺の軍師をやろうなどと言う者はお前以外いないだろうがな。軍師は戦略をたてる。だが戦は全て俺がやる。まともに軍師の仕事ができんと言うのに好き好んでやる奴もいないだろう」
「好き好んでやっていて申し訳ありません」
確かに軍師として、戦のやり方を考えることはあまりなかった。己がしていることと言えば兵糧をあつめ武器をそろえ内政を維持する。だが、それは戦ならば並ぶ立つ者はいない呂布の、足りない部分を己が補っているのだ。軍師とは戦略や戦術を考えるだけではない。
だが、そうやってからかうように言われるといささか腹が立つ。
「だからこそだ。なぁ、陳宮」
呂布は至極嬉しそうに笑う。先ほどまで不機嫌だった呂布も何故か楽しげである。ここ最近の己の行動の意味が分かったからか。それにしては喜色満面だ。
「呂布殿が私の理想とする覇者たりえないときは遠慮なく裏切らせていただきますが」
反発するように言えば、呂布はとうとう声を上げて笑い出す。
「しかしおかしな事を聞くものだ」
「おかしな事とはどういう事ですか」
「そうだろう。さっきお前自身が言ったではないか。俺がお前の理想たる覇者でなければ裏切ると。お前はお前の望む覇者に仕えようと思っているのに、俺に、自分は俺の軍師なのかと問う。お前の理想であれば俺でなくとも良かったんだろう?」
「それは……っ」
言葉に詰まった。己は確かに主は誰でも良かった。けれど今は呂布以外に仕える気はなかった。だから呂布に認めてほしいと思っていた。己の気持ちを悟られて赤面する。ひどく恥ずかしい。そしてそんな己を見て、呂布はますます上機嫌になっていた。この主め。
「俺も同じようなものだがな。自分の戦ができればそれで良かった。組む奴は誰でも良かった」
「………………」
「だが今はお前がいる。お前が俺についてくる限り、俺は天下を目指そう」
「……呂布殿」
天下。天下を取り、乱れたこの国を平定したい。それが己の夢だった。呂布にその夢を託した。しかし呂布にとっては天下などどうでもいいもののはずだ。けれど呂布はその夢を受け入れ、戦っている。己が呂布についていく限り、共にその夢を見てくれると言うのだ。ならば己は全力で呂布を補佐しよう。己の夢のためだけでなく、己を見てくれたこの男に報いるためにも。
「よし、これですっきりした。夜も遅いし寝るぞ」
「あ、はい、それでは……」
「陳宮、寝床を貸せ」
「……はい?」
帰るのだなと思って、見送ろうと腰をあげたが、次に言われた言葉に陳宮は固まる。呂布は何気ない態度で続けた。
「近いとはいえわざわざ戻るのも億劫だ。泊まらせろ」
「……また急なお話で。……分かりました。ですが呂布殿、私の寝床ではなく、ちゃんと客用の寝室がございますから、そちらへ」
相変わらず自分の心のままに行動する方だと内心思いながらも客室へ案内しようと呂布を促した。
「構わん。お前の部屋でいい」
「……では私はどこで寝るのですか」
「共に寝ればいいだろう」
先ほどと違う意味で耳を疑った。共に寝る?
「……何故、と問うてよろしいでしょうか」
「そういう気分だからだ。交友を深める一つの手段だろう。以前俺の屋敷にお前が来たときも寝ただろうが」
そういう気分というがどういう気分だ。交友を深めると言うが何故わざわざ今なのだ。いやではないが、突拍子もなさ過ぎてついていけない。
「酔っ払っての雑魚寝ですが……ですが、呂布殿の寝台と私の家の物では大きさが」
「だから構わん。狭かろうが小さかろうが構わん。そら、行くぞ」
いや、構う。しかし呂布は呆気に取られている陳宮を軽々と肩へ担ぎ上げた。
「お、下ろしててください!」
「下ろしたらお前、また渋るだろう。面倒だ。それからあまり騒ぐな、近隣に声が響くぞ」
言われて陳宮は慌てて口を噤む。大人しくなった陳宮を担いだまま、呂布は寝室へ行き、陳宮を放り投げて明かりを消すと本当に一緒の寝台に入ってきた。しかも、お互い足を向けて寝る姿勢ではなく、逃げようとした陳宮を押さえ込むために、向かい合って懐へと押し込んだ体制だった。
「りょ、呂布殿、離してください、分かりましたから、せめてこの体制ではなくて」
抱き込まれる形になり、男同士でこの体制はどうなんだと内心思い切り叫びたかったが、近所迷惑も考えて堪えた。もがいて呂布の体に手をついて離れようとするが、呂布の力の方が強い。更に深く抱き込まれてしまった。
「離したら逃げるだろうが。いいから寝ろ」
寝れるわけがない。あまりにも近すぎる。何を好き好んで男同士でこの体制で。しかし呂布は気にする風でもなく、むしろ気持ちがよさそうに目を瞑っていた。
「呂布殿、お願いですから……っ」
抗議の声を上げても今度は返事がなかった。もがいても腰と背中に回る手は緩みはしなかった。そのうち、呂布からは本当に寝息が聞こえ始めてしまった。
「うう……」
一つ唸り声をあげて、陳宮は観念した。己も疲れていて眠くはあるのだ。誰かに見られるわけでもなし、暴れても離してくれそうにもないので、眠ってしまうことにする。これが女性ならば柔らかく寝心地も良かっただろうけれど、あいにくと目の前の人は立派な体格の男だ。硬くてごついことこの上ない。しかし、呂布の体温は高く、温かだった。そのぬくさに、とろりと睡魔が訪れる。
「……まったく、呂布殿は……」
そのまま、思考は暗転した。
次の日、陳宮は努めて平静でいた。呂布は上機嫌で高順や張遼から不思議そうに見られていた。これで己までなんらかの態度を取っていたら変に怪しまれる。だから、何事もなかったかのように常日頃と同じ態度ですごした。だが。
「陳宮」
「はい、何でございましょう、呂布殿」
この主に己の軍師だと認められ求められるのだと言うことが分かり、陳宮はそれが分かっただけでも満足だった。視線はそらさず、堂々と見据える。
「今夜、俺のところへ来い。久しぶりに酒に付き合え」
「……呂布殿、まだ朝だと言うのにもう夜の酒のことでございますか」
「悪いか。それで、どうなんだ」
「承知いたしました。ですが、あとでお持ちする書簡全てに目を通していただければと思います。それが終わらなければ、本日は調練にも行かせませぬぞ」
良い笑顔で陳宮は呂布に言う。呂布は思い切り顔をしかめ、舌打ちをした。そのやりとりはついこの間まであった普段どおりのもので、どこかくすぐったくもあった。
傍若無人で人の話など聞かぬ、されど不器用な優しさを確かに持つ男。誰よりも強く、孤高で、勇ましい黒き獣。陳宮は笑みに目を細めて呂布を見る。
「私も手伝いますゆえ、ご安心を」
これからもこの男を覇者とするために戦おうと改めて心に決めた。
了
次第に呂布に惚れ込んでいく陳宮と、次第に陳宮を好ましく思うようになる呂布さんがオフィシャルでたまりません。
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