真赤―まそほ―

君想いて 其の三




 「私は貴方の軍師でしょうか」
 その問いに怪訝そうに、だが呂布は即答した。




 高順、張遼とは別に、己の麾下を率いての調練を済ませた呂布は、従者の胡郎に赤兎を預け、陳宮を探していた。
 ここ最近、陳宮の様子が微妙におかしい。普段通りと言えば普段通りではあるのだが、時折、呂布をじっと見ては、何かを言いたそうにしてやめている。陳宮は悟られていないと思っているかもしれないが、そういうことが最近増えているのを呂布は気づいていた。感覚だけは獣並みに鋭い。
 そして張遼が言って気がついたのだが、陳宮の口から、曹操の名前が上がることが減っていた。近頃ではまったくないと言っていい。曹操は、呂布軍にとって一番の難敵である。わざと名前があがらないよう気を回さなければ、言わない、ということはないのだ。だのに戦については色々と心配そうに聞いてくる。
戦に関してはすべて自分に従うと言ってはいたが、その戦をするには兵糧が必要だ。少し前にエン州から撤退した敗因が、その兵糧を集め切れなかったからだと陳宮自身が思っている。曹操がゆっくりと確実に呂布の騎馬隊を封じ戦えないようにしながら攻め落としていく様は、陳宮にどう映ったのか。呂布は戦場で戦えば誰にも負けない自負がある。だが、そもそも武力がぶつかり合う戦場以外の戦いはまったく力を発揮しない。しかし曹操はそういう戦いもできる。策をめぐらせた上での武力での戦。呂布はそういった戦は好まなかった。はたから見れば、どんな戦でもできる曹操の方が天下をとるに易いのかも知れない。今更に、陳宮は己と曹操を比べ、間違った選択をしたとでも思っているのか。

 それはない、と呂布は思う。

 何故ならば、陳宮は万能の王たろうとする英雄を求めていないからだ。
だが、選択を間違っていないと思っていても、呂布と曹操を比べてしまうのではないか。そう思うと不快感がつのる。陳宮は戦には口を出さないと言っていても、様々な策を持っている。軍師ならば当然だ。その策を用いれば、曹操と十二分に渡り合えるだろう。だが、呂布は呂布の戦をしたかった。そしてそれで敵を倒したかった。陳宮もそれを承知しているようで、しつこくは言ってこない。その代わり、戦をするに必要な事全てを為していた。それで十分だと呂布は思っていた。けれど、陳宮はどうなのか。本当に満足しているのか。
 妻以外の他人の気持ちなど知ったことではないと思っていたが、何となく、呂布は陳宮のやりたいことをかなえてやりたいと思っていた。天下をとるのも、陳宮が言うからだ。今の己は戦ができれば良かった。けれど、その、己に夢を託す相手が、他を見ているのは気に入らなかった。陳宮が曹操を気にするのは当たり前だ。だが名も出さぬほど意識するのは何故だ。何か、曹操で気になることがあるのか。そしてそれは、自分にはなかなか言えないことなのか。
 結局、陳宮は見つからず、なお憂さが溜まる気分になって、呂布は丁度通りかかった高順を捉まえて酒につき合わせることにした。



 高順にその話をしたのは高順が生真面目な男だったからだ。あれこれと相手を見て考える呂布ではないが、高順は自然と話してもいい雰囲気を持つ。陳宮を好いてはいなかったが、かと言ってその能力を侮ることをしない、正確な目の持ち主でもある。だが、はっきり言えば適切な答えを返してくれるような、そうでないにしても何か助言をくれるような相談相手ではない。だが、今の呂布はそういう相談相手を求めているわけではなかった。
 酒は今日の気分も手伝ってかなり強めのものを持ってこさせた。だがまったく酔わない。高順は少しずつ呑んでいる。苦手ではないがあまり呑めないらしい。陳宮はどんな酒でも呑むが、量を呑まない。呑めないのではなく、呑まないのだと気がついた時は面白みの無い呑み方をすると思ったものだった。そういえば陳宮とはよく酒を呑む。夜中に二人で語り合いながら呑む事も多い。だが陳宮の様子がおかしいと気がついた辺りから、陳宮は呂布の屋敷にやってきていない。
 「………………」
 眉間に皺が寄った。言いたいことがあるのなら、曹操のことだろうが何だろうがはっきり言えばいい。何も言わないのが一番腹が立つ。
 今まで、陳宮は隠し事をほとんどしていない。最初は腹の底が見えにくい男だと思ったが、陳宮は自分に対しては本当のことしか語らない。主たる己に、言いたくとも言えない事。いったい何だ。分からない。
 そこまで考えてふと、以前、似たようなことがあったのを思い出す。妻だ。
 「殿?」
 呂布は、妻のことを思い出していた。妻である揺は董卓から下げ渡された女を連れて帰ってから様子がおかしくなった。呂布にとって女は揺だけであるのだが、揺にとってはそう捉え切れなかったのだ。揺は呂布よりも十一も年上で、見目もいい方とは言えなかった。女は若く美しかった。呂布は歳や容姿などまったく関係なく、ただ揺が揺であるがゆえに愛していたのだが、揺はそれを気にしていた。
最初は何を気にしているのか不思議でしょうがなかった。ようやく、揺が父のように慕っていた王允から揺の気持ちを伝えられても何故そんなことを気にするのか、そして何故夫である己に言わず、他人の王允には言うのかも分からなかった。
 陳宮が何を考えているのかは分からないが、もしかしたら、己が想像しえない、己からしたら何を思い悩むのかすら理解できないことで口を噤んでいるのではないのか。揺にも、揺以外の女に興味が無いと幾度言っても心の内から受け入れてはもらえなかった。そして揺は呂布の想いを信じきれない自分を責め続けているようでもあった。
 己にとっては単純明快な心理でも、相手にとって同じであるとは言えないと、あの時薄く悟った。
 ふと目の前の高順を見る。高順にも妻がいる。その妻も、揺と同じように、何か言えない事を持っているのだろうか?
 「………………。高順、お前、妻がいたな」
 「はい」
 「お前の妻が、お前に言えないようなことは何だ」
 「……………………」
 高順は黙り込んだ。考え込んでいるようだったが、微妙に表情に焦りが見えるのは何故だろう。
 「……さて、何でございましょう。気が強いのですが、嘘やごまかしが苦手な妻でして。それに、殿。私の妻と陳宮殿では、立場も境遇も違いすぎます。何より男と女では、根本的なものが違うでしょう」
 「そんなことは分かっている。誰もあいつを妻などと思っておらん。俺には──────」
 呂布はそこで言葉を止めた。
 呂布にとっての妻は揺一人だ。だが、呂布は長安を出てから揺の話をする気分にはなれなかった。口にするのが怖いと言う思いすらあった。揺は呂布にとっての全てだった。他の女を抱いても揺に覚えた気持ちは湧いてこない。
 高順も何かを察したらしく、口を引き結んでいる。やや間があって、高順は違うことを聞いてきた。

 「……殿。殿にとって、陳宮殿は何なのでしょうか」

 その言葉を聞いた時、 考えるより先に口が動いた。
 「俺の軍師だ。それがどうした」
 「……いえ、その」
 呂布は口にしてから、何故か腑に落ちた感じを覚えた。己の、軍師。そうだ、陳宮は己の軍師だ。
 軍師とは戦において様々な策を練り上げ、それを以って戦を動かす。だが、この軍では総大将たる呂布が全てを行う。陳宮は世間で言うところの軍師の働きをしておらず、名ばかりだ。呂布は思う。だからこそ、己の軍師ではないか。
 他の軍がどうであろうと、この軍では戦は呂布自身が行う。そして陳宮はその呂布が何の懸念も無く戦ができるようにと動くのだ。呂布が呂布たりえているのだ。
陳宮は出会ったばかりの頃、呂布に対して堂々と『万能の王であろうとするならば自分は裏切るだろう』と言い放った。少なくともこれから組もうと、担ごうとする相手に言う言葉ではない。だが、呂布はその物言いが気に入った。

 ああ、だからこそ、奴は俺の軍師だ。




 話し終わり、高順は呂布の屋敷を出ていった。呂布はまだある酒と料理を平らげた。物は残さない。だが、さすがにそのまま寝る気分にもなれず、腹ごなしと酔いを醒ますために外へ出た。少し歩くと、張遼と出会った。どうやら陳宮と呑んでいたらしい。それを聞いて少し、内心苛立ちが起こる。己とは呑まないのに張遼とは呑むのか。
 張遼に聞けば、もう休んでいるだろうと言う話だが、呂布は陳宮に会いたくなった。先ほど、高順と話して、もう少し待とうという気分になっていたのだが、今度は逆に張遼に会って陳宮に会いたくなった。だが、言えない話を無理に聞き出そうとは思っていない。聞きたいが。
 張遼と別れ、さっさと呂布は陳宮の家へと向かう。役所に程近い長屋の一つ。明かりはついている。
 「陳宮、起きているか。俺だ」
 夜にしては大きめの声で呂布が言った。しばらくして、がたん、ばたん、と何やらけたたましい音をさせながら足音が近づいてきた。戸が開き陳宮が顔を出す。
 「りょ、呂布、殿?」
 少しぼやけたような、起きたばかりのようなそんな声だった。服はすでに寝巻きで、確かにもう休んでいたような格好だ。だが呂布は構わず家の中に足を踏み入れる。
 「どうなされたのですか、このような時間に」
 「どうもせん。用がなければ来てはいかんのか」
 「………そういう、わけではございませぬが」
 陳宮は呂布と視線を合わせなかった。その態度に不快感を覚える。ずかずかと中に入り、居間の椅子に我が物のように腰掛けて足を組む。呂布が陳宮の家に入ったのは実は初めてなのだが、まるで我が家のような堂々っぷりであった。
 高順と話した。もう少し待ってみようと。だが、余所余所しい態度の陳宮を見ると、どうにも、胸倉つかんで吐かせたい気分に囚われる。あやふやなのもまどろっこしいのも呂布は耐えられない。
 陳宮は呂布が不機嫌であることを感じ取っているようだったが、宥めるような言葉は言わなかった。ただ、向かいの椅子に腰をかける。しばらく、沈黙が双方続いた。
 「……陳宮」
 「はい」
 耐え切れなくなったのはやはり呂布だった。
 「曹操のことで何かあったのか」 
 「──────は?」
 思ってもみないことを言われたように、陳宮は目を丸くして、素っ頓狂な声を上げた。その反応に呂布は片眉を上げる。
 「……あの、何故ここで曹操の話なのでございますか」
 「違うのか?」
 「何がでしょう」
 本当に意味が分からない、と言った顔で陳宮は首をかしげる。
 「……最近、お前は俺に何か言いたげにしていただろう。それは曹操のことじゃないのか」
 呂布は見当違いをしてしまったかもしれないという居心地の悪さに頭を掻く。だがしかし、呂布と陳宮の間で、言いにくい話、と言えば、それまでの陳宮の言動からも考えて曹操しか思いつかないのだ。それを率直に訊ねてみれば、陳宮は合点がいった、と言う顔をする。
 「……ああ、………………いいえ、違います」
 苦笑しながら首を振った。
 「本当か? ならば何故、ここ最近、曹操の名前を出さなかった」
 「え? ……そうでしたか? ……言われてみればそうだったかもしれませんが……特に他意はございません。確かに曹操は強敵ではございますが、今はお互い土地を落ち着けるとき。それに曹操の他にも劉備や袁術や孫策もおりますから」
 指摘されてようやく気がついた風に陳宮が答える。
 「……ならば、なんだ」
 「………………」
 「何を俺に言いたいのだ」
 「……何でもございませんよ」
 「陳宮」
 怒鳴る声ではなかったが、強かった。陳宮は口を噤む。
 何故、言わない。呂布はそれが堪らなく苛立った。
 曹操のことではないと言うならば他になんだ。思い付かない。内政に関しての不満などこの男は水のようにつらつらと隠すことなどせずに己に言ってくるので違うだろう。戦の心配事も、曹操に関係のないことは何でも言っていた。それ以外。分からない。分からないが、何も言わないことが腹が立つ。全てを曝け出せ、と言うわけではないが、言いたいことがあるのなら言えばいい。
 「……お前は俺の軍師だろう」
 「──────」
 その言葉に、陳宮がぱっと顔を上げ呂布を見た。
 「他の者では務まらん、俺の軍師だろう。違うのか」
 「……いえ、……いいえ、いいえ、私は、貴方の軍師、です。呂布殿」
 首を振り、陳宮は噛み締めるように言った。そのどこか胸の詰まった言い方に呂布は怪訝そうな顔をした。陳宮は呂布を見て、それから迷うように視線を彷徨わせてからもう一度呂布を見る。そして再びうつむいた。顔が仄赤い。
 「呂布殿」
 「何だ」
 「私は貴方の軍師でしょうか」
 「そう言っただろう」
 「…………他に替えのきく者では……ございませんか」
 言われて今度は呂布が目を丸くした。
 「私は、私であるがゆえに、貴方の軍師でしょうか。陳公台だからこそ、呂奉先の軍師であるのでしょうか。私は他の、違う方の代わりではございませんか?」
 問い掛け。それは懇願にも似ていた。
 「誰の代わりだと言うんだ」
 「……それは」
 「俺の軍師は最初からお前だろう。俺は俺の戦をする。お前はお前の仕事をする。そうではないのか」
 「……そうです。そのとおりです」
 確かめるように、言葉を染み渡らせるようにうなずく。
 「俺が戦をするのにお前は全てを整える。だから俺はお前の望む天下を取る。そうだろう」
 「はい。はい、呂布殿」
 返事をするたび、声に熱がこもる。嬉しそうに聞こえた。楽しげではないが、ひどく嬉しそうな万感の想いを感じる。
 「……お前以外に俺の軍師は務まらん」
 「……有難う、ございます」
 呂布は、どこか必死な、今にも泣き出しそうな陳宮の頭をぐしゃりとなぜた。
 「何を泣く」
 「泣いてなどおりません」
 涙は流れていない。だが体は熱かった。呂布は笑みをこぼす。
 「……実際、俺の軍師をやろうなどと言う者はお前以外いないだろうがな。軍師は戦略をたてる。だが戦は全て俺がやる。まともに軍師の仕事ができんと言うのに好き好んでやる奴もいないだろう」
 「好き好んでやっていて申し訳ありません」
 陳宮が不機嫌になる。くっくっくと肩を震わせて呂布は楽しげに言った。
 「だからこそだ。なぁ、陳宮」
 「呂布殿が私の理想とする覇者たりえないときは遠慮なく裏切らせていただきますが」
 反発するように言い返す陳宮に、とうとう呂布は声を上げて笑い出す。
 先ほどまでの苛立ちはすっかり消えうせていた。おそらく前々から陳宮が己に言いたかった問いは、どうして言いあぐねていたのかと首をかしげる内容だったが、呂布は満足していた。呂布が求めていたものと一致したからだ。気分が良かった。
 「しかしおかしな事を聞くものだ」
 「おかしな事とはどういう事ですか」
 「そうだろう。さっきお前自身が言ったではないか。俺がお前の理想たる覇者でなければ裏切ると。お前はお前の望む覇者に仕えようと思っているのに、俺に、自分は俺の軍師なのかと問う。お前の理想であれば俺でなくとも良かったんだろう?」
 「それは……っ」
 陳宮は言葉を詰まらせる。心許無い明かりの中でもはっきりと分かるほど赤面していた。呂布はますます機嫌が良くなった。
 「俺も同じようなものだがな。自分の戦ができればそれで良かった。組む奴は誰でも良かった」
 「………………」
 「だが今はお前がいる。お前が俺についてくる限り、俺は天下を目指そう」
 「……呂布殿」
 天下など実際はどうでもよかった。だが陳宮が望む。だから天下を手に入れる。己以外のために行動するのは、妻以外は初めてかもしれない。望むことをしてやりたいと思う。時折、妻といる時のような空気はあった。しかし例え何かが似ていても妻の代わりとは思えない。揺は揺で陳宮は陳宮だった。
 「よし、これですっきりした。夜も遅いし寝るぞ」
 「あ、はい、それでは……」
 「陳宮、寝床を貸せ」
 「……はい?」
 さらりと言われた言葉に陳宮はまた目を丸くする。
 「近いとはいえわざわざ戻るのも億劫だ。泊まらせろ」
 「……また急なお話で。……分かりました。ですが呂布殿、私の寝床ではなく、ちゃんと客用の寝室がございますから、そちらへ」
 ため息を零しつつ、陳宮は呂布を客用の寝室へと案内しようとするが、呂布は首を振った。
 「構わん。お前の部屋でいい」
 「……では私はどこで寝るのですか」
 「共に寝ればいいだろう」
 呂布はさも当然と言わんばかりの態度だった。返して陳宮は言葉の意味を把握できなくて固まっている。
 「共寝って……何故、と問うてよろしいでしょうか」
 「そういう気分だからだ。交友を深める一つの手段だろう。以前俺の屋敷にお前が来たときも寝ただろうが」
 「酔っ払っての雑魚寝ですが……ですが、呂布殿の寝台と私の家の物では大きさが」
 「だから構わん。狭かろうが小さかろうが構わん。そら、行くぞ」
 言うが早いか、呂布は陳宮を担ぎ上げる。
 「お、下ろしててください!」
 「下ろしたらお前、また渋るだろう。面倒だ。それからあまり騒ぐな、近隣に声が響くぞ」
 後半の至極真っ当な言葉に陳宮は黙り、呂布はさっさと陳宮の寝室の方へ、見当をつけて進んでいった。そう広くない長屋なので間違うことはない。
 それから寝台に無造作に陳宮を放り投げると明かりを消して、逃げようとする陳宮を押さえ込み呂布は眠りについた。懐の抗議する声は黙殺する。寝つきはいい方だが、久しぶりに何の苛立ちもない眠りだった。


 ──────次の日、呂布は上機嫌で、陳宮は不機嫌、と言うよりは居心地が悪そうな顔で起きた。しかし、それでも先日までの鬱々とした雰囲気はなく、役所に行けば普段と変わりなく仕事を始めた姿には感心する。そして。
 「陳宮」
 「はい、何でございましょう、呂布殿」
 呼んで目を合わせても、真正面から見据える、陰りのない視線に呂布は満足した。








気がついた方もいらっしゃると思いますが実はまだそういう関係じゃなかったりします。
つまり張遼さんや高順さんが聞いた噂は本当にただの噂だったと言う。
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