真赤―まそほ―

君想いて 其の二




 「陳宮は俺と曹操を比べているのだろうな」
 どこか苦々しげに吐き捨てられた言葉に高順は酒を注ぐ手を止めた。


 張遼と共に兵の調練を行い、解散した後、呂布がやってきてこれから特に予定がないのなら酒に付き合えと言われた。急ぐ用事もなかったし、主からの誘いでもあるので承諾した。妻には使いの者を出して帰りが遅くなることを伝える。
 呂布の館に行き、程なくして料理と酒が運ばれてくる。呂布は贅沢ということには無頓着で、一応一州の主にも関わらず他と比べると随分質素な暮らしをしていた。もちろん、一般人から見れば十分すぎるほどではあるのだが。陳宮が手配したそこそこ立派な館と下男と下女が数人。それだけである。その陳宮といえば、この屋敷からも離れてはいない、役所から程近いところにある長屋の一つを借りていた。これも、軍師という地位にしては驚くほど質素だ。もっとも、あまりそこには帰っておらず、概ね官舎で寝泊りしているようだ。近いと言っても寝に帰るだけなら官舎の方が仕事をするのに都合がいいかららしい。同じ理由で呂布も営舎によく泊まる。どこで寝ようがあまり頓着がない。馬と一緒に厩で寝ていることもあるくらいだ。
 呂布は酒に強く、強い酒を水のように呑む。高順はほどほどに嗜む。呂布ほど強くない。おまけに今日出された酒は本当に強く、あまり勢いをつけて呑むとあっという間に酔ってしまうだろう。
 酒を呑み、料理に箸を伸ばして舌鼓を打つ。話すことと言えばやはり戦のことである。呂布が直接率いる五百の騎馬隊は見事なもので、共に調練を受けていても、呂布ほど見事な動きはできない。ならばせめて少しでも呂布に近づけるようにと日々粉骨砕身している。
 呂布は強い。確かに多少の融通の利かなさはあるが、戦に関しては恐らく何者よりも優れているだろう。ただ、それは純粋な力と力によるもので、謀略などといった要素が入るとあまり強いとはいえない。もっとも、そういった策が弄される前に、弄されたとしても、呂布は持ちたる力で粉砕する。
 その呂布に、陳宮がついた。もともとは曹操に仕えていた文官で、何を思ったのか曹操を裏切り、呂布を迎え入れた。それからは呂布の純然たる力の影になり支えるように陳宮の謀略が張り巡らされる、という形になった。
 高順は正直、陳宮が嫌いだった。曹操は非情で恐れられてはいるが、戦や内政、外交の手腕は確かである。更には優秀な人材を集め、彼らの力を見事に発揮させる。曹操のように、一人であらゆるものに精通している人物は今のところいないだろう。そんな人物が認めて仕官させていたというのに、陳宮は曹操を裏切った。曹操がどのような人物か、ということを抜きにしても、高順は裏切りという行為が許せなかった。そして、根っからの軍人なためか、力の及ばない影での謀略ということが、卑怯に思える。だから、高順は陳宮とはよくぶつかっていた。
 しかし、主たる呂布は、そんな陳宮を嫌っていなかった。むしろ好ましく思っている風にすら見える。呂布の館で酒を飲み交わすことも多いらしい。
 そして、その陳宮が下世話な意味で呂布に近づいた、という噂を聞いたのは少し前だ。同僚の張遼は、呂布の方が陳宮に手を出したという話を聞いたらしい。戦場において、そういう関係になることはないこともないが、どちらにしろ侮蔑するべき噂の元をたどって、流した者を処罰した。しかし、当の本人達にはそれは聞けなかった。二人を知っていれば、それは虚言だと分かる。噂をわざわざ主に聞かせることもないだろう。
 何より、それを聞いて肯定されたらどう反応していいのか高順は分からない。そのとき無性に妻の顔が見たくなった。
 呂布が陳宮のことで苦い顔をすると言えば、陳宮が呂布に処理してもらいたい仕事を大量に抱えてきたときや、戦に関してどうにも気を回しすぎるきらいのある(心配性とも言う)陳宮を諌めるときだろう。高順と陳宮がぶつかるときは、双方に言いたいことを言わせてから呂布が押さえる。
 それが、今回は違うらしい。しかも、
 「……曹操と、ですか」
 穏やかな名ではない。曹操と呂布は全面対決をしている真っ最中だ。そして、陳宮は曹操に仕えていた。
 「陳宮が何か言ったのですか?」
 「いや、言わん。だが何となくそう思った」
 呂布は人との付き合いが苦手なようだが、相手の本質を見ることは長けている気もする。そういったことを口にするわけではないが、周りが考えあぐねる相手にとる呂布の行動は間違うことが少ない。とはいえ、それによって、相手との関係が良好になる、というわけではないのだが。
 「おそらく奴自身も気づいてはおらんだろうがな」
 高順が注いだ酒を呂布はあおる。たん、と音高く置かれる杯に呂布の不機嫌さが表れていた。
 「比べる、と申されましても、殿と曹操は比べる存在ではないと思いますが」
 「お前達にとってはそうだろうが、奴は曹操の下にいたからな。奴が曹操を裏切った理由も、俺についた理由も知っているが、それでも比べられるのはいい気分はせん」
 陳宮が曹操を裏切った理由は、志を託せないからだという。曹操はすべてを自分でなそうとする。それはつまり、自分達配下の者は曹操にとってはただの都合のよい道具ではないのか。そしてそれは、彼ら自身でなくともいいわけである。呂布についた理由は、呂布が政に興味がなかったからだ。呂布は戦をなし、陳宮が民政を行う。それは陳宮にとって理想だったらしい。
 その理由について、呂布はもっともなので何も言わなかったが、高順は不快だった。己の野心のために、主すら己の駒と見ているようなものではないのか。それは裏切った曹操とどう違うのだと思った。それを本人に言えば、陳宮は堂々とした態度で言った。

 『呂布殿が呂布殿である限り私は裏切りません』

 自信にすら満ちた声だった。呂布が変わることなどないのだと思っているようでもあった。そしてそうもはっきり言われては返す言葉もなかった。
 「……そう思われるには、何かあったのでございましょう。お聞きしても宜しいでしょうか」
 「……奴が曹操を完全に見限っていれば、例え今敵対していようが平然と名を出すだろう。それがここのところ、一度もない」
 「………………」
 「陳宮は何があろうと曹操と組むことだけは拒否することは分かっている。それは当然だ。だが、今は直接やりあっていないとはいえ、曹操のその字も言わん。そのくせ、戦についてはあれこれ心配する。戦は俺に任せておけと何度も言っているのに、な」
 「それは……」
 「一度も名前を口にせんのは意識でもしないとやっておれんだろう。戦のことを心配するのは、奴の戦いぶりと俺の戦いぶりを比べて不安があるからだ。もともと軍人ではないし心配性なところもあるが、いささか腹が立つ」
 呂布は半ば拗ねたように言って料理に箸を伸ばす。
 「更に最近は、俺に何か言いたいようだが、言えずにいるような素振りを見せている。あいつは口達者だが俺に嘘やごまかしがつけん。だのに言わん。他に誰もいないときでさえな」
 今の言葉をどう取ればいいのか高順は迷った。普通なら、二人で酒を飲み交わすこともあるのだから、そういう状況もあるだろうと、気にも留めることではない。だが、あの下世話な噂を聞いてから、妙に気になっていた。しかし、普段の二人を見ていると、まったくそういう雰囲気どころか、気配など一切ないので、やはり噂は噂なのだと思う。だが、その噂を知らないときと知っているときでは、気にする度合いが違う。
 「夜中に俺の館に来るのもしばしばあったというのに」
 更に困惑した。
 「言いたいことがあるのなら曹操のことだろうが何だろうがはっきり言えばいい。何も言わんのが一番気に食わん」
 次々に料理を口に放り込んで酒で流し込む。どうやら今回、高順を酒に誘ったのは、これを言うためのようだ。しかしそれにしても珍しい。この主が、関係性がどうであれ、そういった、愚痴にも似たことを配下に言うとは。
 「本人には言われたのですか?」
 「言った。だが奴は言わん。…………」
 「殿?」
 不意に黙り込んだ呂布に首を傾げて高順は声をかける。
 「…………いや、………………。高順、お前、妻がいたな」
 「はい」
 「お前の妻が、お前に言えないようなことは何だ」
 「……………………」
 高順はたっぷりと黙り込んだ。考え込んでいるわけではなく、先の会話と繋ぎ合わせて、どう捉えていいのか判断しかねたのだ。今まで話していたのは陳宮のことである。それがどうして、妻が、自分に言えないことは何だという話になるのか。人に言えないような話、であるなら別に高順の妻を引き合いに出さなくともよいだろうに。高順配下の者でも、または、高順自身でもいい。高順が、呂布には言えないようなことを聞けばいいのだ。もっとも、そう問いかけられたら高順はまた別の意味で黙りこくるしかないのだが。
 「……さて、何でございましょう。気が強いのですが、嘘やごまかしが苦手な妻でして。それに、殿。私の妻と陳宮殿では、立場も境遇も違いすぎます。何より男と女では、根本的なものが違うでしょう」
 「そんなことは分かっている。誰もあいつを妻などと思っておらん。俺には──────」
 そこで呂布の口が止まった。高順も、はっとなって俯く。
 呂布の亡き妻の話は、呂布の前では禁句にも似たようなことだった。呂布自身がまったくしないのだ。妻を思い出させるものはすべて長安で処分してきたらしい。そして長安に行くことも呂布は拒否している。ただ、一つ。まだ呂布が董卓配下にいた頃、よく首に巻いていた赤い布。あれだけをいまだ呂布が持っているのを見たことがあった。亡き妻がいつも呂布の無事を願って祈りを込め、巻いていたのだと言う。
 「……殿。殿にとって、陳宮殿は何なのでしょうか」
 高順はそっと話を変える。まったく関係性のない話ではないので違和感も薄い。
 「俺の軍師だ。それがどうした」
 「……いえ、その」
 呂布は陳宮を、『ただの軍師』とは思っていないだろう。それは高順にも分かった。けれどそれが、どのあたりなのかによる。
 「……そうだな、口やかましいし生真面目すぎて正直肩が凝ると思うこともある。だが、不思議と奴は嫌いではない。俺にとって天下だのなんだのは興味がない。ただ目の前の敵を蹴散らすのみだ。だが、奴はそうではない。奴は天下を取りたいと思っている。というより、平定したい、のか」
 「私はそのことについては些か陳宮殿を好意的には見れませぬ。己の力で取れぬからと、主たる殿をまるで……」
 「俺は政も興味がない。だが戦場に立ちたい。奴は戦を勝ち抜く力がない。利害の一致だ。別に奴は増長して思うままにふるまっているわけではないだろう」
 「それはそうですが……」
 「それにな、高順。俺は奴の志を受け取っていいと思ったんだ。奴の夢を共に見てもいいと思ったんだ。理由は分からん。いつの間にか奴と生きていくのが面白いと感じはじめていてな。戦う以外、俺には何もないし必要ないと思っていたが、陳宮がいるのはいい。奴は今は、俺の軍師だ、と思う。……だからと言って、別に何でも話せと言うわけじゃない。だが、言いたいことがあるのに言わんのは納得がいかん」
 「……なるほど。殿は陳宮殿を信頼しておられるのですな。だからこそ、何も言わないのが気に障ると」
 「おう」
 話を聞いていて、高順は思った。呂布と陳宮がただならぬ仲という噂はあるが、それにしてはやはりそんな素振りが言動にも感じられない。幾つか引っかかる言葉があれど、その噂を知らなければ気にも留めないだろう。主君が誰かお気に入りの配下を持つ、ということはよくある。特に呂布は隠し事が苦手である。これは、自分一人が噂に踊らされているだけではないだろうか。
 「ですが、どんなことであれ、言いたくないことを無理に言わせるのはどうかとも思います。それに、言いたそうにしておられるのでしたら、おそらくそのうち言ってくるのではないでしょうか?」
 「そういうものか?」
 「陳宮殿は思い悩むところがございます。決断が遅い、と感じるときもあります。これは私が軍人だから感じるのかもしれませぬが」
 「いや、それは俺も思う。……あまり急いては事を仕損じる、か」
 何か思うところがあるのか、呂布は神妙な顔になる。
 「よし、もう少し様子を見るか」
 「それが宜しいかと。……殿、私はそろそろ戻ろうかと思うのですが、宜しいでしょうか」
 「ああ、付き合わせたな」
 「いえ、それでは」
 高順は呂布に拱手して席を立つと、呂布の館を出た。深夜に程近い。月は空高く、うっすらと辺りを照らしていた。少し離れたところにある長屋の一つにまだ明かりがついていた。陳宮が住んでいるところである。普段は官舎に泊まっているが、今日はどうやら帰っているらしい。しかし、この時間になっても明かりがついているのは、仕事を持ち帰ってやっているのだろうか?
 「熱心なことだ」
 もっとも、今の呂布軍が徐州を治めていられるのはその陳宮の熱心さのためだ。
 曹操の下にいれば栄達間違いなしであっただろうに、己の志のために呂布についた。考えれば、ある意味不器用な男かもしれない。天下を取りたいのならば、うまく立ち回れば曹操の下にいても望めただろう。だが、呂布を選んだ。志を曲げぬまま、それを受け入れてくれるのだと感じたからだろうか。あの強さは確かにそう思わせるところがある。しかしゆえに脆いところもあるのだ。それを今、陳宮は補うように支えている。
 陳宮は強さを欲するがゆえに呂布を求め、呂布は戦以外何もなかったがゆえに陳宮を受け入れた。互いの利害の一致。
 けれど今は、そういったものを抜きに、二人は主従として成り立っていると思う。
 何か不利なことが起これば真っ先に呂布を見限るだろうと思っていたが、陳宮は身を粉にして働いている。自分が選んだ主君が間違いないのだと示すため、自分の見栄のため、ととれなくもないが、そうは思いたくない己もいることを高順は感じていた。
 「……しかし結局、陳宮は何を悩んでいるのか」
 本当に曹操と呂布を比べ、まさか自分の選択に後悔などしているのではないのか。そんなことではないのだといいのだが、と高順は一抹の不安を覚える。
 そして月を見上げて思った。願わくば、何があろうとも呂布を裏切ることなかれ、と。



 ────次の日。
 現れた陳宮は普段と変わらないのだが、呂布が妙に上機嫌だったことに首を傾げたが、理由を聞いても、『解決した』と言うだけで、詳しくは語ってくれなかった。





呂陳というより呂布&陳宮。
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