君想いて 其の一
「あの方は、私のどこかに奥方を見ているのかもしれません」
杯を重ねながら零れた言葉に張遼は僅かに目を見張った。
調練を終え、己の居室に戻ろうとした途中、書簡を山と抱えた軍師と出会った。見かねて手伝うと、お礼にと食事に誘われた。
食事の最中、交わされる言葉は大抵軍のことである。今はある程度落ち着いているとはいえ、いつ戦があってもおかしくない状況である。いついかなるときでも対応できるようにと、陳宮は内政や外交だけではなく、軍備の面にも手をかけていた。陳宮は誰もが舌を巻くほど兵糧や武器防具などを揃えるのがうまい。伝手と話術だけでそうも集まるのかと驚く。しかし一度、兵量が足りずに撤退するはめになったことがあり、それ以来、更に陳宮はそういった方面に力を入れていた。
常々、いつ休んでいるのだろうかと思うところだが、当の本人は、仕事をしない主君に怒ることはあれど、疲れた様子も見せず、むしろ嬉々として働いていた。同僚の高順も、曹操を裏切り、野心のある陳宮を嫌っていたが、その手腕は信頼しているほどである。張遼自身は陳宮のことは嫌いではない。むしろ、堂々と野心を隠さず主たる呂布にも物怖じしないところなど、好ましくさえ思えた。
その主君が軍師に手を出した、という噂を聞いたのはそれなりに前である。人によっては軍師の方が裏切りの経験がある己の、軍での地位を確固たるものにするため主君に近づいた、などという下世話な噂も持っていたが、主君を知っている者ならば、あの主君がそういうことで誰かを贔屓にする、と言う話はまずありえないと分かる。軍師も軍師で、己の実力に自信を持っており、それ以外で上に取り入る、などということをするのはおそらくは軍師の矜持に関わりそうである。地位を手に入れるならば、実力を以って、であろう。だからこそ呂布は陳宮を使っているのではないか。
噂が嘘か本当かは定かではないが、少なくとも呂布は陳宮を嫌っていないことは確かである。呂布は己のなすことを制限されたり否定されると、相手を容赦なく排除する。陳宮は生真面目で、そういうところがあると言うのに、呂布は何故か陳宮の言うことにはある程度耳を傾け、我慢もしていた。不思議に思って尋ねてみれば、
『あいつのことは嫌いではない』
と、答えになっていない答えが返ってきた。やはり、実力もあり、成すことも成し、へりくだることもしないところが好ましくあり、多少の口煩さは相殺しているのかもしれない。
そう思っていたが。
「……奥方に、か?」
「推測ですが」
軍の話をしていると、自然と主たる呂布の話にもなる。陳宮は溜め息混じりに呂布が内政の仕事をしてくれないと愚痴るのは既に日常茶飯事だ。その愚痴もあっさりと終わるので、周りは苦笑して聞き流す。この日もそうだったのだが、不意にぽつりと陳宮が先のことを呟いた。
張遼は呂布の妻を詳しくは知らない。一度か二度見かけたことがあるくらいだ。伏せっていたらしく、やせ細り活力があまり見受けられなかった。呂布より十以上も年上で、見目が特に良いというわけではなく、美点と言えば穏やかで真面目だったというくらいらしい。呂布は、その年上の妻のために養父を二人、殺した。呂布にとっては、育ててくれた恩義のある者でも、実力を買い、戦う場所を与えてくれた者でも、己の妻を否定した時点で、容赦などする必要がなかったようだ。
聞いた話の呂布の妻と、陳宮。共通点と言えば、せいぜい、真面目だ、ということだけだろう。見た目はまったく違う。
「私は呂布殿の奥方を存じ上げませぬが、呂布殿が奥方を深く愛されていたと言うことは知っております」
「……そうだな。私も詳しくは知らぬが、あの方は奥方を誰よりも大切にしていた。しかし、呂布殿が都を出てから、奥方のことを話したことはなかったと思う。かと言って、過去のことだと割り切っているとは思えぬが」
「私もそう思います。呂布殿は世間で言われるより情の深い方だと」
「うむ」
陳宮は手酌し、ゆっくりと酒を呑む。水のように勢いよく呑む事はしないが、結構呑める方だなと張遼は思った。酒宴の席などでは、付き合いで礼に失しない程度に杯を傾けはするが、大量に飲んでいるのを見たことはなかった。呂布が相手でもそうであるようで、呑めるが、呑まない、といったところだろうか。
しかし、今日の彼は思っていた以上に呑む。珍しい。
「……呂布殿が何か言われたのか?」
「………………面と向かって言われたわけではございません」
そうだろうなと張遼は内心思う。呂布との付き合いは陳宮よりは長い。呂布は思ったことを、うまく口にすることが苦手なようで、戦のことは率直に命令を下すので問題はないが、こと、人間関係になると頭を抱えてしまうようである。それゆえ、あの容赦のない力となって表れているのではないかと思う。そもそも、大切にしていた妻と誰かを比べ、それを口にするのは、一本気な呂布らしくもない。
それにしても、と張遼は視線を流す。
陳宮の言葉は、何も知らない者が聞けば、単純に『呂布の世話を焼いている者』として陳宮と呂布の妻を重ねるだろうが、二人の世間を憚る噂を一度でも聞けば、どうにもそちらに絡めて考えてしまう。それに想像がつかないしつきたくもない。下世話だ、と自己嫌悪しつつ、この二人の、普段のやり取りは微笑ましいとも思う。呂布が赤兎に見せるような穏やかな表情を時折見かけることがある。普段は大抵、お互い眉間に皺を入れている状態だが。
「面と向かって言われたわけではないのに、何故そう思われる。それにどこか、とはどのあたりだ?私が思う限りでは、奥方と陳宮殿は真面目で世話焼きだと言うことくらいが共通だが」
それくらいで、どうにも重苦しい表情になるのが分からない。
「好きで世話を焼いているわけではありません」
いや、それは嘘だろう。即座に張遼は心の中で否定した。
己も、呂布の強さに憧れと畏敬を抱いているから感じるのだが、陳宮も呂布の足りない部分を補うことに喜びを見出していると言っても過言ではないはずだ。自覚していないのか、自覚しているがゆえに認めたくないのか。
「……まぁ、確かに、呂布殿の大切な方だったとはいえ、妻であった『女性』に重ねられるのはいささか男として微妙ではあるが」
「まったくです。私は妻ではなく軍師だと言うのに」
張遼の言いたかったこととずれがある。張遼は、男だと言うのに、女に重ねられるのは気分が良いものではないと言いたかったのに、陳宮は軍師だと言うのに、『妻』と言う役割に当てはめられるのが気に入らないらしい。どういう状況でどんな言葉で呂布が陳宮に亡くなった妻の姿を見たのか分からないので、考え方に差があるのだろう。
「では呂布殿に言ってはどうか」
「何をどう言えと」
確かに。
「側にいるのが私だと知っているだろうに、寝言で奥方の名を呟かれる。ご本人が気づかず言っている言葉を持ち出しても話になりません」
酒を吹き出しそうになった。陳宮は視線を下に向けたまま、いつものように眉間に皺を入れて呟いていた。
寝言で呂布が妻の名を呼ぶのはこの際置いておくとして、その状況に何故陳宮が側にいるのだ。呂布が内政に(強制的に)勤しんでいる最中、居眠りをして、と言う状況か。それなら陳宮が側にいるのは分かる。分かるが、もし、別の意味だとしたら。
噂は事実なのか。張遼はじっと陳宮を見た。
「……陳宮殿、酔っておられるのか?」
「酔ってなどおりません」
酔っ払っている。間違いなく酔っ払っている。普段は酔うほどに呑まないこの男が、酔っ払って呂布の愚痴を言うということは。
「……しかし、まぁ、それは考えすぎではござらんか。ただの寝言であろう。奥方は奥方、陳宮殿は陳宮殿、呂布殿にとっては、まったく違う存在であると思うが」
「そうも考えます。呂布殿にとって、奥方は誰に代える方ではございませぬでしょう。私がそう思うことは呂布殿と奥方に失礼なことでしょう。ですが、回数を重ねられると……さすがに」
「………………」
回数を重ねるとは何だ。まるでこれは想い人への悩み事を愚痴られている状況ではないか。
落ち着け、と自身に言い聞かせながら、張遼は酒をあおる。下手な噂を知っているから、そんな想像をしてしまうのだ。この男が、例え酔っていようとも、そんなことを口にするはずがない。だが、そう思っても一向に酔いがこない。
「……陳宮殿は、奥方をどう思われる?」
「どう、と言われても。会ったことのない方ですから。ですが、話に聞く限りでは、立派な方だと思います。何せ、あの呂布殿の妻であったのですから。もしご存命でしたら、きっと良き話し相手になれたのではないでしょうか」
昔の恋人と比べられて怒る、嫉妬する、と言うのはよくあるが、陳宮はそういうわけではないようだ。やはり陳宮自身が言ったように、『軍師ではなく妻と言う役割に重ねられる』と言うことが気に入らないのか。そうすると、やはり噂は噂か。
「私は、私自身が、あの方の軍師でありたいと思うのです。あの方を覇者にし、戦が終わったあかつきには、その下で参謀として政をなしたい。奥方がそうであったように、代えのきく者ではない者に」
「………………」
「強ければ仰ぐ主など誰でもよいと思っておりましたが、今は」
言葉が途切れる。酒をあおった。
「……呂布殿を選んで良かったと、思っております」
「……そうか」
あの黒き獣と呼ばれる鬼神に必要とされる個人でありたい。そしてそれは、自分が望む役割でありたい。何とも我が儘である。だが、ただ、必要とされればいいと言うのは、よほど清い心の者でなければ貫き通せないだろう。
この男は、噂のようなことと関係なく、呂布を好いているのだろう。そう思うと、噂がどうのと動揺していた己が馬鹿らしくなる。
「………陳宮殿?」
目を伏せ、黙っている陳宮に気がついて、張遼は声をかけた。陳宮は静かに相槌を打つように舟を漕いでいた。
「……普段から忙しいであろうからな」
ここへ来た経緯も、陳宮が書簡を抱えて忙しく走り回っている姿を見かけたからだ。
「陳宮殿、お休みになられるのであれば部屋へ戻られい。肩を貸しますゆえ」
「う、あ……? あ、すみませぬ、張遼殿……」
肩を揺すられて転寝から目が覚めた陳宮は、まだ霞みがかった頭で答えた。張遼は陳宮の肩を担ぎ、私室へ行くのを手伝った。
「申し訳ありません……こちらが食事に誘ったというのに」
「いや、陳宮殿も連日の激務で疲れていよう。休めるときにゆっくりと休むものだ。それでは、私はこれで失礼致す」
寝台に座った陳宮に見送られ、張遼は笑って部屋を出た。
外に出て少し歩くと、前方から見慣れた長身の男が現れた。
「呂布殿」
「張遼か」
普段着の上に暖かな上着を一枚かけた姿の呂布だった。
「こんな夜にどうなされましたか」
「それはこちらの台詞だ。今頃どうした?」
「陳宮殿のお仕事を手伝って、一緒に食事をしておりました」
「そうか、俺は高順と呑んでいたんだが、酔い覚ましに散歩していたところだ」
散歩。何と言うか、呂布にはあまり似合わないのどかな言葉だ。
「陳宮はまだ起きているのか?」
張遼の後ろに見えるだろう陳宮の家を眺めるように、呂布が問いかけた。
「いえ、恐らくもうお休みでしょう。お疲れのようでしたから。……呂布殿、もう少し、内務をこなされた方が宜しいかと思われます。私が言うのも差し出がましいのですが、我が軍に欠かせぬ方です、陳宮殿は。配下の労に報いることも主君であるかと」
「分かっている」
面白くなさそうに口を曲げている呂布に苦笑を漏らす。そういえば、先ほど陳宮が気にしていたことを聞いてみようか。
「呂布殿」
「何だ」
しかし、呼びかけてから思い直した。こういうことは外野が言うことではないだろう。問いかけようとした口を閉じて、張遼は首を振った。
「いえ、何でもございませぬ。それでは呂布殿、私はこのあたりで」
「ああ」
呂布に拱手し、呂布が自分に背を向けて歩き始めてから、張遼も己の家へと戻る。ふと、振り返ると、呂布の後姿は、先ほど己が歩いてきた方向へと消えた。
「……………………」
もう休まれているだろうと、言ったはずだが。
何か用があるのかどうなのか。張遼はしばし佇んでいたが、何も見なかったことにして歩き出した。
────次の日、陳宮は至って普段通りで、しかし呂布が妙に上機嫌だったのは、どう判断すればいいのか分からなかった。
了
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