帰還
「李典」
呉軍と劉備軍の連合軍に敗れ去り、江陵まで撤退してきた。そこで何とかここへたどり着いた残存兵をまとめていたときだった。江陵の南城を守備する曹仁が現れ、李典の名を呼んだ。
「お前、何をやっている」
険しい表情で問われたが、李典は動じずに答える。
「生き残り、戻ってきた兵たちをまとめております。それが、何か」
「何か、ではない。それは我らがやる、お前は早く飯を食って休め」
「まだ戻ってきていない兵がおるやも知れません。せめて拙者は指揮官として、自軍の者だけでも待たねば」
生真面目な発言をしつつ、傷つきながらもここへ何とかたどり着いた者たちを李典はまとめ、指示を出した。だが、傍で吐き捨てるようなため息が聞こえたかと思うと、不意に肩を掴まれ、引っ張られる。
「おい! こちらに何名か来い! 戻ってきた者の所属を確認し、それぞれの待機場所へ配置し、食事と休息を取るようにさせろ!」
「はい!」
曹仁がそう言うと、傍にいた曹仁の配下の何名かがすぐに集まり、李典の代わりに残存兵をまとめだす。
「もう皆、そうしている。お前がここにずっといたのでは、逆に兵たちが休むに休めんだろうが」
「………………」
言われて李典は気がつく。上に立つものが先陣に立って指揮する姿は兵士たちの手本になり、気持ちを鼓舞するが、それが逆効果のときもあるのだ。特に今は、大将が休まず動いているのに、自分たちが休むことはできない、と思うだろう。
「分かったら、こい。後はわしたちに任せろ」
腕を掴まれ、半ば引きずられるように歩かされる。李典は、その強引さに非難の声を出そうとしたが、腕を掴む温かさに懐かしさを感じ取り、抵抗する気が失せる。まったく、相変わらずだ、と思った途端、どっと疲れが押し寄せてきた。
「? おい!」
意識が遠のく。慌てたような曹仁の声が、最後に耳に届いた。
ふ、と目が覚めた。見慣れない天井にしばらくぼんやりとしていたが、すぐに何があったのかを思い出す。そして李典は、今、自分の状況といる場所を確認するために首をめぐらせた。
「………………」
鎧は外され、身にまとっているのは寝間着だ。体のいたるところに手当てが施されている。寝ていたのはしっかりとしたつくりの寝台で、部屋は簡素だが、生活の匂いがあった。傍の棚に置いてある書物や竹簡から、新しくあてがわれたのではなく、誰かが使っている部屋だと分かる。李典はほつれ落ちてきていた髪をかき上げると、呆れたため息をついた。
「起きたか」
そこに、部屋の持ち主であろう人物が、食事を乗せた盆を片手に入ってきた。
「公私混同は部下に示しがつきませんよ、曹仁殿」
冷静に指摘すると、曹仁は鼻白んだ。ぶすりと不満そうな顔をして、大股に歩み寄り、食事を近くの机の上に置いた。
「開口一番がそれか、李典」
「はい。こちらは拙者に充てられた部屋ではなく、曹仁殿の使っておられる部屋でしょう。それを公私混同と言わずして何とおっしゃるのか」
「わしの部屋の方がお前のところに行くより近かっただけだ! 別に何をするわけでもなし……」
「何もなさらないのですか」
ほとんど呟きにしかならなかった言葉にあっさりと李典は言葉を返す。それに曹仁はぎょっとした。
「……どういう意味だ! お前は!!」
「どういう意味も何も、言葉のとおりですが」
曹仁は、李典の言葉の意図を掴みあぐねているように、ぐうっと声を詰まらせている。相変わらず素直じゃない人だと思いながら、寝台から足を下ろした。
「おい、まだ起きるな」
「大丈夫です。それより、拙者はどれほど寝ていたのですか?」
寝台に腰掛けたまま、李典は問いかけた。立ち上がるわけではないと分かった曹仁は軽く息を吐くと、腰に手を当てる。
「まだ一日は経っておらん。他のやつらも休んでいる。生き残った兵はもうほぼ戻ったと思う。ちゃんと皆、休息と食事を取っているから安心しろ」
「そうですか」
ほっと安堵すると、不意に腹が鳴った。飲まず食わずで撤退してきたのだ、体の疲れをある程度癒せたら、今度は栄養を求めている。それを見越したように、曹仁は柔らかく煮た鶏肉や野菜の汁を李典に渡した。
「取り合えず、今日は全軍休養だろうな。その後、軍の再編。これからのことは丞相の指示待ちだ」
「はい」
ゆっくりと肉や野菜を咀嚼し、汁を飲むと、染み渡るように体が吸収するのが分かった。温かい汁で、ようやく人心地ついた気分になる。
「ご馳走様でした、有難うございます」
「ん」
食べ終えた食器を曹仁は李典から受け取ると机の盆に戻す。それから寝台の傍の椅子に腰掛けて李典を見た。
「…………思ったより、元気そうだな」
「ええ、大分休みましたし」
「途中で張飛の軍と一戦交えたと聞いたが」
「はい。こちらは手負いの者ばかり、あちらは傷一つない軍、さすがに肝が冷えました」
「肝が冷えたのはこっちだ。お前、張飛と直接やりあったそうだな」
「誰にお聞きになりましたか」
「お前の部下だ。許チョが共にいたとはいえ、無茶をするな」
その言葉に李典は眉を寄せた。
「丞相をお守りするのに、強い相手だからと逃げてはならぬでしょう」
「それはそうだが、だからと言ってお前が倒れていいわけがないだろう。そういう時は丞相を連れてとっとと逃げろ」
「これは曹仁殿のお言葉とは思えませんな。敵前逃亡は将にあるまじき事なのでしょう」
互いを強く見合いながら沈黙が流れる。だが、曹仁の方が先に目を伏せ、顔に手を当てた。
「そうだ、まったくそうだ。だがなぁ……」
「曹仁殿」
李典は曹仁を呼ぶと、その手を取る。そして両手でそっと挟むようにすると膝の上に置いた。
「拙者はちゃんと戻ってきております」
「………………」
挟んだ曹仁の手が、李典の片手を握る。大きくて厚い手の平。少し身を乗り出し、何か言いたげに曹仁が口を開きかけるが、逡巡してから閉じた。その様子を見て、言ってくれるまで待とうかと思ったが、握られる手の温かさに李典は僅かに目を細め、先に口を開いた。
「曹仁殿」
「あ?」
先手を取られたように、曹仁から思わず間の抜けた声が出た。李典は曹仁以上に身を乗り出して、ぽかんとしている相手に顔を寄せ、口付けた。
「──────」
突然の事に曹仁は硬直している。顔を離して曹仁を見上げれば、驚いた表情で見下ろしている。それに苦笑して、李典は曹仁の胸元に頭を預ける。鎧越しだから、心の音はよく聞こえない。だが、握っていない、もう片方の手が所在無さげに動いているのを見て、この状況にどうしたらいいのか判断つきかねているのだと分かる。そのじれったさに、早くすればいいのに、と思わないでもないが、曹仁が決めかねる行動を取るのは自分のせいでもあるのは分かっていたので、李典は黙って身を寄せたままでいた。
「………………李典」
ようやく曹仁の手が李典の背を抱いた。李典は擦り寄るように、曹仁の胸元から首筋に顔を移動させる。曹仁の匂いと懐の広さに、まどろむような充足感を覚えた。
「……よく、戻ってきた」
「ええ」
ぽんぽんと優しく叩かれ、撫ぜられる。照れ隠しか、どこかぶっきらぼうなその声を間近に聞いて、李典は笑う。ああ、帰ってきたのだなとひそやかに思った。
了
赤壁戦前後では何気にちらほら一緒にいるんですよね仁さんと典さん。見るたびに嬉しくなります。この後、仁さんはそのまま南城を、典さんは合肥に行ってしまいます。ゆっくりいちゃいちゃしていればいいよ……。
戻る