かつての牙は、貴方が。
「曹操!!」
怨嗟の塊のような声だった。白銀の鬣が逆立つが如く、その男からは殺気が溢れ出し、隠そうともしない。周りが気がついたときには既に男は愛馬と駆け出していた。
「やべぇ!!」
すぐに反応したのは末弟だった。彼は長兄と次兄の間を突っ切り、前を駆ける白銀の鬣を追った。
「曹操!!!」
叩きつけられる殺意には慣れていた。雷鳴の声と血走った眼には見覚えがある。否、忘れるはずもない。かつて曹操の命を追い詰めた男だ。曹操は眼下に現れた怨嗟の鬼を冷ややかに見返した。
「馬超か」
西涼の錦。貫くほどの猛々しさと一本気の心根を持つ青年。
馬超は眼前に一族の仇を見定め、憎悪に全身の血を煮え滾らせていた。
「曹操! 覚悟しろ!! 今ここで、貴様を討つ!!」
風を重く鋭く切る槍。声に乗せられる憎しみは際限がない。歯をむき出し、まるで獣のような形相だった。下手に防げばその腕ごと噛み千切られそうな。曹操はひそかに息を飲む。
「曹操殿」
そこへ、曹操と馬超の間を割るように入った姿が一つ。
中原では見ない意匠の具足を身につけた男。
「ホウ徳」
かつて、馬超と共に戦っていた男だ。馬超が信頼を寄せていた男だ。今は曹操の軍勢にあり、その武を振るっている。
「曹操殿、ここは、某が」
「良いのか」
「いずれはこうなることは分かっておりました故に」
ホウ徳の声は平坦だった。
「……ホウ徳殿!! 邪魔立てするのか!!」
その姿を認めた馬超は、一瞬酷く傷ついた顔をしてから、すぐに眦を吊り上げ、吼える。
「某は今、曹操軍の将ゆえに。例えかつての盟友とて、手心を加える気は一切ない」
「ホウ徳!!」
「馬超!」
身を乗り出しかけた馬超を、追いかけてきた張飛が馬上でその太い腕を持って止める。曹操はそのやり取りを眺めながら、馬の首を返し彼らに背を向けた。馬超は弾かれるように顔を上げるとその後ろ姿に怒声を叩きつける。
「曹操! 待て!! 貴様だけは、貴様だけは絶対に許さん!!」
「馬超、やめろ!」
「離せ張飛殿!! 曹操!! 曹操!!!」
張飛の太い腕に爪を立てるかのように感情のまま指を食い込ませる。張飛は締め上げられるような痛みを気に留めず、馬超を抑える。
「馬超殿、貴殿に曹操殿を討たせはせぬ」
「ホウ徳殿、何故だ!! どうしてあやつの配下にいる!! 貴殿は忘れたのか、あやつは俺達の一族を皆殺しにしたのだぞ!!」
「乱世、なれば」
ホウ徳は短く答える。張飛は悲痛そうに顔をしかめた。
「乱世、乱世だと?! 乱世だからと言って力も持たぬ者を皆殺しにしてもいいというのか!! 何故だ!! 貴殿のその武器は、何のために振るわれるのだ、ホウ徳殿!!!」
「──────乱世を終えるために」
静かな声は戦野に響く。
「乱世を終えるために、某は曹操殿の軍に降った。かの者ならば誰よりも早く乱世を終えることができよう」
「そのために俺達の一族を殺してもか!!! 貴殿は憎くはないのか、奴は、奴は!!!」
「某個人の感情など、戦なき世の前には小さなものだ」
大きくはないが、意志のこもったその声は馬超の息を詰まらせた。例え親しい者を殺した相手だとしても、それは個人の感情でしかない。その一つの感情の前に、平定の後にもたらされる人々の安堵の声は限りなく大きい。そして今の馬超は、そのたった一つの感情のためだけに曹操を憎んでいた。
「馬超殿」
張飛に抑えられる馬超の肩がびくりとゆれた。
「憎しみを持って曹操殿を討とうとなされるならば、某は全力を持って貴殿の相手をしよう。例えどんなことがあろうと、そのような貴殿に曹操殿は討たせはせん」
「………………」
「馬超殿。貴殿は何のために戦うのだ」
「…………俺は……っ」
拳がきつく握り締められる。
「憎しみの刃では何も生まれぬ」
「……だが! 俺は、奴を……っ! 貴殿のように、抑え、きれる、ものじゃあ……ない!!」
力任せに拳を振り払った。全身が熱い。
「……某は、かつて貴殿と共に戦った。貴殿の刃であり牙であった」
「………………」
「あの時の某の牙は、貴殿が持っていよう」
「……ホウ徳殿」
「今、ここにいる某は貴殿の知る西涼の錦の盟友ではない。ゆえに、某は貴殿と戦う。かつての牙と、今の牙、どちらが相手を噛み砕くかは分からぬ。どちらが倒れようとも、某はそれを受け入れる。だが、負ける気は毛頭ない」
がちゃり、とホウ徳は二つの刃のある短戟を構える。馬超がかつて頼もしいと思った姿だ。だが、今は違う。その短戟は己のためには振るわれず、己に対して振るわれる。
「………………」
うつむき、張飛が掴む肩が震えている。がりり、と奥歯を噛み締める音が鳴った。
「馬超」
その耳に、いつもは豪快な、低い声が届いた。
「引くぞ。曹操の野郎をぶちのめしてぇのは分かるが、今のお前にゃ無理だ」
「……なんだと」
それよりも更に低い、怒気を含んだ声が馬超の口から漏れた。
「なんでかは、お前が一番良く分かってるだろ」
「………………」
馬超はしばらく無言のままでいたが、唇を強く噛み締め、それから何かを振り切るように顔をあげた。双眸にうつるのは懐かしい地の具足を身につけた男。
「……今度、相見えるときは、必ずや曹操の首を獲る。……さらばだ、ホウ徳殿!!」
馬超の愛馬が男に背を向ける。たずなを強く引き掴むと、振り切るように、勢いよく駆け出した。
「──────」
張飛は一度ホウ徳を一瞥すると、同じように駆け出し後を追う。
「……馬超殿」
ホウ徳はその後ろ姿を見送りながら呟いた。
「……いついつまでも、気高く、あられよ」
その呟きは、誰の耳にも届かない。
了
唐突に一連のシーンが思い浮かんできていきおいでかいたものなので、場所はどこだとかそういうツッコミはなしで。多分彼らがそろうのはないんじゃないだろうか。次兄が、特にorz
多くの人の笑顔のためならば、自分一人の憎しみの感情は殺すべきだとホウ徳さんは考えています。自分の親しい人を殺した相手でも、その者が一番、平定する力を持っているならば。
けれど、そのときの憎しみの牙は馬超が持っている。その牙と、ホウ徳さんが選んだ道がぶつかるのはしょうがなく、そしてそのどちらが生き残るかは分からない。こうなると覚悟をしていたから後悔はないけれど、馬超に対しては懺悔に似たようなものは持っている。だからこそ、馬超には、ただ憎しみにだけ囚われず、義憤を持って貫く正義の刃であってほしいと、いっそ押し付けるほどにねがっている節がある。
この後、多分、馬超のやり場のない、色々な感情につき合わされるのは張飛だと思います。
張飛が冒頭で「やばい」と言ったのは、馬超を止めなかったらそのままなりふり構わず暴走して敵も見方も本人も、えらいことになると瞬時に判断したから。自分が普段そうだから。
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