真赤―まそほ―

風邪は万病の元


 「────39度」
 李典が体温計を見て眉をひそめた。ベッドには、何やらばつが悪そうにそっぽを向いて寝ている曹仁がいた。
 「……曹仁殿は健康が売りだと思っていましたが、日ごろの行いが悪かったんでしょうかね」
 「どういう意味だ」
 「会社の仕事が忙しいのは分かります。ですが、無理をして睡眠時間を削ったり食事もちゃんと取らなかったりしていたら、体が弱るのは当然でしょう。おまけに昨日は雨に降られて濡れて帰ってきたのに、遅くまで起きていて」
 「………………」
 白い目で見られ、曹仁は言い返す言葉もない。
 「私は何度も言ったはずですよ。だのに、うるさい、分かっていると言うばかり。それで熱を出していては世話もない」
 曹仁はここ最近、仕事の追い込みで不規則な生活を送っていた。朝や昼は李典が用意した食事と弁当を食べるのだが、夜は帰りが遅く、しかもいつ帰れるか分からない。疲れて帰ってくると、李典は寝ずに待っていて、夜食用に軽いものを用意していたりもするが、その頃になると食欲がわかなくなっている。なので、曹仁は自分の分は用意しなくてもいい、と言っていた。先に寝ていろ、とも言っている。そして帰ってきたら帰ってきたで、書類をまとめたりで寝るのは深夜を軽く回る。それの繰り返しで体調が崩れてきたところに追い討ちの雨。見事、曹仁は風邪を引いてしまったのだった。
 「とにかく、今日は仕事はお休みです。会社にも連絡を入れておきますから」
 「ま、待て、これくらい動いていればそのうち下がる」
 「駄目です」
 起き上がろうとした曹仁を、李典が低い声で押し留めた。
 「風邪は引き始めが肝心なんです。甘く見ていたらもっと酷くなりますよ」
 「しかしな」
 「仕事が心配なのは分かりますが、だるくてふらふらしているのに歩き回って熱が上がったらどうするんです。今の状態で会社に行ったら、仕事に支障をきたすよりも周りに迷惑をかけてしまいますよ。何より、他の人に風邪をうつしたらどうするんですか」
 まったくもってもっともな言葉である。曹仁はぐう、と喉でうなった。
 「今は栄養と睡眠をとって、早く治すことです。辛抱することを覚えてください。無理をしても良いことはありません」
 「………………」
 李典に言われ、返す言葉もない曹仁は、やや不満げにベッドに寝なおした。
 「今、お粥を作ってきますから、大人しく寝ててください。起きては駄目ですよ。会社とのメールやり取りも駄目です。分かりましたか」
 「分かっとる! 俺は子どもか!」
 「子どもでもできることをなさらないのは誰ですか」
 さらりと李典は、部屋を出る最後まで冷静に指摘していった。



 確かにだるくて思考回路がうまくまとまらないと言う自覚はあるが、やはり仕事が気になる。こんなときに、と自分を内心罵る。進み具合はどうだろうか。夏侯惇に負荷がかかりそうだ。牛金はそのあたり、うまくフォローしているだろうか。
 それに曹仁は一人で黙ってじっと横になっている、というのが酷く苦手だった。眠ってしまえばまだいいのだが、なかなか眠れない。向こうではカタコトと、李典が家事をしている音がひそやかに聞こえた。
 「………………」
 何となく不思議な気分だった。自分は日中から部屋で寝ていて、近くに李典の気配がある。そういえば熱があるとはいえ、こんなふうに静かに過ごすのは久しぶりではないかと曹仁は思った。休みの日でも何かしら細々したことがあり、のんびり、という記憶がない。
 李典の言葉を思い出した。今はとにかく早く治すこと。胸をふさぐような奇妙に重苦しいものを吐き出すように、一つ大きくため息をついた。



 「曹仁殿、起きてますか?」
 ほどなくして李典がお粥を持って現れた。
 「起きとる」
 「それじゃあひとまずこれを食べてください。玉子粥がいいかと思ったんですが、曹仁殿だったら物足りないとか言いそうなので、鮭粥にしましたよ」
 「ん」
 だるい体を起こしてトレイごとお粥の入った小さな土鍋を受け取る。蓋を開れば濃密な湯気と共に鮭の香ばしい匂いが立ち上った。
 「美味そうだな」
 「そうですか? でも曹仁殿、食欲はあるんですね」
 レンゲですくって冷ましながら食べる。喉が少し腫れぼったいのだが、味覚はまだあるようだ、あっさりとした塩気に胃が動き出すようだった。
 「そういや昔から、風邪を引いても食欲だけはなくならんかったな」
 「それはいいことです。病気になったときは栄養が必要ですしね。曹仁殿の場合は、食い意地がはっているのでしょうか」
 「悪かったな」
 「誰も悪いとは言っておりませんよ。それから、後ででもいいですから、こちらのジュースも飲んでくださいね。ビタミンCも取らないと」
 トレイに一緒に載せてあった紙パックの果汁100%のジュースを指す。
 「それは甘すぎるから好かん」
 「普通のジュースよりくどくありませんから飲んでください」
 反論を許さない声に曹仁は口をへの字に引き結ぶ。とはいえ、この状況では、李典の言うことを聞くのが一番いいのは分かっている。仕事に早く復帰するためにも。
 粥を平らげ、ジュースも飲むと、李典が持ってきた風邪薬も飲む。熱い粥を食べたせいか、熱がある以上に体が熱い気がした。
 「それじゃ、後はゆっくり寝てください。何かあったら呼んでくださいね。私は片付けが終わったら少し仕事をしていますから」
 「分かった分かった。そんなに気を使うな、大人しくしている」
 どこまでも手のかかる子どものような対応に曹仁は、さっさと行けと言わんばかりに手を払った。李典は大丈夫だろうか、という顔をしながらも曹仁が横になったのを見届けて、部屋を出て行った。





 「……曹仁殿?」
 ぼんやりと、遠くで声が聞こえた。薬が効いたのか、いつの間にやら曹仁は眠っていた。耳に届いたその声に、意識がぼんやりと覚醒してくる。しかしまだ睡魔の方が強いらしく、目は開こうとしなかった。
 「……まだ眠っているのか。………………」
 そっと音を立てないように動いているらしい。側に椅子を持ってきたようだ。少しベッドがきしむ音がして、すぐ側に李典の気配を感じる。額に、李典の手の甲が当てられた。洗い物でもしていたのか、冷たい体温が心地良かった。
 「さっきよりは下がったか……」
 一人ごちて、椅子に座ったようだ。ぱらぱらと紙をめくる音がする。
 「……李典」
 ようやく目が開いて、曹仁は名前を呼ぶ。しゃがれた声が出て、一つ咳をした。
 「曹仁殿、起こしてしまいましたか」
 「……いや、何となく目が覚めてた。……何をしとるんだ」
 「この間買った本を読もうと思って。気にせず寝ていてください。……それとも、ここにいては気になりますか」
 「ん……別に気にならんが……本を読むならここでなくともいいだろう」
 すると李典が何故か眉間に皺を入れた。面白くなさそうな、不機嫌そうな顔である。内心首をかしげながらも言葉を続ける。
 「あまり近くにいたらお前もうつるかもしれんだろうが」
 「………………そういう意味ですか」
 「あ?」
 「いえ、こちらのことです。まぁ、確かにその可能性はあるかもしれませんが、病気は体が弱っているときになりやすいですから。それに曹仁殿はまだ熱だけですしね。少しなら、大丈夫かな、と。それにうつるかも、と思っていたら誰も看病なんてできませんよ」
 不機嫌になったかと思えば、すぐに機嫌が直ったようだった。疑問に思いながらも曹仁は寒気を感じて肩まで布団を引っかぶる。
 「寒いですか?」
 「あー……体は寒いんだが、頭はまだぼーっと……」
 「枕取り替えますか。ついでにひえピタでも貼ります? あと、毛布もう一枚いりますか?」
 だるいので適当な返事をすると、李典はさくさくと保冷枕を取り替え、毛布を持ってくる。
 「他にしてほしいことはありますか?」
 「……特にない。……李典」
 「はい?」
 「……お前、何か……楽しそうじゃないか?」
 ぼんやりとした頭で何となく感じたことを言った。表情が笑っているわけではないのだが、普段から細かいところに気がつく性格だと分かっているが、曹仁は何となく、李典が楽しんでいるように思えたのだ。
 「……そうですか? ……そうかもしれません」
 「ん?」
 ほんの僅か考える姿勢を見せてから、李典は小さく笑った。
 「曹仁殿は怒るかもしれませんが、あなたがこうして家で大人しくしている、なんて久しぶりですから。手がかかりすぎるのはどうかと思いますが、世話を焼けるのは楽しいですよ」
 言われて、曹仁は怒るよりも複雑な気分になる。李典は口やかましく色々と言うが、すべては曹仁のためだ。だが時には無理をしなければいけないときもある。その忙しさについ、忘れがちになる。そして何気ないことに喜ぶ相手を見てようやく思い出す。
 「………………すまん」
 ぽろりと言葉がついて出た。毛布を敷き直していた李典がきょとんと目を丸くした。
 「────どうしたんですか、いきなり」
 「いや、……その、何だ」
 「……曹仁殿、熱が上がってしまったんじゃないですか。大丈夫ですか?」
 言いよどむ曹仁に李典は胡散臭げに顔を寄せる。額に手を当て、自身のそれと比べた。
 「そうでもないか?」
 「……俺が謝ったら、おかしいのか」
 額に当てられた手を掴んで忌々しげに言い返す。
 「そうですね、いきなり謝られたらおかしいと思います」
 否定するでもなくあっさりと言う李典にふつりと怒りが湧くが、熱のせいでそれは続かない。体のだるさにうんざりするように力を抜いて冷たい枕に頭を静める。
 「でも、手はやはり熱いですね。曹仁殿、もともと体温が高いですけれど……」
 「……お前の手は冷たいな」
 「さっきまで洗い物をしてましたから。……気持ちいいですか?」
 掴んだ手の甲を、何の気なしに頬にあてると、李典が目を細めて笑う。
 「……ああ」
 「それは良かった。……でも離してください。これじゃ何もできません」
 「何もせんでいい、……ここにいろ」
 目を瞑り、その心地良さに浸りながら呟く。
 「先ほどは側にいたら風邪がうつるかもしれないと言っていたのはどなたですか。……曹仁殿の風邪が治って仕事も落ち着いたら、ゆっくりしましょう。だからちゃんと休んでください」
 「………………」
 僅かに不満げな表情をしながらも、曹仁は李典の手を離す。布団と毛布を被り直し、大きなため息をついて目を瞑る。李典の微かな笑い声が耳に届き、椅子に腰を下ろしたようだった。そして定期的に聞こえてくるページをめくる紙の音。
 仕事があるのに会社を休み、風邪を引いて熱があり、落ち着かないはずだった。今は何もできずただ横になっている。それなのに、不思議と心静かだった。いつも側にいる存在が改めて内側を満たすような気分だった。
 ああ、そうか、と眠気に身を浸しながら思った。
 自分自身も、この時間が欲しかったのだ。



 次の日。
 早めの処置が良かったのか、熱もすっかり下がり、咳などの他の症状もほとんどなかったため、曹仁は勢い勇んで会社に行った。仕事が片付くのはもう少しかかるが、その日からはなるべく早めに切り上げ、家路につく。
 そしてようやく片がつくと、李典の言ったとおり、二人でゆっくりと、過ごした。









新婚と言うほど甘くなく、熟年というほど分かり合ってもいない。
仁さんは仕事優先にしがちでそれを心配する典さんにうるさいとか黙れとかいいそうですが、典さんの場合、仕事の忙しさも大変さも知っているが上で(もともと一緒に働いてましたし)休むことの重要さを説明しそうです。途中で投げ出さないと言うか諦めないと言うか、どんなにワンマンな行動に出られてもそれに誤りがある、と思ったら相手が分かってくれるまで言い続けそうです。


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