真赤―まそほ―

髪結い


 「髪を結ってくれんか」
 すでに身支度を整え終わっていた許チョに曹操が言った。寝台の上で気だるげにぼんやりとしていたが、動き出そうと決めて、そう言ったのだ。言われた許チョは一瞬固まる。側にあった椅子に座り曹操は崩れていた髪をほどくと、結い紐を許チョに差し出した。
 「……私でよろしいのですか」
 「自分でやってもいいが、お前がいるのだし、たまには、な」
 常日頃なら、自分で整えるほか、従者が身支度を手伝うものだ。人前で頭頂をさらすのは憚られる。ゆえに髪も大事なもので、切ることは滅多にない。気軽に人に頼むものではないのだ。
 だが曹操はあっさりと許チョに頼んだ。
 逡巡し、許チョは結い紐を受け取る。いくら曹操自ら頼んできたと言っても躊躇いがないわけではない。しかし結い上げた髪を崩してしまったのは他ならぬ許チョ自身であり、ならばそれを直す責任も自身にあるだろうと許チョは思った。
 「そんなに深く考えるな。別に崩しても構わんのだぞ。むしろほどけるくらいにしてもいいのだが」
 「殿」
 「ははは、それくらい言わんと、お前は己をさらけ出さんからな。忠実なお前は好きだが、それ以外のお前を見たい」
 「……私は、己以外、持ち合わせておりません」
 「そうか?」
 にこりと笑顔で言われ、許チョは少し戸惑ったように眉を下げた。それを振り払うように目を瞑り、曹操の背後へ回る。
 「それでは、失礼します」
 「うん」
 櫛を取り、髪をそっとすく。細いわけではなく、かと言って太いわけでもない。丁度よい、といったところだ。毎日手入れをしているので櫛どおりは良く、手のひらの上をさらさらと流れる。ゆっくりと、何度も櫛を通す。そうしながら、一つに纏めるようにしていった。
 「………………」
 艶やかな流れに口を寄せたくなるが堪える。上でまとめながら、後れ毛が出ないように、乱れも出ないようにと更にすいた。首筋が覗く。許チョにとってこの視界は、いつも曹操の側に控えていればよく見る角度だったが、状況と心境が違うと、何やら心を掻き立てるものがあった。しっかりとした首だが、自分のものよりは細い。
 「ふふ」
 「どうかなされましたか」
 何か不手際でもあったか、と許チョが手を止める。しかし曹操は目を瞑り、その姿勢のまま笑う。
 「何やら、心地良いなと思ってな」
 「そうでしょうか。手際は良いとは、自分では思えぬのですが」
 「まぁ、確かにそれほど器用ではないようだが、それでもお前にこうしてもらうのは心地良い」
 「………………」
 手際良さや器用さではなく。
 「お前の手は、心地良い」
 「……有難うございます」
 何かに掻き立てられていた己を恥じながら、同時に満たされる想いを許チョは抱く。続きを、と言って手の動きを再開した。頭頂で根元を縛り、長い髪をくるくると纏める。唇で食んでいた結い紐で結び上げた。
 「……できました」
 「ん」
 後は冠なり頭巾なりをつけるが、それは着替えてからだ。曹操の手が後頭部を触り、結い上げた髪に触れる。
 「うむ、良いな」
 そう言うと立ち上がる。すっきりとした後ろ姿だ、と許チョは思った。
 「さて、着替えるとするか」
 「お手伝いいたします」
 「ああ、いや、いい」
 そのまま行動に移そうとして、許チョは曹操に止められた。自分で言わずとも、退出しようものなら服は着せてくれないのか、と悪戯を考える者のように目を細めていうのではないかと思っていたが、逆に断られた。意外そうな色が出てしまったのだろう、それを見た曹操がにい、と笑った。
 「お前に着替えを手伝ってもらったら、むしろ着替えたくなくなるのでな。せっかく髪を結ってもらったのに、それをまた、駄目にしてしまう」
 暗に言われて許チョは口を引き結んだ。
 「お前の手は心地良い。だが、さすがに今、これ以上はまずいだろう?」
 「……分かりました」
 からりと笑う曹操に、許チョは平坦に返事をした。
 「それでは私は、任務に戻ります」
 「ああ」
 拱手し、曹操に背を向けると歩き出す。部屋の出入り口にさしかかったとき、
 「虎痴」
 曹操が許チョの名前を呼んだ。そして、
 「この続きは、また、な。今度は、この髪を崩す、その先を見たいな」
 やはり悪戯者のように目を細めて笑っていた。










髪を切ること自体も相当の覚悟が必要だったようですよね。確か誰かが覚悟を示すために前髪ばっさり切っていた話があったはず。
それは置いといて、今回の許チョさんは何となく若い気がする。反応が。感情が表に出ているなぁと。吉川版?


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