駆け引き・その後
仕事を完璧に終わらせたのは深夜1時を回っていた。流石に目が疲れたので早く休もうと布団に潜り込んだが、次の日、正確にはもう今日なのだが、曹仁との約束を思い出すと、なかなか落ち着かず、寝付くことがままならなかった。目を瞑り、何度も寝返りをうち、ため息を零しながら、李典がようやく眠ることができたのは──────。
「──────い」
「………………」
遠くで誰かの声が聞こえる。その声が誰だったのか思い出そうと李典は眉をしかめた。
「おい、李典」
体を揺さぶられる。不機嫌そうな太い声。そうだ、この声は。
「………………うるさい、ですよ……曹仁殿……」
重たげに李典は腕を持ち上げて額を押さえる。奇妙にだるくて、温もりを求めて布団の中の暖かさに寝返りをうって体を丸めた。
「お前、うるさいとは何だ、起きろ! もう夕方の5時だぞ!」
「………………は?」
聞き捨てならない言葉に李典は寝ぼけた視線を曹仁の声のする方へ向けた。瞬きをして視界をはっきりとさせる。見れば、曹仁が目覚まし時計をこちらに突きつけていた。アナログ式の指針が5時をさしている。しかも今、夕方、と曹仁は言った。
「はい?!」
勢いよく起き上がった。窓から見える空の色はすでに赤く色づいている。つまりは。
「………………寝過ごし、た」
半ば呆然とした声を李典は出した。曹仁はため息をつきながら李典が寝ているベッドに腰掛ける。
「……お前、昨日寝たの、何時だ」
「え……、ベッドに入ったのは1時過ぎ、ですけど……寝付いたのは……」
不確かだが、かなり遅い、と思われる。そう言いたげな李典に曹仁はもう一度ため息をついた。
「……曹仁殿は、起きていたのですか?」
探るように聞いてみれば、曹仁はばつが悪そうに、頭をかいた。
「……俺もついさっき、起きたのだ」
「……………………」
二人で黙りこくる。しばらく沈黙の時間が続いて、なんとも言えない微妙な空気が辺りを満たした。本来ならば、今日は、一日中。
昨日した約束の内容が内容だけに、実際は二人とも寝過ごしたと言う結果になり、お互い、何と言えばいいのか分からない。片方だけが寝過ごした、と言うならば、もう一方は相手に何かしら言えるのだが、今回は二人とも、だ。曹仁はそっぽを向いて意味もなく頭を掻き続け、李典もうつむいたまま、掛け布団をもごもごといじっている。二人とも、顔が赤い。
「あー……その、何だ」
だが、先に沈黙を破ったのは曹仁だった。李典はうつむいたまま、びくりと体を震わせた。寝過ごしてしまったが、ゆっくりとはできないが、まだ、今日だ。約束は生きている。今から求められるとしたら李典はどう反応すべきか考えあぐねた。約束は約束だし、何より李典自身が言い出したので、拒否するわけにもいかない。だが、もう夕方で、明日はいつもどおり仕事がある。李典は在宅ワークだが、曹仁は確かいつもより朝早くに出かけねばならないはずだ。それを思いついて、李典はどうすべきか悩んだ。求められること自体は、嫌でないのだ。
しかし、ぐるぐると考え込んでいる李典に曹仁はまったく違うことを言った。
「お前、腹は減ってないのか」
「……は?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
「だから、腹は減っておらんのかと聞いとるんだ」
言われて李典は考えた。腹。途端、ようやく体全体が覚醒したかの如く、小動物の鳴き声のような音の腹の虫が鳴り出した。それを聞いた曹仁は唖然となり、李典は愕然となった。次いで、真っ赤になる。
「くっ、はっはっはっは! お前の腹の虫はお前自身と違って随分と素直だな!」
不意を突かれたせいか、曹仁は声を上げて笑い出した。李典は真っ赤になったまま、ぶるぶると体を震わせた。そして、
「素直でなくて、悪かったですね!!」
衝動的に枕を曹仁に思い切りぶつけた。
すっかり機嫌の悪くなった李典に部屋を追い出され、曹仁はぶつぶつと文句を口の中で言いながらも部屋のドアの前で待っていた。部屋の中からはカタコトと李典の動く音がする。
「お前、何でこっちの部屋で寝ておったんだ」
ドアに背をもたれかけながら、疑問だったことを曹仁は聞く。李典はいつも使っている寝室ではなく、客用の部屋のベッドで寝ていたのだ。曹仁は起きて、寝過ごしたことにがっくりと肩を落とした後、隣に李典の姿がないことに酷く焦ったのだ。いつまでも起きない自分に、先に起きてしまった李典がどこぞで怒っているやも知れぬと考えたからである。急いで李典を探したが、キッチンにも居間にもいなかった。靴はあったので出かけていないと分かり、改めて探してみると、この部屋で寝ているのを発見した、と言うわけだ。
李典から寝た時間を聞いて、その後二度寝をしたわけではなさそうな様子に、曹仁はこっそりと安堵していた。自分の方が後に起きていたら間違いなく、李典の機嫌は壮絶に悪かっただろう。今も悪いがおそらくその上をいっていたはずだ。
それはともかくとし、どうして李典はこの部屋で寝ていたのか。仕事部屋からだと、いつも使っている寝室の方が近いのだから、移動が億劫になってこちらで寝た、と言う理由はない。
「………………自分の身の安全を考えて、です」
「何?」
部屋の中から聞こえてきた答えに曹仁は眉を上げる。
「あの約束をした後では、そのまま戻っては、……危ないと判断したからです」
「………………お前な」
つまり、寸前でお預けを食らい、しかも次の日は好きにしていい、と言う約束を貰った曹仁の隣へ、深夜、潜り込むというのは、李典にとって危険に他ならないと思ったと言うわけだ。曹仁は強く言い返せない。実際、曹仁は洗面所で水を引っかぶり、顔を洗って頭を冷やしはしたのだが、その後しばらく寝付けなかったのだ。李典はいつもどおり寝室にやってきたら、押し倒さなかったと言う自信は、ない。
コン、とドアを叩く音がしたのでそこから体を離すと、李典がドアを開けてでてきた。
「……で、どうする。どこかに食いに行くか?」
「いいえ、今から出かける気分にもなれませんし、何か作ります。曹仁殿は寝ててもいいですよ」
さらりと言う一言に棘がある。それに眉間を震つかせながらも曹仁は先にキッチンに向かった。
「それを言うならお前が寝ていろ。俺が作ってやる」
「曹仁殿の料理はよく言えば豪快ですが悪く言えば大雑把なんですよね……」
「不味くはないだろうが!」
「不味くはありませんけど、少し味が濃いです。あまり濃い味付けのものばかり食べ続けては体に悪いですよ。……一緒に作りますか?」
「……………………おう」
見上げて言われた言葉に曹仁は気恥ずかしさを覚えながらも頷いた。
料理に関しては李典の方がうまい。家事の一手を担っているので当然だが、元々手先が器用だった。細かなことにも気がつくし丁寧なので曹仁は一人でいた時よりもバランスのよい食生活をおくっていた。反して曹仁は、不味くなければいい、と言う実に男らしく豪快なものだった。大皿料理やどんぶり物が多く、美味いか不味いかで言えば美味い方だが、李典も言ったとおり、少々味付けが濃い。その分、コーヒーの淹れ方だけがプロ並みなのでその落差が激しく、あれだけ丁寧にコーヒーが淹れれるならば、料理の方もできるだろうにと李典は思わないでもないらしい。曹仁に言わせれば、あれは曹純の教えをそのままやっているだけだから丁寧さとは関係がないそうだ。
で。
「パスタ茹でている間に洗ったレタスを大きめにちぎって真ん中空けるように器に盛ってください。そうしたらこっちの野菜とツナとコーンをそこにのせてくださいね」
フライパンで玉ねぎと鶏肉とナスを炒めながら李典が言う。
曹仁がしっかりがっつりしたものが食べたいと言ったのだが、あいにくと寝過ごしたためご飯を焚いていない。なのでこってりめのパスタにすることにした。作り方は簡単で、熱した油にみじん切りにしたにんにくを少々炒め、それから同じくみじん切りにした玉ねぎ、一口大に切った鶏肉、輪切りにしたナスを炒める。あらかた火が通ったらトマト缶をジュースごと投入。味を見て、コンソメ、塩コショウで整える。それから少し煮詰めたら、好みのチーズを入れ、茹で上がったパスタも入れてソースと絡めれば出来上がりである。肉と野菜とチーズが入っているのでかなり食べ応えがあるのだ。
しかしそれだけではもちろん足りないので、簡単にサラダを作る。レタスをちぎり、千切りにした大根、胡瓜、人参、玉ねぎを混ぜたものと、ツナ缶は油を切り、コーン缶は水気を切る。それらを一緒に盛っておく。大きめにちぎったレタスで千切りの野菜とツナとコーンを巻いて、マヨネーズで食べてもよし、そのまま好みの量を小皿に盛ってドレッシングをかけてもよし。生野菜は先に食べれば満腹度が上がるので食べ過ぎずにすむのだ。
ついでに卵とわかめと鶏がらスープの素で手早くスープも作る。もしかしたらそれでも足りないかもと、小ぶりのロールパンも用意した。
「おい、この皿でいいのか」
「はい、そこに並べてください」
ソースと混ぜ合わせたパスタを、並べた皿に分ける。トマトソースのいい匂いが鼻をくすぐった。
李典は手早くまな板や包丁を片付け、汚れた洗い物は一先ずお湯に浸してシンクの中へまとめておく。曹仁はフォークやら取り皿やら細かいものを用意していた。流石に何度も手伝っていると要領を覚える。
「それじゃ、いただきましょうか」
「おう」
「「いただきます」」
和食だろうが洋食だろうが李典は食べる前には必ず手を合わせて『いただきます』と言う。それを曹仁に強要することはなかったが、李典だけが毎回しているのを見ていると、居心地が悪いのかそれともうつってしまったのか、いつの間にやら曹仁も同じようにするようになっていた。
「しかしまぁ、これだけのものをささっとよく作れるものだな」
大胆にフォークにパスタを絡めながら豪快に食し、曹仁は感心したように言う。
「今回のは簡単ですよ。野菜はただ切っただけですし、缶詰をそのまま使ってますし。鶏肉だってぶつ切りにしただけですしね。トマトソースも、ちゃんと一から作って煮込んでおいた方がコクがあって美味しいんですけど」
「そこまで細かくせんでも十分美味いぞ」
「曹仁殿は何でも食べてくれますけど、逆に作り甲斐がないんですよねぇ。感想が一辺倒だから」
「………………」
そう言われても、美味いものを美味い以外にどう表せと言うのかと曹仁は悩む。実際、李典の作る料理にハズレはほとんどないし、曹仁自身が好き嫌いがないため、不味い、ということがないのだ。
「曹仁殿、ちゃんとよく噛んで食べてくださいね」
「わかっとる。俺は子供か」
「見ていると飲み込んでいるようにしか見えないからですよ」
そう言う李典もしっかりたっぷり食べるが、曹仁よりは食べる速度は格段にゆっくりだ。
「朝も昼も食っておらんからしょうがないだろう」
「だったらなおさらですよ。胃に負担をかけてしまいます。曹仁殿、もう若くないんですから」
「お前な」
まだまだ働き盛りだが、一回りほど年下の李典からすれば確かに若くないのかもしれないが、そう言われるとむっとくるものだ。だが、ここで口論するのも不毛だと思い、ぐっと言葉を飲み込む。
「曹仁殿、パンはいりますか?」
「もらう」
少し不服そうな声で言うと、李典が小さく笑った。何だ、と言いたげに曹仁は李典を見た。
「……それでも、美味い、と言ってくださるのは、嬉しいです、よ」
「………………そうか」
だったら最初から素直にそう言え、と内心思わないでもいたが、やはり曹仁は黙っていることにした。
食事を終えた後、曹仁は体を洗ってくると言ってバスルームへ向かった。お風呂は沸かしていないのだが、シャワーでいいと言ってそのまま行ってしまう。李典は一つため息をついてから後片付けをすることにした。
シャワーの音がかすかに遠くから聞こえてくる。最初は何とも思っていなかったのだが、これからどうしようかと考えた時、はた、と思った。
今現在、ようやく7時を回ったところだった。夕方の5時に起きてそれから夕食をとったので、いつもよりずっと早い。そう、本来なら今日は。
食事を作っていたことですっかり頭の隅に追いやられていた約束が再び脳内を占めてしまう。食事は済まし、後片付けをしている最中で、この後の予定はなし。確かに明日は曹仁が出かけるのが早いが、まだ7時なのだ。ただ寝るには早すぎる。
そう考えると、李典は食器を洗いながらも次第に顔を赤く染めていった。どこの青少年だと自分で内心罵った。普段はそういう行為をするときは、多少の恥ずかしさはあるものの、ここまでにはならない。改まったように約束をして、その約束の内容が内容で、その行為をするのだ、と突きつけられているようで、酷く居た堪れない気分になる。
「………………」
遠くに聞こえるはずのシャワーの音がやけに大きく聞こえるのは気のせいだ。李典は泡だらけのスポンジを握り締めながら自分に言い聞かせる。第一、曹仁がしようと思っているのかどうか分からないではないか、と冷静に思い直す。明日の仕事をおろそかにするような男ではないし、自重もしっている、はずだ。けれど、曹仁は李典よりもずっと体力がありタフである。それに、明日早くとも、今日は夜が長い。少なくとも0時までには寝れば十分なわけで。
「………………」
いちいち細かに計算してしまった李典は、自分で自分に恥ずかしくなる。
したくないわけではないのだが、するのだ、と構えてしまうとどうしようもなく照れがでてしまう。初心でもあるまいに、とまた自分を罵った。
「おい」
「はいぃっ?!」
突如後ろから声をかけられて、李典は奇妙な声を上げてしまった。考え込んでいて曹仁がでてきたことに気がついていなかった。振り返れば、訝しげな表情でこちらを見下ろす曹仁がいた。
「何、変な声を出しとるんだ、お前」
「す、少し考え事をしてたのですよ、だから、驚いてしまっただけです」
「考え事?」
「大した事ではありません。曹仁殿、髪はきちんと乾かした方がいいですよ、風邪を引きます」
咳払いを一つして、いつもの調子を取り戻し、李典は言う。
「タオルで拭いておけばすぐに乾く」
だが、曹仁はそう言って居間へと行ってしまった。
「………………」
本当に、曹仁はどう考えているのだろうか。起きた時はそれとない空気があったものの、あれ以来からはまったくそんな気配が窺えない。もしかして、する気はないのだろうか。そう思うと、一人でうろたえている自分が虚しくも思えてきた。昨日は寸前で止めて、それを抑えるのに相当苦労していたみたいだったはずなのに。
李典は後片付けを終えると、歯を磨くために洗面所へ向かった。
李典が洗面所に行ってからしばらく、曹仁はソファに大きな体を沈めた。先ほどの李典の慌て様は、何となく想像がついた。いつも鈍い鈍いと言われているが、今回は気がつかないわけがない。もしかしたら外しているかもしれないが。
「………………」
多分、『約束』についてだろう。大雑把に言えば自分のことだろう、と曹仁は思った。昨日、あれだけがっついていたのにもかかわらず、その約束の当日だと言うのに、曹仁は行動を起こしていない。それについて、李典は思うところがあるのだろう。李典は、普段は沈着冷静で思慮深い。熱くなり過ぎる傾向のある曹仁とは逆で、落ち着いている。だがその実、表にはあまり出さないが、欲求が意外と強い。若さゆえか。そんなことを思うと、自分がなおさら歳を食ったと思えて、憮然とする。
曹仁はと言うと、したくないわけではないのだ。むしろしたい。次の日のことを考えて、流石に好き勝手はできないだろうが、一回くらいは。だが、どうにも踏ん切りがつかない。タイミングをつかめない。そもそも、今日、普段どおり起きていたとしても、自分は実行できただろうかと考えた。さぁやるぞとストレートにがっついたらおそらく李典の拳が飛ぶ。男同士なのだから雰囲気だのなんだのは気にするものでもないだろうに。かと言って、雰囲気を作りすぎると今度は気持ち悪がられる。その、微妙な空気の読みが難しい。
けれど、結局は一緒に寝るのだから、早めに寝るよう促して、それから。などと曹仁は考えをめぐらせた。
それから更にしばらく。
「……あいつ、遅くないか?」
曹仁は暇になってテレビをぼんやり見ていたが、8時を回り、9時近くなっても李典は戻ってこなかった。おそらくはそのままシャワーを浴びているのだろうと思うのだが、それにしても遅い。様子を見に行こうか。しかし物音は時折するので、倒れているとかそういうのではないのだろう。洗濯物でも干しているのだろうか。
几帳面なのは良いことだが、あまり遅くなると。
「……できなくなるぞ……」
「何がですか」
「ッ!!!」
背後から聞こえた声に曹仁は目を見開いて硬直した。声を飲み込む。それからゆっくりとぎこちなく振り返れば、髪を洗ったらしい李典が立っていた。先ほどと立場が逆転している状況だ。
「……ん、いや、何でもない。それよりどうした、随分遅かったな」
「体と頭を洗っていたのです。それから洗濯物と、色々」
「そうか」
やはり。一人で納得していると、李典は少し憮然とした顔で曹仁を見下ろしてから、ソファの前まで来ると、その隣に腰を落として座った。スプリングが軽く軋む。
「………………」
「………………」
何となく二の句が次げずお互い黙ってしまう。曹仁はちらりと隣に座った李典を見た。タオルを首にかけ、濡れた髪はそのまま背中に流している。
「……おい」
「……何ですか」
曹仁は手を伸ばして、李典が首にかけていたタオルを引き抜くと、李典の頭に荒っぽく、両手ごとのせた。
「ちょっ、何を!」
「お前、髪をしっかりふいとらんだろう! さっき、俺にあんなことを言っといて、お前自身がそんなんじゃ人のこと言えんぞ! そら、こっちを向け!」
言いながら曹仁はわしゃわしゃと乱暴に李典の頭を拭きだした。
「いたっ、痛い、ですよっ、曹仁殿!」
「うるさい、黙っていろ」
少しばかり加減のないやり方に李典は抗議の声を上げるが、曹仁は聞かずに続行する。すると、抵抗するのも無駄だと思ったのか、ソファの上に片足を横向きに乗せ、体も曹仁の方へ向き直った。意外と素直な行動に曹仁は頷きながら拭き続けた。
「そら、あとはドライヤーで乾かせ。風邪を引くぞ」
タオルを取り、大雑把に手櫛で梳いてやりながら、李典が曹仁に言ったことを、からかうように言い返した。
「もう少し力加減はできないのですか、貴方は」
「だったらちゃんと拭いてこい」
ぼさぼさに落ちていた前髪を、掻き揚げるように生え際に指を入れ、後ろへと梳く。きちんと撫で付けていないため、幾本か零れ落ちて額や頬にかかった。シャワーを浴びてきたばかりの李典の肌は普段よりも温かく、ほのかに色づいていた。伏し目がちにしている李典を見下ろしながら、曹仁は、知らず李典の髪の滑り具合を指で遊ぶように楽しんでいた。
「………………曹仁、殿」
「……あ?」
見入っていた曹仁は、不意に名を呼ばれ、返事をするのに反応が遅れた。
「……………………何も、しないんですか」
びくりと、曹仁の手が硬直した。李典は曹仁を見ないまま、ソファにのせた右足に両手をついて、言葉を続ける。
「昨日、約束、したでしょう」
搾り出すように、ようやく、と言ったような口調だった。うつむいて顔は見えないが、髪から覗く耳が赤い。シャワーを浴びて温められただけではない赤さだった。
「……だが、な」
曹仁は何と答えていいのか迷った。この李典の言葉は、素直にそのままの意味で受け取っていいのだろうか。李典は尋ねる場合、言葉の裏側に何かを隠している。何もしないのか、とは、何かしてもいいのか。
「別に、寝過ごしたからと言って、約束が無効だとは、一言も、言ってません」
息を飲む。胸の内が、じり、と熱くなる。
「……もう、9時だぞ。それに、俺は明日、早いのは知っているだろう」
己の中の欲求と間逆の、戒めの言葉を曹仁は言った。自分に言い聞かせるように。そして、李典の反応を、探るように。本人の口からの、問い掛けではない、はっきりとした言葉でないと、目の前の青年の心理は分かり辛い。ゆっくりと、李典の髪から指を離す。
「時間も、明日早いのも、分かっています。でも、じゃあ、曹仁殿は、したく、ないんですか。わた、しは────……」
そこまで言って、李典はますます深くうつむいてしまった。背中に流していた髪が落ちて、うなじが見え隠れしている。その覗き見える肌まで淡く色づいていた。まずい。まずい。曹仁は顔を大きな手の平で覆う。
「……私は、何だ」
「っ」
息を深く吐き出し、手を離すと、曹仁は上半身を少しだけ李典の方へ屈めた。真上から聞こえる声に李典は体を震わせた。
「李典、『私は』、何だ。言ってみろ」
低い声で問い掛ける。李典は硬直したまま動かない。曹仁はその言葉の続きを聞き出したかった。無表情で、だが、内心は焦れるように、乞うように、渇望するように求めていた。からかいは含まない。普段は曹仁に何か物申す時は、何事もはっきりと言ってくる李典だが、それ以外では素直な言葉は言わない。だから、はっきりと本人の口から言われないと不安が残る。見た目に反して臆病だと曹仁は自身を卑下した。普段はどうしていた。どうやっていた。どう触れ合っていた。わざわざ言わせなくとも、そうだ、いつものように、勢いで。そうしたら。そうすれば。
「………………李典」
だが、曹仁は口元を李典の耳に寄せ、更に静かに名を呼んだ。明らかに分かるほどに李典は身を硬くする。弱々しく、何かを言おうと口が動くが、言葉にならないでいる。その様子は、曹仁の嗜虐心を煽った。うつむいている李典の頬に手を添える。指で顎をそっと押し上げるように促せば、さほど抵抗なく、体が起きる。だが、顔はまだあげない。曹仁は頬に添えた手を動かし、指を頬から耳元へ、それから首筋、うなじへと滑らせる。ぞくりと肌が粟立ったのを感じ取った。
「…………っ、………………っ、私は、……したい、です。……曹仁、殿、と」
そこまで言ったのを聞き届けて、曹仁はもう片方の腕も伸ばし、背中を抱くと己の方へと抱き寄せた。驚いて顔を上げた李典に、覆い被さるようにして口付けた。
「んぅ、ふ、んん……っ」
舌を滑り込ませ、逃げないように絡め取る。口内のぬるい感触はそれだけで酔いそうになる。伝わってくる反応が顕著で、それをもっと引き出そうと、角度を変え、体も深く抱き込んで、息をつかせぬほどに貪った。
「………………ふ、ぁ、そ、……じん、ど、の」
「何だ」
顔を離し、荒く息をついたが、すぐに続きをしようとすると、李典がそれを遮るように自分の口元に手を当てて名を呼んだ。目は涙で潤み、苦しげに眉を寄せている。押し倒したい。
「……人に、言わせておいて、……曹仁殿も、したかったんじゃ、ないですか……」
塊のような息を吐き出して、それでもふてくされたような声で李典は言った。
「たまにはいいだろうが。第一、何でそんなに言い辛いのか分からんな、いつもしてることだろう」
なかなかタイミングを掴みきれなかった自身のことを棚に上げておいて曹仁は李典に詰め寄る。
「……言い辛い、ですよ……っ、あ、あんな、さぁ言え、と言わんばかりの状況じゃ、逆に言い辛いに決まってます……っ!」
確かに。何事も、改まってしようとするとどこか気恥ずかしくなる。夜のことならなおさらだ。
「だが、言ったんなら、するぞ」
「……最初から、そうやってはっきりと言えば良かったんです」
「はっきり言い過ぎてもお前、怒るだろうが」
「………………」
どうやら図星らしい。答えない李典に曹仁はもう一度口付ける。
「────立てるか?」
「……はい、大丈夫、です」
どうせなら抱き上げて運んでもいいのだが、必要以上に構われても李典は嫌がる。意外としっかりした足つきで立ち上がると寝室の方へ向かう。何となくまだ気恥ずかしさは残っているようだが、ここで引いても元の木阿弥、とでも思ったか、曹仁より先に歩いた。もっとも、またぐずったとしても今度は曹仁は吹っ切れているので、そのまま抱き上げて寝室に放り込むつもりだが。
「曹仁殿、ちゃんとテレビと部屋の電気、消してきてくださいよ」
こういうことには細かく、曹仁は苦笑しかけたが、何とかそれを押さえ込み、何気なく返事をする。
「おう」
かちりと、スイッチが切られ、部屋のドアは閉められた。
了
だらだらと二人の日常生活を書きたい病になっています。
漫画にすれば一コマ二コマで済みそうなのに。
……何と言うか、現代パロの良いところは、というか、良いところ、と言ってもいいのか分からないのですが、戦の時代に生きて、何ヶ月も会えなかったり、下手をすると一年二年を軽く越えて話もできなくなったり、何より今より『別れ』が非常に身近にあった時代だと思うのですよ。その中でひたすら生き続けた人たちの強さに惹かれて好きになったわけですが、そんな彼らが、戦が、少なくとも武器を持って戦うという世界や、『別れ』からその時より少し遠い世界でのんびり過ごしている姿を描けるのは、いいな、と思うのです。
とやかく言っていますが単純に一緒にご飯作ったり他愛ない口喧嘩やら和やかな休息やらしているのを見たいだけなんだ!!
二人はするまでのことに色々時間がかかりそうです。吹っ切ったらあっさり早い。
一緒に暮らし始めて結構経つのに、だからこそか、いざ!と改まると妙に照れくさくなって言い辛くなってお互いぐるぐるしていればいいと思います。
あと、李典さんは自分も一人の男だと言う意識は強いので必要以上に女性のような扱いをされても怒ります。色々大変曹仁さん。
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