駆け引き
李典は眼鏡を外すと椅子に背をもたれ掛け、うん、と大きく伸びをした。明後日までに仕上げなければならない仕事があるのだが、なかなか終わらない。だが、今夜頑張れば何とかできそうである。明後日なのだから、そこそこにして、明日、朝からやればいいのかもしれないが、明日は。
少し疲れた目元を揉んでいると、部屋のドアが叩かれた。返事をする前にドアが開いて曹仁が顔を出した。
「進みはどうだ」
「………………曹仁殿、開けるならまず返事が聞こえてから開けてくださいと以前も言ったではないですか」
様子を窺いに来たらしい曹仁に李典は呆れたように返す。見なくても分かるが、多分曹仁はむっとしているだろう。
「ノックはしたのだからいいだろう」
「よくはありません。そういう癖がついてしまうと、他のところでもやってしまいますよ。もし相手が込み入っていたらどうするのですか」
尤もな言葉に曹仁は不満そうだが返す言葉はない。
夕食が済んだ後から李典は部屋に篭り、仕事をしている。曹仁は頼まれた片づけを終わらせた後、居間でのんびりとしていた。それがこうして様子を見に来たのは、よほど暇だったのか、それとも別の用事があるのか。
「仕事はまだ少しかかりそうですが、今夜のうちにはできそうです。遅くなると思いますから、曹仁殿は先に寝ててください」
「今夜のうちに仕上げんといかんのか」
「ええ」
「何でだ? 締め切りは明後日だとか言っていただろう。それなら今日はもう寝て、明日やればいいだろうが」
「その手もありますが、明日は曹仁殿はお休みでしょう」
「それがどうした」
「………………」
心底不思議そうな声に、眉間に皺が寄る。この、にぶちん。だが、わざわざ説明するのも癪なので、李典は黙っていることにした。黙っている李典に、居心地の悪さを感じたのか、曹仁が低く唸った。
「……それじゃあ、コーヒーでもいるか」
「……そうですね、お願いします。濃い目のを」
「おう」
そして静かにドアが閉まった。李典は一つため息をつくと、首を一回しして、再び眼鏡をかけてパソコンに向かった。
しばらくして、再びドアが叩かれる。今度はすぐに開かない。それに小さく笑って、李典は返事をした。ドアが開いて、淹れたてのコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
「そら」
「有難うございます」
椅子を回転させて曹仁の方を向くと、曹仁はトレイに載せたコーヒーカップの一つを李典に渡す。もう一つ載っているので、どうやら曹仁は少しここで一緒に飲んでいくつもりらしい。近くにあった椅子を引っ張ってきてそれに腰掛けた。
コーヒーを一口、ゆっくりと飲むと、そのほどよい熱さと苦さと酸味にぼんやりとしてきていた頭がすっきりするようだった。曹仁の淹れるコーヒーは、かなり美味しい。はっきり言って李典が淹れるよりも美味いのだ。
「本当、曹仁殿の意外な特技の一つですよね、このコーヒーは」
「お前な」
「だってそうでしょう。ちゃんと自分で豆を挽いて、フィルターで落としているんですから」
そう、曹仁は自分でコーヒー豆を選んで買ってきて、自分で挽いているのだ。しかもコーヒーミルは電動式ではなく手動式。今は電動式でも手動式以上にうまく挽いてくれる物があるのだが、本人は手動式の方がいいと言って譲らない。淹れ方も順を踏まえており、手際もいい。喫茶店の制服でも着ていれば、非常に様になるのではないかと李典は思った。
「普段は大雑把なのに、ねぇ……」
「悪かったな」
「悪いとは言ってないでしょう。美味しいですよ」
「ふん」
曹仁は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「確か、貴方の弟から教えてもらったのでしたか」
「ああ。純の奴は趣味が高じて店まで持っているからな。あいつが淹れているのを見るうちに何となく覚えた。そうしたらあいつ、生半可はいかんとかぬかして、教え込むものだからな。まぁ、別に覚えて損はないが」
「………………」
李典は少しばかり目を伏せてさりげなく曹仁を見る。曹仁はその視線に気がついていない。
曹仁は弟である曹純と仲が良い。昔、色々とあったらしいが、大人になってからその関係は良好なものとなったそうで、その睦まじさは微笑ましいほどだ。休みの日はたまにその弟が趣味で経営する喫茶店に足を運んでいる。以前、一緒に行ったことがあるが、兄弟で話が盛り上がり、別に放っておかれたわけではないのだが、李典は微妙な居心地の悪さを感じてしまった。
今、曹仁が働いている会社は彼の従兄が経営する会社だが、李典も元々そこで働いており、曹仁の下についていたのだ。曹仁は短気で大雑把で詰めが甘いところがあり、昔よりは大分マシになったが、一人で大きな仕事を任せるのにはかなり不安のある男だった。李典もかなり頭が痛くなる思いをした。やることはやるし、頼り甲斐もあるけれど、同時にどこかで手落ちがある。次第にこの男には自分がいないと駄目だ、と思うようになり、今に至る。
それでも今はそれなりの慎重さも持つようになった。色々と李典に鍛えられたからだろうと周りは言う。曹仁自身は嫌がるが、李典はそう言われることは嫌ではなかった。
けれども、そんな曹仁が、自分の知らない顔で知らない話を別の誰かとしているのは、少しばかり不服だった。誰にでも、家族や恋人や友人の知らない一面を持つものだが、それを分かっているからといって、受け入れることができるかは、それぞれである。李典は分かっていて、納得していて、そういう時間を壊す権利もないということを理解しているが、不服に思う気持ちは消せない。曹仁の淹れるコーヒーは美味しいが、どうしてもそれを思い出してしまう。
「李典?」
不意に曹仁が声をかけてきた。いつの間にかそばに立っている。
「……何ですか?」
努めて平静に、平坦に、李典は曹仁を見上げた。曹仁はもうコーヒーを飲み終えたようで、先ほどまで曹仁が座っていた椅子にトレイと一緒に置いてあった。
「何ですか、じゃないだろう。考え事でもしていたのか。黙りっぱなしで」
「ええ、ちょっと、仕事のことで」
「……本当か?」
覗き込むように見てきた曹仁から、少し逃れるように身を引く。タイヤがついている椅子がころころと転がって動いたが、すぐに後ろの机に当たってしまう。
「本当です。何故嘘をつかねばならないのですか。……そろそろ仕事の続きをしますから、曹仁殿も寝てください」
そう言って背を向けようとするが、曹仁が椅子の背もたれを掴んでそれを阻止した。
「お前な」
「何でしょう」
「いつまでも俺が鈍いままだと思うなよ」
「鈍いでしょう」
すかさずツッコミをいれる。曹仁はその即答に鼻白んだが気を取り直した。
「何を拗ねとるんだ」
「……拗ねておりません」
「拗ねとるだろうが」
「拗ねてません。曹仁殿、見当違いですよ」
「……まったく」
冷ややかに返せば、曹仁は大きなため息をついた。ため息をつきたいのはこちらの方だと李典は思う。すると、李典が持っていたコーヒーカップを取り上げた。
「まだ飲んでませんよ」
「見れば分かる」
カップを取り返そうと身を乗り出す李典に、逆に曹仁はカップを取られないように腕を伸ばして机の端に置いた。そして自身は李典の方へ身を寄せる。顔が近づいて、李典は身を固くした。唇が重なる。
「………………曹仁殿」
「何だ」
唇は離すが顔は近づけたままで、曹仁は答える。ちろりとだした舌先で李典の唇を舐めた。
「こういうことで誤魔化して相手を黙らせようとか口を割らせようとする人は信用ならないと言いますよ」
「………………悪かったな。信用ならん男で」
「いいえ、曹仁殿の場合は他に手段が思いつかないだけでしょう」
こんな状況でも李典はしっかりきつい一言を浴びせてくる。曹仁は苦虫を噛み潰した顔になった。だが、そう言いつつも李典は逃げようとはしない。曹仁は李典の服のボタンを外し始めた。
「それに私はまだ仕事があると言ったはずですが」
「明日やればいいだろう」
「明日に持ち越したくないからやっているのです。それにぎりぎりに仕上げるのは性に合いません」
「今夜終わらせることができる仕事なら、明日の朝からやれば昼には終わるだろう。……明日は休みだから、俺が家事をやってやるから、お前は仕事に専念すればいい」
その言葉に李典は状況を忘れて目を丸くした。
「……曹仁殿がそんなことを言ってくれるとは、明日は雨ですかね」
「その減らず口を何とかしようと言う気はないのかお前は」
「ありません。私が言わなくなったら誰が貴方に言うというんですか」
「……自惚れるなよ」
「自惚れておりません。事実です。……そうでしょう」
李典の手が、曹仁の袖を掴む。曹仁は眉を寄せたまま、噛み付くように口付けた。
「……ん、ふ……そ、れに」
「ん?」
入り込んできた舌に僅かに息を乱しつつも、李典は合間に言葉を入れる。
「やはり、今日中に、終わらせたいのです」
「何故だ」
「………………先ほども曹仁殿も言いましたが、貴方、明日は休みでしょう。だから、です」
「……どういう意味だ」
「……だから鈍いと言うのです」
心底呆れた声が漏れた。
「……今日中に仕事を終わらせれば、明日は一日のんびりできるでしょう。貴方は休みでも何かしら出かけなければならないし、私も暇ではないし、一日のんびりすることはあまりないじゃないですか」
「……そうだな」
「だから、です。ましてや仕事を後に残したくはありませんから。だから、今日は」
名残惜しそうに、曹仁の肩を押す。押されて促されるように曹仁は身を離そうとしたが、逡巡した後、再び身を乗り出した。
「ちょ、曹仁殿」
腰に回ってきた腕に李典は驚く。怒ったように、今度は本気で曹仁の肩を押した。
「確かに、明日一日のんびりするのもいいが、……今こうして、明日の昼からまたのんびりするのも悪くはないと思うぞ」
「……節操ないですよ」
「お前だって男だろう、分かれ」
どうやら少しばかり歯止めが利かなくなっているらしい。曹仁は李典の首筋に顔を埋めて吸い付いた。びくりと李典の体が緊張する。
「曹仁、殿」
「聞かんぞ」
「……今日、我慢したら、……明日、好きにしても、いいですよ」
ぴたりと曹仁の動きが止まった。それから、ゆっくりと、顔が持ち上がる。訝しげな、というべきか、それとも理解できない、とでも言うべきか、ともかく顔をしかめて李典を凝視する。李典は曹仁に煽られた体の熱を何とか抑えるように、肌蹴られたシャツの襟を寄せながら続ける。
「今日、我慢したら、明日は一日中、好きにしていい、と言ったんです」
何を、とは言わないが、それではぐらかすつもりは李典にはない。いつもならはぐらかすかもしれないが今回はそういう気分ではなかった。
「………………………………お前、俺をからかっているのか」
曹仁は李典から体を離して目を片手で多い、天を仰いだ。たっぷりと黙り込んだ後、顔を元に戻すと、思い切り胡散臭い物を見るように言った。
「……心外ですね。冗談でもからかっているつもりもありません。ただし、今回だけです。今日、我慢したら、ですよ」
「………………………………」
再び曹仁は黙る。本気になっていただけに、それを直前でお預けにされたのだ。かなり厳しいものがあるだろう。よく分かるが、李典としては我慢してもらいたかった。
「………………………………」
「………………………………」
沈黙。
そして突如、ごっ!、と曹仁は壁に頭を打ち付けた。
「曹仁殿?!」
「ええい、くそ!! 頭を冷やしてくる!! お前はとっとと仕事を片付けろ!!」
いきなりの行動に面を食らったが、曹仁はそう怒鳴り散らすと足を踏み鳴らして部屋を出て行ってしまった。……どうやら、我慢をすることにしたようである。
「……我慢強くなったものだなぁ」
しばらく呆気に取られていたが、その後ろ姿を見送って、李典は小さく笑い出した。はっきり言って、李典自身も相当危なかった。あのまま流されてしまおうかと思ってしまったのだが、何とか理性の端を引っつかんで引き戻した。自分も頭を冷やしたいが、今、出て行ったらまずいだろう。しょうがないので、先ほど残したコーヒーを飲む。ぬるくなってしまったが、苦味は相変わらずで、少し気分が落ち着いた。
「……さて、やるとするか」
ああ言った以上、確実に仕事を終わらせなければならないだろう。そしてそれだけではなく、あまり遅くなりすぎてもならない。徹夜をしてしまえば、明日は下手をすると睡魔に負けてしまいかねないからだ。そうなれば曹仁がどのような行動を起こすか分かったものではない。とはいえ、一度落ち着けば今ほど危険もなくなるだろう。
けれども。
「………………」
李典は顔を赤くして伏せる。頭を片手で抱え込むように机に突っ伏した。
一日中。
身は持つのか。体格と体力の違いで、一晩でも相当だというのに。
それに、それは自分自身で言ったのだ。つまりは、そうされたいと、自分が、望んで。
「って、そんなことよりも仕事!!」
頭を振って誰に言うでもない独り言を大声で言う。何故だか酷く居た堪れなくて、何かを誤魔化したくてしょうがない気分だった。無機質な文字の並ぶパソコンの画面を食い入るように見つめて、頭の中から仕事以外を排除しようと努めた。
次の日、どうなったかは、二人だけが知るのみである。
了
現代パロディです。
その時代、その世界に生きているからこそそのキャラたちなんだ、と言うのもありますが、二次創作だからこそやれるものもあるよなぁと。それぞれ線引きあると思います。私は結構雑食です。
某様のスーツ曹仁さんがやたらと格好良くて堪らんのですよ。背は高いし恰幅は良いし短髪にしてあの髭だと相当迫力あります。でも
嫁(李典さん)におつかい頼まれてスーパーのビニール袋(もしくはエコバック)にネギやら何やら入れて帰ってくるんです。そしてちょこちょこ些細な買い間違いやらなにやらやらかして李典さんに突っ込みいれられるんですよ。『このメーカーのじゃなくて今日特売だった○○の物をお願いしますと言ったじゃないですか』とか。そして曹仁さんは『メーカーの違いくらい何だ、同じ物なんだからいいだろう!』と言って反発するんですよ。そして李典さんはぐうの音も出ないほどの説明を曹仁さんにしだすといいよ。
10月1日はコーヒーの日だったとか。
それでふと思いついたのが、デスクワークをする李典さんにコーヒーを淹れてあげる曹仁さんの図でした。でも何となく二人は緑茶の方が好きそうな気がしないでもない。烏龍でもいいと思うのはやはり元が古代中国だからか。
因みに二人の一人称が『拙者』『わし』ではなく『私』『俺』になっていますが、仕様と言うことで。(汗)でも横山3594は一人称がさだまらなげふごふがふ。
この続きはそれぞれの脳内で!
ごく普通にのんびりのほほんと、旦那さんの手料理食べてテレビ見て他愛ない話して過ごすもよし、結局あれから寝付けれなくて次の日思い切り二人して寝過ごして夕方になってしまってもよし、宣言どおり一日中ただれた時間過ごすもよし!!(逝ってこい
カーテン閉めても相手がしっかり見える室内なので雰囲気違って色々大変だー(棒読み
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