憩いの場所
ある日の午後だった。
仕事が片付いた張コウは、せっかくできた時間なので、今日は休みであるはずの夏侯淵を誘って狩りにでも出かけようと思いついた。普段着の裾も優雅にさばいて、軽やかに鼻歌まじりに夏侯淵の屋敷へと向かった。
張コウは曹操軍に降ってからよく夏侯淵の世話になっていたので、屋敷にも顔を出している。そのため、色々と奇抜な彼に対して大分免疫もできている屋敷の住人たちは、やってきた張コウを快く迎えてくれた。
部屋まで案内しようとする下女に、にこやかに断りを入れて、張コウは夏侯淵の部屋の入り口をくぐる。
「将軍、おりますか? お暇でしたら私と一緒に、この素晴らしい陽光の中、狩りになど……って」
いつもどおりに、ごく自然な行動のようにしゃべりながら恰好を決める張コウは、中にいた夏侯淵の姿を見つけて目を丸くした。正確には、夏侯淵の側で寝転がっている人物に、だ。夏侯淵は中に入ってきた張コウを見て、笑いながら、しぃ、と口元に人差し指を当てた。どうやら手紙か何かを書いていたところのようで、机の上に竹簡と墨があり、片手には筆が握られていた。
「……これは……どうなされたのですか?」
足音を忍ばせて歩み寄る。張コウが言わんとしていることに気がついた夏侯淵は眉を下げて笑った。夏侯淵の側、その膝に頭を乗せて寝息を立てている人物。それは彼の従兄である夏侯惇だった。
「実はなー、さっきまで惇兄、殿の巡察に付き合ってたんだわ。そこでいつもの殿の思いつきに巻き込まれたみたいでな」
「はぁ」
「おまけに昨日は昨日で夜遅くまで仕事しててよ、どうやら寝不足らしいんだ。そんで、巡察から帰ってきたはいいものの、自分ちに戻る気力もなかったらしく近くだった俺んちに転がり込んだってわけ。凄かったぞ、俺の部屋にやってきたと思ったら、ぶつん、て何か切れるみたいに倒れこんじまったからなぁ」
想像に難くない。夏侯惇が曹操の補佐をしているのは常日頃の光景で、巻き込まれるのも日常茶飯事だ。ある程度で切り上げればいいものを、几帳面と言うかお人よしと言うか世話焼きと言うか、夏侯惇の性格はその『ある程度』ができないらしい。曹操に対してそれが顕著で、曹操もそれを面白がっている節がある。
「寝床に運んだ方がいいとも思うんだが、ま、もうちっと休ませてからの方がいいかなと思ってな」
「なるほど……あの夏侯惇将軍が、こんな風に人前で寝姿をさらすなど、よほど疲れていると言う証拠ですものね」
「はは、だな。俺の前でも滅多にこんなことにゃならねぇし。屋敷で一人でいるときくらいじゃねぇのかな」
夏侯淵の膝を枕にして横たわる夏侯惇は、いつも入っている眉間の皺もなく、驚くほど安らかだ。力が抜け切っている、と見てもいい。だが、少し顔色は悪い。
「で、ただこうしてるのも時間がもったいねぇから机持ってきてもらって手紙書いてたってわけだ。んで、お前さんはどうしたんだ?」
しゃがみこんで珍しいものをしげしげと観察していた張コウは、不意に話をふられて、本来の目的を思い出す。
「いえ、天気も宜しいですし、狩りになど出かけませんかとお誘いに参ったのですが」
「そっかそっか。けど……」
「ええ、この状態では無理のようですし、本日は諦めましょう」
「すまねぇな」
少しだけ苦笑しながら夏侯淵は謝る。
「将軍は夏侯惇将軍が起きるまでこの状態で?」
「ああ。まぁ、そんなに長くならねぇだろ。ちょっと目ぇ覚めたら寝床に連れてくさ」
張コウの質問に慣れたことのように答えて、和やかに従兄を見る。扱いが慣れているのは当然だろう。付き合いから言えば従兄弟同士で同じ夏侯家ゆえ、二人は一番長い。しかし、普段は厳しくも頼りになる従兄を屈託なく慕う従弟、という関係に見えるが今はその逆だった。
「やはり将軍だから、夏侯惇将軍もこんなに無防備になるのでしょうか」
「んー、そうだと嬉しいけどな。いっつもは俺の方が惇兄に頼ってっから、たまにはな」
「何をおっしゃいます、将軍は十二分に夏侯惇将軍のお力になっておられますよ」
「はははっ、ありがとよ。狩りはまた今度付き合うぜ。そしたら俺様の弓の腕を存分に見せてやっから」
「ええ、楽しみにしております」
そうして立ち上がって去ろうとしたとき、眠っていた夏侯惇がうなり声を上げた。二人は同時に口を押さえたが、夏侯惇は少し体勢を変えたあと、また静かになった。
「……本当に無防備ですね」
その寝姿をじっくり眺めていると、物珍しさの好奇心が満たされたからか、別にむっくりと面白くない気持ちが湧き上がる。疲れていて気の毒だ、とは思うものの、こんな天気のよい午後に夏侯淵を独り占めしているのは正直羨ましい。狩りを楽しみたいなら、他に予定のあいている人物を誰か誘えばよいが、張コウは今日は夏侯淵と行くつもりになっていたので、残念な気持ちが否めない。そこへこんな光景。
何となく、面白くない。
「将軍」
「ん?」
「私も美しく膝枕をしていただきたいのですが駄目でしょうか?」
「は?」
「夏侯惇将軍ばかりずるいです。このような感情は美しくないと分かっておりますが、将軍の貴重なお時間とお膝を独占するのは夏侯惇将軍と言えど抗議に値します!」
「おいおい」
張コウの突然の要求に夏侯淵は唖然とするしかない。しかし張コウは子どもじみた主張をやめず、実力行使とばかりに寝転がった。
「あー、こらこら」
呆れたような声が上から降ってくる。目を瞑って、そう簡単には折れてやらない姿勢を取っていた張コウの額のあたりに、夏侯淵の手の平が置かれ、幾度か軽く叩かれる。
「張コウ、張コウ」
「何ですか」
「そこで寝られっと、俺が身動きできねーんだわ」
「……………」
重々承知していた。苦笑した困ったような声に、わがままは迷惑だと自覚しているので、張コウはあっさりと目を開けて起き上がる。
「んだけど」
「はい?」
起き上がった張コウに夏侯淵はからりと笑う。
「ちょっとの間でいいんなら、背中は貸してやれるぜ」
「──────」
己の背中を軽く指差しながら言う夏侯淵に張コウは目を丸くした。それはある意味、なかなかの特等席。
「────ふむ、背中を貸していただく、これは戦場においてならば後ろを守っていただくのと同意義……信頼の証ですね!」
「え? あ、いや、別にそこまで」
「私のわがままにそのような場所で答えていただくとは、夏侯淵将軍はやはり美しい! それではいざ!」
身を翻して、その広い背中に、自分の背中を預けるように寄りかかる。夏侯淵は張コウより背は低いが、逞しさであれば大分上だ。安心感が違う。
「これは何とも、落ち着ける場所でございますね」
「そうかぁ? 気に入ってくれたんならいいや」
満悦した声に、夏侯淵も楽しそうに笑って答えた。
天気の良い昼下がり、こうした場所で過ごすのも悪くない。
了
惇兄さんは曹操や淵さんの面倒を見ている感じですが、淵さんに対しては面倒を見ていると同時に無意識に頼っているといいなと思います。何というか、癒し?充電?ある程度自分を崩しまくってもいい場所。大分無自覚なので、兄貴な姿勢ではある。
張コウさんは夏侯淵の気さくでありながら豪胆な性格が好きなんだろうなぁと。この人の美しさって見た目もあるけど中身も存分に含まれていますよね。多分、見目が良くても性格悪かったら美しくありません!と言うんでしょうな。
この後、起きた惇兄さんはまだ大分寝ぼけているので、淵さんに連れられて用意された寝床で夜まで二度寝します。これができるのも淵さんちだからだ!そのとき張コウとも言葉を交わしているけれど、はっきり目が覚めたときはおぼろげにしか覚えていなくて、でも見られたことにむがーっと悶えればいいよ。まぁ、張コウさんは他の人に言いふらしたりする人じゃないので大丈夫ですが。
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