咆哮
「お前はどのような時でも泣かぬのだな」
不意に主たる曹操が許チョにそう言った。
「男児たるもの、如何なる時も涙など流すものではない、と思います」
その返答に曹操は頷く。己は武人であり、ましてや女子供ではない。例えどのような状況だったとしても、涙を人前でながすものではないと許チョは思った。
「まったくその通りだ。だが、時には心のままに泣いてみるのも良いと、思うこともある」
何かを含んだような笑みを湛えて曹操が言う。
「もちろん、軽々しく泣き喚け、と言うわけではない。おいそれと人前で泣くものでもないと思う。だが、本当に泣きたい時に、泣いても良い、と思う相手の前では、涙を流しても良いのではないだろうか」
「………………」
「わしも泣くことはあった。心のままに涙を流すのは、けして愚かなことではないだろう」
寝台の上、一人、身を起こしながらも穏やかに話す曹操に、側に跪く許チョは応えることも否定することもしなかった。曹操が今、答えを求めているわけではないと思ったからだ。
「お前は、どのような時に泣くのだろうな」
「……泣くことは、ないと思います。例えあったとしても、魏王にそのような姿を見せることはできません」
「何故だ? お前とわしの仲だろう。気にすることはない。泣けばいい」
今度の問いかけには、許チョは答える。
「いいえ。貴方をお守りするのが私の務めです。その私が泣くことは」
「弱いと思われてしまうか? 思わんぞ、わしは。お前が側にいるようになってもうどれほどか。むしろ泣かぬことの方が不思議に思える」
喉の奥で笑う曹操に、許チョは少し困惑した表情を浮かべた。
「わしは、お前が涙を見せても良いと思える相手ではないと言うことか」
「そういうわけではございませぬ」
からかうような言葉に許チョは即答した。
「……貴方であるからこそ、です」
曹操は目を細めて微笑んだ。
「わしはお前になら何を見せても良い、と思う。お前とは逆だな」
「………………」
「……だが、意味は違わぬと思うぞ」
「……身に余るお言葉です」
すぐ側にいる許チョの頬を指の背で撫ぜる。許チョは黙ってそれを受けた。
「なぁ、許チョよ」
「はい」
「お前は泣かぬのか」
再度の問いかけに、許チョはふと思い至って、言葉を返した。
「泣きません。……私はここにおります。今、貴方が何をなされても、口外は致しません」
「違う」
許チョの言葉に曹操は、今度は眉を下げて苦笑した。そうして皺の増えた指先で許チョの目元に触れた。
「わしが泣きたいのではない。お前が、泣きたいのだろう?」
誰も彼もが涙を流し、嘆き伏す中、許チョはやはり泣かなかった。今は静かに一人、曹操の棺の前にいる。
側にいながらも看取ることはできなかった後悔が胸にくすぶり、酷く落ち着かない気分が身を包んでいたが、それをおくびにも出さず、口を引き結び、ただその棺を見ていた。
──────お前はどのような時に泣くのだろうな。
己は、こんな時でも泣きはしない。主の護衛であるのは、主が亡くなった今でもそうなのだと、許チョは思う。
亡くなった。改めてそう思うと、反射的に息が詰まり、手を握り締めた。
亡くなった。そう、亡くなったのだ。例えどんな者でも老いには勝てず、死からは逃れられない。等しくそれは人を包むのだ。だが、曹操はそんな人の枠を超えてしまいそうな気がした。人をからかうところがあるから、ひょっこりと今、目を覚ましても不思議ではない気がした。
……何を考えているのか。
許チョは己の思考を両断した。そんなことはありはしないのだと考える。だが。
──────お前が、泣きたいのだろう?
声が蘇る。ああ、そうだ。
唐突に許チョは悟る。
己は信じたくないのだ。信じたくないが故に、泣かぬのだ。泣いて涙を流してしまえば、それは己の中で本当に主が亡くなることになる。認めたことになる。それだけは、どうしてもできない。だから己は泣かぬのだ。
だが同時に泣いてしまいたいのだ。曹操が言ったように、泣きたいのだ。それは曹操を失うと言うことへの悲しみと、嘆きと、怒りと、遣る瀬無さだ。どうにもならないことへの抗いにも似たものだった。幼子のように泣いて、主に迫るものをすべて否定したい。しかしそれらはまるで他人事のような感情だった。
寂しそうに笑う曹操の顔が浮かぶ。
困った奴だと言われているような気がした。目元に触れた指先のあたたかさ。まるで、涙を促すような仕種。
常にないほどの穏やかな声だった。
目の前には曹操が眠る棺。その縁に、そっと触れる。この手で幾度も守ってきた。
殿、殿。やはり私は泣きません。
──────ですが一度だけ。
今、この時だけお許しください。
心の内で許しを請う。苦笑して、許しなど得ずともいいだろう、と言う曹操がいるようだった。
泣けばいい。心のままに涙を流すことは、けして愚かではない。
ぱたり、と棺の縁に落ちた。枷が外れる。涙が溢れ出す。泣くなど、いったいどれほどぶりのことなのか。その頬を伝う熱さに許チョは頭の隅で困惑する。だがそれは止まることを知らなかった。ぱたり、ぱたりと零れ落ち、棺を濡らした。喉がきつくひりつき、目の奥が絞められるように痛む。胸の内を焼き、塊のような呼気が吐き出された。
唸りのような嘆きが漏れ出し、堪えようと歯を噛み締めるもそれは無駄に終わる。思い出すのはあの時の手のあたたかさだ。殿、と声が落ちる。
『 』
聞こえぬ声がその呼びかけに応えた気がした。
空を望むように上を向き、許チョは吼える。九泉の下まで響けよと、声の限り嘆き吼えた。
膝をつき、それでも天を仰ぐ。
いつか、いつか、時が来たらば、貴方の許へ参ります。いつか、必ず。どうか、それまで。
喉が潰れ血を吐こうとも、許チョはただ、ただ、主を想い涙を流し、吼え続けた。
──────建安25年1月23日。曹操、永眠。
了
曹操追悼話。
横山、と言うよりは創作に近いです。
中の国では、男性の涙と言うのは軽蔑の対象だったそうです。だからこそ、それでも泣く、と言うことは、その人の心の本当の中身を表しているんじゃないかな、と思います。
泣いて泣いて血を吐くほど嘆き続けた許チョさんは、本当に曹操を想っていたんだな、と。
九泉の下で、いつか。
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