蛍火
お前も少しでもいいから休みを取れ、と曹操に言われ、半ば強制的に長休を入れられた許チョは久しぶりに実家に帰っていた。両親はすでに亡く、兄が農業を営んでいた。酪農業と畑作農業の両方をやっているので、日々忙しいし大変ではあるが苦ではないと言っている。
久々に実家の仕事を手伝い、土や動物と触れ合って数日を過ごしたころ、不意に思いもしないことが起きた。
「邪魔をするぞ」
そう言って満面の笑顔で現れたのは自分の雇い主である曹操だった。
「……それで、何故、こちらへこられたのですか。お仕事はどうなされました」
兄たちは挨拶を交わした後、自分がいるからいいだろうと言って仕事へ出かけてしまった。ひとまず冷たい茶のお代わりを用意して、改めて問いかける。一緒に同僚の典韋も来ていた。
「仕事は丕と夏侯惇に任せてきた。こっちへ来た理由は、まぁ、なんだ、お前の兄に挨拶をしておこうと思ってな」
「本当はお前がおらんくてつまらんのと、お前の地元に遊びに行ってみたかったからだぞ」
曹操がいつものように悠然と答えれば、笑いをかみ殺した表情で典韋がこっそりと囁く。と言っても、当の本人に聞こえるような囁きなので、意味はない。
「典韋、余計なことは言うな」
「はい、これは失礼いたしました」
楽しそうに笑い交じりに典韋は頭を下げる。曹操は少しばつが悪そうに眉を寄せるが、すぐに開き直ったように胸を張る。
「お前の休みに来ては、お前の休みにならんとは思ったが、思い立ったが吉日だ」
「……夏侯惇殿は、大分怒っていたのではないか、典韋」
「そりゃもう、お前の想像通りだ」
「典韋!」
「はっはっは、それでは社長、わしは先に戻っておりますぞ。許チョと一緒に社にお戻りくだされい」
先に荷物をまとめると、典韋はそう言って立ち上がる。曹操は、分かった、と答えたが、許チョはその言葉が聞き捨てならなかった。
「私と一緒に、とは、もしや」
「ああ、わしはここに泊まるぞ」
思わず額を押さえた。マイペースと言うべきか自分の思った通りに行動するというべきか、とにかくその行動に内心頭を抱える。夏侯惇が烈火の如く怒っている姿が目に浮かぶようだ。
「安心しろ、ここに、と言ってもこの地に、というだけでお前の家の世話になるわけではない。ちゃんとホテルをとってあるからな。だが、今日と明日の日中くらい、私の観光に付き合え」
「……分かりました」
短く答えた。典韋はその返事を聞いて、社長を頼んだぞ、と言って帰っていった。
典韋を見送った後、曹操が許チョを見上げて言う。
「すまんな、許チョよ。せっかくの休みだと言うに」
「いえ、休みと言っても家の手伝いをしておりましたから。それに」
「うん?」
隣にいる曹操に許チョは表情を和ませた。
「あなたの傍にいることの方が、落ち着きます」
「……そうか」
曹操も目を細めて嬉しそうに笑った。
「もうすぐ昼ですし、何かお作りしましょうか。それともどこかへ食べに出かけますか?」
「おう、お前が作ってくれるのならそちらの方がいいな。お前の料理はそこいらの料理人よりうまい」
壁にかけてある年代物の時計を見て、許チョは立ち上がる。曹操は嬉しそうに答えた。以前、食事をとる暇のなかった曹操に、会社の給湯室を使って簡単なものを作って出したことがあった。それが殊の外喜ばれ、それ以来、機会があれば作るようになったのだ。
「お前の兄夫婦たちはどうするんだ?」
「遠くの畑に行ったので弁当を持っていきました。わざわざ往復する時間がもったいないですし。それに牧草の刈り入れもあるので、夕方まで戻ってこないでしょうな。そしてそれから牛舎の仕事に入ります。社長、私も夕方からはそちらの仕事がございますゆえ、お付き合いできるのはそのあたりまでになりますが宜しいでしょうか」
「構わんぞ。しかし、押しかけたわしが言うのもなんだが実家に戻っても仕事とはなぁ」
冷蔵庫の中身を確かめながら作るものを決める。曹操が胡坐をかいて冷たい茶を飲みながら半ば感心したように言うので、許チョは苦笑する。
「いえ、むしろ働かない方が体の調子が悪くなります。休日でもやはり、適度には動いた方が良いのでしょうな」
「それは分かるがな」
外では蝉が威勢よく鳴いている。近くに家はなく、隣家と言えば1キロほど離れていた。昼時なので、どこも休憩に入っているだろう。それ以外は静かなので、なおさら蝉の声が響くのだ。
「ところで社長」
「うん?」
「観光と言われますが、社長もこちらの出身のはずではないですか」
そうだ。曹操は偶然にも生まれた土地は許チョと同じだった。今は別の土地に住んでいるとはいえ、独立するまではこの地にいた。もっとも、同じ土地といえど広いので、街中で育った曹操と山のふもとに住んでいた許チョとでは環境が全く違う。
ゆえに、許チョが街へ出かけるならまだしも、曹操が街へ行くのは観光とは言えない。帰省だろう。
「しかもご実家に戻らずわざわざホテルをとられるとは」
「この歳になって実家に戻るのも難だろう。それに地元だからこそホテルに泊まるのも面白いぞ」
「そういうものでしょうか」
曹操は細かいことは気にしない。だが同時に、ささやかなことに面白味を見出したりもする。
「それに、地元と言ってもこっちには来たことがなかったしな。観光は楽しむための旅行だ。わしは存分に楽しんでいるから、立派な観光だろう」
得意げに言う曹操に思わず笑みがこぼれる。許チョよりも10は年上であるのに子供のようなところがある。それは許チョにとって微笑ましく、好ましいものだった。
「そうだ、それではお前の好きなところへ連れて行ってくれんか」
「え?」
「このふもとで育ったのなら、お前しか知らん場所があるだろう?そういうところへ連れて行ってくれ」
作りながら、食べながら、どこがいいだろうかと許チョは考えていた。自分の好きなところ、と言っても、やはり連れて行くなら曹操が喜んでくれる場所の方がいい。だが、曹操の好みはある意味難しい。派手なものも好むし、素朴なものも好む。豪奢なものを楽しんだりもすれば、質素なものに心を和ませる。しかし、なんでも良い、というわけではない。つまり、これ、という明確なものがないのだ。食事も、豪華なものをフルコースで食べ、テーブルマナーも完璧だが、作業場で働く男のように、仕事をしながら片手間に握り飯を手づかみで食べることも平気でする。
「許チョが作るものはやはり美味いな」
「有難うございます」
こんな風に屈託なく、許チョが作った料理を頬張りもする。許チョとしては、こんなふうに穏やかに、曹操と一緒にいることが一番であったが、それでは意味がない。
「……それにしても」
「はい」
ふと、曹操があたりを見回していう。
「この家はお前が幼い時からあったのか?」
「ええ、祖父の時代に建てたものだそうです」
「なるほどな、道理でいい年季が入っている。何というか、理想的な田舎の家、というやつかな。落ち着く」
そこここに傷のついている卓袱台を撫ぜた。
「ここで、お前が育ったのだなぁ」
感慨深げな声だった。それに幼かった頃を思い出す。許チョはとにかく動くことが好きで、朝から晩まで駆け回っていた。両親の仕事についていって手伝うのが当たり前であり、その仕事の中で遊びを見つけていたものだった。やがて不幸な事故で両親を失ってしまったが、幸い祖父母は健在で共に暮らしており、兄もすでに結婚していた。それから農業の大学へ行った自分が些細な縁から曹操と知り合い、今の仕事に就くことになった。
「幼いお前を見てみたかったな。写真はないのか?」
「……ありますが、お見せするほどのものでは」
「ある。こんな大きいお前が小さかったころだぞ。一見以上の価値がある」
力説をされ、断れる許チョではなかった。
しまってあったアルバムのいくつかを取り出してきて曹操に見せると、曹操は実に楽しげに一枚一枚を眺め、その都度問いかけてきた。両親や祖父母や兄と共に写っていたり、一人で写っているものもある。母がその写真についての端的な言葉を小さく書いてあったので、すぐに記憶の引き出しを探し当てられる。中には、幼い自分の無邪気さゆえの恥ずかしさに見せたくないものもたくさんあったが、曹操がそれを許すはずもなく。
「子供だったのだから、何を恥ずかしがることがある。むしろ微笑ましい姿に和むではないか。隠すなどもったいない」
「そうおっしゃられましても、恥ずかしいものは恥ずかしいです」
確かに子供の写真は微笑ましい。だが、それが自分であるなら話は別だ。しかもそれを取り出して懐に入れようとするものだから慌てて止めた。
「何をなさっているのですか」
「いや、仕事の合間の楽しみに」
「そんなものを仕事の合間に眺めないでください」
「よし、それならわしの幼いころの写真と交換でどうだ」
ぐっ、と許チョは思わず動きを止めた。しかし、強い誘惑に引きずられそうになる意識を無理矢理引っ掴んで現実に引き戻す。
「そういう問題ではありません」
「いいではないか、一枚や二枚。わしはお前が大学生からしか知らんのだぞ。お前だってそうだろう。昔のわしは女装もできるほど見目がよくてなぁ」
「社長は今でも十分ご立派です」
物凄く気になる言葉を言われたが自制心を最大に効かせて許チョは写真を取り戻した。
「許チョは頑固だのう」
面白くなさそうに口を尖らせる曹操に気が咎めないわけではないが、幼い自分の写真を、曹操が四六時中持ち歩いて、時折眺めるなど、想像するだけで恥ずかしかった。取り戻した写真を改めてアルバムに戻そうとしたとき、ふと、一枚の写真に目が行った。
「どうした?」
「……ああ、いえ」
それは兄と一緒に写っている写真だった。確か父が撮ったものだ。ここから少し離れた上流の川で遊んだ時のもの。この川は確か。
「……社長」
「何だ?」
「私の好きなところに連れて行けとのことでしたが、仕事が終わってからでも宜しいでしょうか? だいたい、9時ごろになりますが」
「わしは構わんが、そんな遅くに行けるところがあるのか?」
「はい。おそらく大丈夫でしょう」
許チョの言葉に首をかしげながらも曹操は、分かった、と答えた。
それから夕方までのんびりと近所を散策し、仕事を始める前に曹操を一度ホテルまで送り届けた。仕事が終わった後、軽く食事を取り、曹操を迎えに行く。それから記憶を頼りに写真にあった川へと向かった。
「近くに街灯はないのに、案外見えるものだな」
川から離れたところで車を止め、少し歩く。もともと、道らしい道もないところだ。砂利道で多少歩きづらく、慣れていない曹操が転ばないように手を貸す。車のライトも消してきたため、あたりに人工的な明かりはないが、今日はよく晴れており、星明りだけでも十分なのだ。
「ほう、これは」
川辺に近づくと、ぽつぽつと、小さな光が明滅していた。それはふわふわと不規則に空を舞い、時には草葉に留まる。星明りしかない蒼い夜、遠くに虫の音も聞こえる中、それは幻想的だった。
「蛍か。都市の河川でも蛍狩りはあるが、あれは人が育てたのを放したものだな」
「この辺りは畑からも離れてますし、せいぜい子供が川遊びをするくらいなのですよ。幼いころ、兄とよく遊びました。時折、こうやって夜に蛍を見にきたりも。あれから大分経ちますが、まだ蛍はおりましたな」
懐かしい思い出だ。ある日、父が両手で何かを包むように隠して帰ってきた。暗がりで静かに両手を開いて見せてくれたのは蛍だった。
「なるほどな」
「社長?」
目を細めて風景を眺めていた曹操が笑う。気になって声をかければ、穏やかに見上げられた。
「確かに、良い場所だ。こんな光景は滅多に見られるものではないし、それに」
「はい」
「お前を育ててきた土地というものを感じるな。この川辺だけでなく、この辺りは初めて来たというのに懐かしさ、というか慕わしさを覚える。お前が育った場所だと思うからだろうなぁ。あの写真の中の幼いお前が、遊ぶ光景が目に浮かぶようだ」
「…………」
「来て良かったな。実に。お前がまた少し、分かった気がする」
向けられる笑みに、許チョもほのかに笑い、そっと肩を抱き寄せた。
休暇が終わり、曹操と共に社へ戻る。また再び、忙しい毎日の始まりだ。(案の定、戻ると曹操は夏侯惇に説教をされていた。)そんなある日。
「社長、手紙が届いております」
手紙は日に何十通と届くが(最近は電子メールもあるので最盛期よりは少なくなった)、曹操の元に届く前に下で処理できるものは処理してしまう。本当に重要なものが曹操のところへ直接来るが、典韋が持ってきたそれは見る限り、ごく普通の茶封筒だった。仰々しい社名が書いてあるわけでもなく、厚みがあるわけでもない。
「どれ。……ああ、届いたか」
差出人を見た曹操はにやりと笑う。それを見た許チョは何となく嫌な予感がした。
「…………社長、どなたからですか」
「いや、なに。知人からだ」
嘘だ。はっきりと直感する。いや、知人からが嘘、というよりは、その何でもない、という態度が嘘だと感じた。こちらには見えないように、隠すようにしながら中身を確認している。それを確かめたいが覗き込むのは失礼にあたるので耐えた。
「……典韋、あれは誰からだ」
「あれか? 確か許定、と書いてあったが……おう、お前の兄貴も許定と言わんかったか?」
やはり。
おそらくあの中身は例の写真だ。何かしらの理由をつけて兄に頼んだのだろうと推測する。わざわざそこまでして手に入れようとしなくてもいいだろうにと思うのだが、嫌だというわけではない。ただ恥ずかしいのだ。ともかく写真を取り返すべく、許チョは曹操の方へ一歩踏み込んだ。
了
好きなことを思うままに書いたのでまとまりなくて申し訳ありません。orz
蛍狩りの帰り、曹操を送り届けた許チョさんは半ば強引に曹操に引き留められて一晩過ごしました。
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