真赤―まそほ―

はちみつ


 「なんじゃ、手だけでなくこちらも少々荒れているではないか」
 そう言いながら曹操は許チョの唇を指先でなぞった。その行動に許チョは思わず身を硬くする。触れてくる曹操の指は、女ほどでないにしろ柔らかだ。昔より馬の手綱や剣を握らなくなったからだろう。
 「そのままではちょっとした拍子に切れてしまうぞ。よし、そちらにも良い物をつけてやろう」
 握っていた手を離し立ち上がった。許チョはその後ろ姿を眺めてから、己の唇に触れる。確かに少し荒れていた。何となく、舌で舐めて唇を湿らせる。
 「これだこれだ。これをつけると良いと医師たちが言っておったのでな」
 持ってきたのは小さな壷だった。蓋を開け、中身を小さな杓子ですくう。
 「それは……」
 「蜂の蜜だ。薬とともに服用すれば良い効果を得られる。医師たちが言うには、主に薬用に用いるが、よその国では化粧にも使うらしい」
 金色の粘質を持つそれを、曹操は指先で舐めた。
 「化粧、ですか」
 「うむ。色々混ぜて顔に塗ったり体に塗ったりな。もちろん口にもだ。……そんな顔をするな、別に女のように紅をさすわけではないのだぞ」
 化粧、と聞いて僅かに眉を寄せた許チョを見て、笑いを零す。化粧は女がするものであるという意識が強く、男がするにしても、よほどの時か、さもなくば位の高い者が有事にすることだ。ましてや許チョは己が化粧など似合わなぬ容姿だと思っているのでなおさら戸惑いが強い。
 「まあ、紅ではないが、行為は似たようなものだな。これを薄く塗っておくと、乾燥せずに済むそうだ。どれ、わしが塗ってやろう」
 「いえ、そのようなことはせずとも構いません。それに蜜は貴重な物ですし」
 「お前の口に塗るくらい、わずかな量だ。気にすることはない。それともわしの手当てが受けられぬか?」
 「そういうわけではございませんが、既に手にも薬を塗っていただきました。もう充分です」
 「許チョ」
 真っ直ぐに目を見て、曹操が名前を呼んだ。その視線と声には抗いがたい迫力がある。
 「これはお前の為でもあるが、わしの為でもあるのだぞ」
 ひたり、と指先を突き付けられ身を寄せてくる。許チョは少し上体を引いた。曹操自身のためとは何か。内心首をひねって考えてみても思いつかない。疑問符を浮かべていた許チョを見ながら、曹操がいつもの意地の悪い目つきをする。
 「思い切り口を吸うこともできんではないか」
 おそらく今、己は間の抜けた顔をしているだろうとどこかで思った。同時に発せられた言葉の意味を頭で理解して、感情が追い付いてくる。許チョの頬が、赤く染まった。
 「殿!」
 「何を慌てておる、いや、赤くなるお前は可愛いがな」
 「からかわないでくだされ」
 「からかってなどおらんぞ。事実だしな。多少荒れていてもしたい時はするが、やはりお互い気持ち良くやりたいだろう。それに、お前がそういう状態の時にわしがあんまり吸ったら、悪化させてしまうだろうしなあ」
 唇が荒れている時に舐めるのは、一時的には潤うものの、そのままでは逆に乾いてしまうので結果的には悪化させてしまう。冷たい風など吹かない室内にずっといるならいいが、許チョの仕事はそういったものではない。
 「だからこそ、これを塗って早く治せ。そうすれば、お前に痛い思いもさせず、わしも気兼ねせずに存分にできるというものだ」
 これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべて言うものだから、許チョはそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。眉を僅かに下げて、諦めたように力を抜く。曹操は嬉々として蜜を小指につけると、許チョの唇に薄く塗った。なぞられる感触がこそばゆい。
 「うむ、これでよし。乾いてきたらまた塗ってやるからちゃんと言うのだぞ────しまった!」
 言い終わった瞬間、何かに気が付いたのか、曹操は大声を上げた。何事かと許チョは身構える。
 「どうなされましたか、殿」
 「そのな、蜜を塗る前にお前の口を吸っておけばよかったと思ってな」
 「……………………」
 「塗ってしまっては乾くまで口づけはできんし、いや、そもそも治るまではできんか……しかしちゃんと塗っておけば少しくらいは……」
 酷く残念そうに呟く様子に、瞬時に体に緊張を走らせていた許チョはがっくりと肩を落とした。そして僅かながら照れが生じる。
 「……殿」
 許チョと別の意味で肩を落とす曹操に、静かに声をかけた。
 「……もし宜しければ、もう一度塗ってくださりませぬか」
 「何? ……ああ、なるほど」
 その言葉の意図を察したらしい曹操は、持っていた壷を卓の上に置くと、傍に腰掛けていた許チョの膝に乗る。大柄で逞しい許チョは曹操が乗ったところでびくともしない。腕を伸ばして膝の上に乗る曹操の腰に緩く回した。
 「よし、お前の望み通り、あとでもう一度塗ってやろう。だがその前に、わしの望みを聞いてくれるか?」
 「私にできることであれば」
 「お前にしかできぬことよ」
 そう言って笑うと、曹操は顔を寄せて許チョに口付ける。
 「やはり甘いな」
 重ね合わせてついた己の唇の蜜を舐めると、もう一口、と呟いて、今度は舌先を押し込んだ。許チョも、いつにも増して甘露な味わいに口付けを深くした。










5月23日はキスの日でしたね。一日遅れましたが。 3594時代の蜂蜜は薬の一種として重宝されていたとか。万能薬みたいなもんだったそうな。


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