真赤―まそほ―

望郷


 諸葛亮が、亡くなった。
 五丈原での戦の最中だった。軍は迅速に撤退を始め、戦場を後にした。
 しかし魏延だけはそれに従わず、全軍を挙げてこのまま北伐を推し進めようとしたのだ。まだ戦えると、まだ終わりではないと。諸葛亮が死んだのならば、その弔いのためにも進むべきだと叫んだ。例え撤退が諸葛亮の命だとしても。



 この人は、何の裏表もない。ただひたすらに、自分が出来る事をしようとしているだけだ。



 蜀に降り、最初は敬遠しがちだったが、いざ付き合ってみればそれがよく分かる。あまりに真っ直ぐで、あまりに不器用なため、それを理解する者は少ない。付き合う前に線を引いてしまうのだ。そして先入観で毛嫌いをしてしまう。それを本人は言い返すことはあれど、取り繕うことはしない。
 何より、丞相たる諸葛亮が、この人を嫌っており、それは周囲も気がついていることだった。影響力のある人物の行動は恐ろしい。周りは考えもせずそれに賛同する。
 何故、分ってもらえないのだろうかと、それが寂しい、と零したこともあった。話し合わなければ分ってもらえないだろう。そう言っても話す事が苦手なこの人は、端的に答えるだけで、後は黙ってしまう。それじゃあ誤解されちゃうよ、と苦笑した。
 この人が周りに受け入れられないのは、周りのこともあるが、本人にも非がないわけではない。だが、寂しい、と呟くこの人は本当に寂しそうだった。まるで幼い子が嘆くように。
 自分はよそ者だったせいか、先入観がなかった。何より、方向性は違えど、この人のようにとても真っ直ぐで不器用な人が身近にいた。気高く、雄々しく、揺ぎ無く、ゆえに引く事を知らない。自分はその人と周りの緩和役として幼い頃から育ってきた。常に前を見る従兄は自分にとって誇りであり、憧れであり、困った人でもあった。だが、その後をついて行くのがたまらなく好きで、この人のために生きようとも思っていた。
 けれど、その従兄はもういない。

 周りからどんなに否定されようと、けして己を曲げず、ただ戦い続ける人。
 哀しいほどに、真っ直ぐだ。

 しかし丞相の命は絶対だ。それに従わないこの人はそれを責められてもしょうがなかった。
 自分はただ、この人についていく。丞相の命があるから。同時に、その命を、実行したくないから。
 北伐を叫ぶこの人に周囲は冷たい反応を返し、果てには反旗を振りかざしたと言われる。次第に追い詰められ、兵たちは逃げていく。孤立だ。馬に乗るその背は、いつの日か見た、寂しい、と呟いた背と同じだった。


 「……魏延殿」
 声をかけた。反応はない。
 「……これから、どうするの? このまま逃げててもどうしようもないし、いっそ、楊儀殿を倒しちゃう? それとも魏に降っちゃう?」
 本心を隠しながら、おどけるようにきわどい事を言う。
 「……魏ニハ、降ラナイ」
 「……そうだよねぇ」
 言ってみて自分に呆れる。その選択肢はこの人の中には絶対にないだろう。先王である劉備に何より忠誠を誓っていたのだ。例え死しても、それだけは変わらない。
 「楊儀ハ、嫌イダ」
 「だよねぇ。じゃあ、そっちにする?」
 「……イイヤ」
 そちらも、否定された。おや、と思った。確かに仲間である者ならば、どんなに相手から嫌われていようとも、感情のまま、殴りあうことはあっても手にかけることはない。ましてや相手は武官ではなく文官だ。非力な相手に力をふるうことはしないだろう。だが同時に、敵と見なせば容赦がないことも聞いている。かつての主を斬った前例もあるのだから。楊儀とこの人の確執は、憎しみに近いだろうと思っていた。しかし、それはしないと言った。
 「……馬岱」
 「何?」
 「……我ヲ、斬レ」
 「………………は?」
 耳を疑った。張り付いた笑顔のまま、聞き返した。今、なんて言った。
 「我ヲ、斬レ。馬岱」
 「……冗談。何で俺が魏延殿を斬らなきゃなんないの」
 馬が止まり、静かに振り向く。いつもつけている仮面から覗く目に変わりはない。
 「我、蜀ノタメニ戦ッテキタ。ダガ、コノママデハ、我ハ、蜀ノ災イト、ナル」
 「そんな事ないでしょ、そりゃ、確かに魏延殿は周りから誤解されまくってるけど、蜀にとっちゃなきゃいけない人でしょうが!五虎将軍の皆がいなくなって、丞相もいなくなって、誰が軍を引っ張ってくの!姜維殿だけじゃ大変でしょ?皆でやらなきゃ……!」
 思い留まらせようと言葉がついて出る。この人を斬ることは丞相の命でもある。だがそれは、この人が蜀に逆らったときだ。今はまだ、歯向かったわけじゃ、ない。
 ……否、丞相は蜀でもある。その丞相の命に背いた時点で、その命は実行されなければならない。この人が蜀を想っての行動だったとしても。
 「我ガイナクトモ、姜維ナラ、ヤレル。オ前モ、イル。ダカラ」
 「……嫌だよ。そんなの、どうして俺がやんなきゃならないの」
 「馬岱」
 「どうして、仲間の魏延殿を、斬らなきゃなんないの!そんなのは、俺、嫌だよ!」
 かつて丞相から密かに命じられたときはいい思いはしなかったものの、受け入れた。だが、今はただ嫌だ嫌だとごねている。まるで子供のようだ。あれやこれやという理由はいらない。嫌なものは嫌なのだ。真っ直ぐで、不器用で、それでも戦い続けるこの人が、自分は好きなのだ。それなのに、何故、斬らなければならない。
 命令を受けても、そうならないようにと願ってきたのに。それを、この人自ら崩してしまう。
 「馬岱、斬レ。コレハ、我ノ、願イ。オ前ガ、斬レ」
 「だから、嫌だって……!」
 次の瞬間、ぞっと背中が粟立った。戦場の最中にいるような気配に包まれる。反射的に武器に手をかけた。目の前の人が、こちらに馬を向け、同じように武器に手をかけている。殺気を放ちながら。
 「我ヲ、殺セ!!」
 「……嫌だ、絶対に嫌だ!!」
 「馬岱!!」
 「嫌だ!!」
 叫ぶ。同時に目の前の馬が駆け出した。叫び声が上がる。いや、獣の雄叫びだ。低く遠く腹の底から響き渡るあの人の咆哮。びりびりと肌に叩きつけられる怒声。双刀が躊躇なく繰り出され、一瞬反応が遅れたために武器を弾き飛ばされた。殺気が膨れ上がる。

 殺される。

 体が動いた。己を守るために。
 腰に佩いていた剣の柄に手をかけ引き抜く。
 そうだ、己を守るために、だ。
 「──────」
 だから、今、その切っ先がどこにあるか、分からなかった。
 分かりたく、なかった。
 「………………ぎ」
 手袋越しに伝わる、何か。
 かすかに臭う、何か。
 ずるり、と手から力が抜け落ちて、その横を、馬が数歩歩いて止まる。
 馬上から、あの人が転げ落ちた。
 「────魏延殿!!」
 馬から飛び降りて地に倒れ伏す相手の体を抱き上げた。その腹には、深々と、己が抜いた剣が突き刺さっている。その様にどうすればいいのか分からなくなり、ただ、情けないうめきだけが喉から零れる。太い腕が持ち上がり、その剣を、抜いた。その反動で血を吐き出す。
 「魏延殿!!」
 「……叫ブナ、馬岱」
 「だって、こんな、ちょっと待ってよ、何で、どうして」
 動転している。声が、言葉が、うまく形にならない。刺さっていた場所から血が流れ出している。急いで自分の肩掛けの布を外してそこを押さえた。じわり、じわりと赤く染まっていく。
 「コレデ、イイ」
 「何言ってんの、全然良くないでしょ、何してんのさ魏延殿は!!」
 「……イイ。スマヌ、馬岱」
 「謝んないでよ、謝るくらいなら最初からしないでよ、ああ、くそ、くそ……」
 血が、止まらない。
 「……スマヌ。ダガ、オ前ニ、シカ、頼メナカッタ。スマヌ。……我、謝ルシカ、デキヌ」
 「魏延殿……」
 再び、血を吐き出す。塊のような血が零れ、口も顎も首も赤く濡らしていった。
 「……馬岱、後ヲ、……頼ム」
 「……頼まないでよ、魏延殿も一緒に帰ろうよ、蜀に戻ろうよ……」
 「……無理ヲ、言ウナ」
 血に濡れた手が頬を撫ぜた。
 「……嗚呼、ソウダ」
 「……なに。今度は、何さ」
 そう言うと、珍しく喉の奥で笑っているようだった。滅多に笑うこともなく、あるとすれば、わずかに微笑むくらいだ。それもほとんど仮面に隠れていて、うかがい知る事ができない。
 「約束、守レズ、……スマヌ」
 「………………!」
 ぎり、と喉が締められた気がした。奥がひりついて、うまく息が吸えない。肩を抱く腕に力がこもった。
 約束。
 以前、何気なく交わした、約束。
 戦が終わったら、共に西涼へ行ってみようという、他愛のないもの。
 「……スマヌ、馬岱」
 仮面の奥の目が、ゆっくりと閉じられる。まぶたが落ち、それ以上の言葉は紡がれることはなかった。腕が、重い。死の、重さだった。
 「………………酷いよ、魏延殿」
 体を抱きしめる。その頭を押し付けるように寄せた。
 「酷いよ、魏延殿。俺にこんなこと、させて、おまけに、約束まで、破って」
 目の奥が痛い。従兄の死から泣かぬと決めていた涙が溢れ、零れ落ちる。ぱたぱたと物言わぬ顔に流れ、伝い落ちる。
 「俺、こんなこと、したくなかったのに、だから、一生懸命止めてたのに、勝手に、しちゃって、さっさと死んじゃうなんて、酷いじゃない、ねぇ」
 いくら恨み言を言っても答えは返ってこない。
 その背を、追っていたはずなのに。
 追いついて、振り返らせて、他愛のない話をして、困惑するこの人に親しみを感じて、吼え猛るこの人に畏怖を覚えて。
 「本当、酷いよ。……魏延殿」
 言葉は、もう、届かない。












本当はもっと長くなる予定でした。出会いとか孔明さんにいろいろ託されたりとか日常のやり取りとか。
この後の話もちらりと考えてますがそれはまた別に。蛇足な気がするので分けて書くと思います。
無双の魏延さんは最後は自分で去る事を選びそうです。

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