朝のひと時
とある日の朝。
朝食を取り、弁当を持って出勤する。玄関先まで李典は見送りに来て、『行ってらっしゃいませ』と言う。そんな、絵に描いたように平穏な朝の風景だが、その日の朝の曹仁は少し違った。
いつものように李典に見送られドアを開けようとしたとき、ふとある事を思い出したのだ。ドアノブを握る手が止まり、それから李典の方へ向き直った。李典は不思議そうに首をかしげている。
「どうしたのですか。何か忘れ物でも?」
「ん、いや、忘れ物というか何と言うか」
曹仁は口ごもる。思い出したことを李典に言うとおそらく、いや、間違いなく呆れた視線で見てくるであろうと考えたからだ。しかし、一度湧き上がった欲求に蓋をするのはなかなか難しく、どうせいつも何か言えば呆れられるのだ、とある意味、あっさりと吹っ切った。
「……なぁ、李典」
「はい」
「出掛けの挨拶は他にないのか」
「え?」
表現を濁して言うと、李典はきょとんとまた首をかしげた。
「今、行ってらっしゃいと言ったじゃないですか」
「いや、だから、それ以外に」
「それ以外?」
「……………………キスとか」
曹仁は言った瞬間に、ああ、やはり、と思った。目の前の李典が思い切り半眼で眉間に皺を入れて、思い切り『何を言っているんだこの人』と書いてある表情をさらしていたからだ。
つまり曹仁は、『行ってらっしゃいのキス』をしてほしいと思っていた。
「曹仁殿、いくら暖かくなってきたからといっても、頭の中まで温かくなってはいけませんよ」
「なっとらん! まぁ、確かに行為自体を聞いたら、俺だって呆れるとは思うが!」
「でしたら、生温かい言葉なんて吐いていないで会社に行ってください」
「話を聞け!」
自分の発言が、ただの腑抜けたものではない、と弁解するために曹仁は叫ぶ。
「俺は別に軟弱な甘えで言っているんじゃなくてだな、と言うか、そこまで呆れ果てることでもないと思うぞ。そりゃあ、いい歳して、とは思うが」
「そうかもしれませんが、わざわざすることでもないでしょう」
「だから、そこだ。わざわざすることでもない。だがな、それをするとその日一日の能率が上がると言う話があるんだ」
「……は?」
李典は曹仁の返答が意外だったようで、少しだけ目を見開いた。
「徐晃から聞いたんだが、何でも、朝にそれをやるのとやらないとでは、仕事の能率が大分違う、と言うデータがあるそうでな。おまけに通勤途中の事故にあう確率も、ストレスを感じる度合いも違うんだと」
「………………」
「コミュニケーションも取れるし、しないよりする方がいいなら、試しにやってみるか、と、思ってだな」
「……それであの発言ですか」
「………おう」
言い終わると、改めて照れくさくなる。李典は相変わらず呆れたような表情を浮かべていたが、少しだけ照れが入っているようでもあった。まるで拗ねているように、眉間に皺を寄せつつそっぽを向いている。
「そんな、どこの調査結果か分からないような話をする徐晃殿も徐晃殿ですが、それをしようと思う曹仁殿も曹仁殿です」
その言い方に多少なりとも不満を感じ、曹仁も眉を寄せた。
「何だその言い方は。眉唾な話でも、別にやって悪いことはないだろうが」
「そうですけれど。そういう話に踊らされるのはどうかと思います」
「踊らされているわけではない、ちょっとした好奇心だというのに、何でそんな大事のように言う。…………いやなのか」
「え?」
李典の言うことはもっともなのだが、気軽な気持ちで言ったことを真っ向から冷たく否定されると良い気分ではない。気軽な言葉が、時として相手を傷つける、と言うことがあるのを自覚してはいるが、このときは不満の方が勝ってしまった。
「俺とするのがいやなのか?」
「……そういうわけではありません。曹仁殿こそ、大げさです」
「あれだけ言われたら、誰でもいやなのかと思うぞ!」
「言いますよ! 行ってらっしゃいのキスなんて、そんな、新婚夫婦……っ、でも、ない、のに……」
曹仁が目を丸くする。李典の言葉の切れが悪くなり、だんだんと語尾が小さくなっていった。
「………………」
「………………」
言葉として表現されると、何とも恥ずかしい。お互い、そっぽを向いて沈黙が下りる。
「…………いやじゃありません」
「………………」
ぽつりと李典が言った。
「いやじゃありません。でも、そんな風に言われると、恥ずかしいと言うか、何と言うか」
「俺だって恥ずかしいわ」
「でも、曹仁殿は自覚がないかもしれませんが、結構行動が直球ですよ。空気を読まずしたいことをなさろうとしたり、言葉に出したりする」
言われて一瞬、そうだろうか、と思うが、そういえば自分は確かに行動に移すのが早い。空気を読まない、と言うが、それ以前に空気が読めない、らしい。こういう方面の、小難しい言葉のやり取りは苦手だった。
「……悪かったな」
「まったくです。……曹仁殿」
「ん?」
李典が一歩前に出て、曹仁の袖を軽く引っ張る。玄関先の段差のため、目線はほぼ一緒だ。そっと、軽く押し当てられる柔らかさを頬に感じた。
「……これで、いいですか」
「………………」
照れくさくてたまらないのを、一生懸命押しとどめているからか、表情は不満げだ。しかし李典の頬は見事に赤い。その表情を見て曹仁は、口元が自然と緩みだすのを自覚する。いかん、と思って口元を手で覆いながら引き結んだ。
「……ん。それじゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
ばたんとドアを閉め、何事もなかったように歩き出す。しかし、次第に口角が上がってしまう。気持ちもどことなく浮かれたようになり、これはまずい、と気を引き締めるも、先ほどの行為を思い出すとやはり崩れてしまった。たかだか頬にキス一つ。しかし、何故だか妙に嬉しい。自分で言い出したこととはいえ、これは思った以上の効果だった。
「あまり浮ついてもいかんな」
車に乗り込み、自分に言い聞かすように呟いてシートベルトを締める。しかし、気分はずっと上向きだった。仕事の能率が云々の前にその行為自体が嬉しくて、曹仁は明日も頼もうとひそかに思った。
了
意外と甘くならなかった。と思う。
『行ってらっしゃいのキス』をすると能率が上がる、というのは先日見たネット記事からです。因みに、朝にいたすのも(何を)体にいいという説もあるらしい。するのはともかく時間大丈夫か。体力大丈夫か。
でもってその日、仁さんはずーっと上機嫌で好調で、従兄弟や部下に訝しがられます。
そしてこれがいつの間にやら朝の恒例となり、しないとむしろ調子が悪くなる仁典がいたりする。
……本当は頬にちゅーしたとき、もう一回、とねだって今度は口にしてそのままなだれ込みそうになるネタもあったんですが自粛した。もちろん仁さんは半分剥かれた典さんにどつかれます。
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