早春の雨
もうすぐ死ぬな、と思う。
死ねばそれで終わりだが、曹操は魏王なのでその前に色々とやることがあった。起きているときは様々なものを書き残した。けれど最近は、生きているのか死んでいるのか、少し分からなくなることがある。ふと気がつくと戦場を駆けている。そしてまたふと気がつけば、書簡の山の中で寝転がっていたりするのだ。
一人ではもう、ろくに歩けない。戦場に、まるで女を想うように恋焦がれるか。曹操は笑う。
いつ死ぬか分からない、というのも難儀なものだと思いながら、取りあえずその前にやりたいことがあると考えていた。
「殿ぉ〜」
間延びした、もう何十年も前から聞きなれた声が曹操を呼ぶ。
「用意が出来ただよ」
戦場に身に付けていくような鎧ではなく軽量の防具を身に付けて、腰には昼飯用の食べ物を詰め込んだ袋を提げて、馬の手綱を片手に許チョがやってきた。
「おう、すまんな」
外に面した部屋の出入り口で腰掛けていた曹操が両手を伸ばす。許チョはよいしょ、と曹操の体を持ち上げて馬に乗せた。
「それじゃあ、行くとするか、許チョ」
許チョが曹操の後ろに乗って、馬を走り出させる。
今日は快晴。まだ肌寒いが梅の花もぽつりぽつりと咲き出した。春が近い。
「どこまで行くだ? あんまり遠くには行けねぇだぞぉ、ちゃんと夜までには帰らないと、惇将軍の雷が落ちるだ」
「ははは、そうだなぁ、いっそ、怒られるのを覚悟で、このまま蜀まで行ってしまおうか」
「怒られるどころの騒ぎじゃないぞぅ、それは」
曹操は許チョに支えられるように馬に乗っていた。久しぶりの遠駆けだ。懐に体を預けて、ゆっくりと歩く馬の動きを感じていた。どうせなら自分で手綱を持って、思うままに叩きつけ、風を切るほどに走りたい。しかし、そんなことをしようものなら、許チョが血相を変えて止めるだろう。
「少し河の音が大きいな。雪解け水で嵩が増えているか」
「んだ、向こうで弱いところに土嚢を積んでいるだよ」
「今日は天気がいいからもっと融けて流れてくるな。今年は豊作になるといいが」
「どうかなぁ、でも、天気は去年と同じ感じだろうから、大丈夫だと思うだよ」
「許チョの見立てではそうなるか」
「うん」
とりとめもない話をしながら、歩き続ける。平原だった景色に次第に木々が混ざり始める。
「そうなれば兵糧も大丈夫かな。あと少しは戦は起きんだろうが、起きたらあっという間に食いつぶしてしまう。……劉備の奴は今は呉か。孫権はどうするかな」
「………………」
「どうせなら、俺も前線に出たいところだが、うん、残念だ」
まるで遊びに行けなかった子どものように言う。楽しそうに戦の事を語る曹操に、許チョは黙っていた。
「なぁ、許チョ」
「なんだぁ?」
不意に名前を呼ばれて、許チョは目を瞬く。
「お前、俺が死んだらどうするんだ?」
「──────」
気安げに、曹操は明日の天気でも聞くように許チョに尋ねた。ざくざくと馬が土を踏みしめ歩く音がやけに耳に届く。
「お前の一番は俺の命だ。じゃあ、俺が死んだら、お前の一番が無くなってしまうだろう? そしたらどうするんだ?」
何年か前に、船の上で許チョに言われた言葉を思い出す。全身全霊で曹操を守りながら、はっきりと叫んだその後ろ姿を覚えている。一番を決め切れていなかった曹操に、許チョはそれじゃ駄目だと言った。許チョが強いのは、一番がはっきりしているからか、と思った。そしてそれが自分と言うことに、曹操は酷く嬉しかった。
だから、その自分がいなくなったらどうするのだろうと、純粋に思った。
「………………」
許チョは口を引き結んで眉間に皺を寄せる。何かを堪えるかのように黙り込んでしまった。
「新しい一番を見つけるか。それもいいな。お前の一番は何よりも嬉しい。今度、お前の一番になるのはどんな奴かな」
曹操は許チョの前に座っているので、許チョの様子に目は届かない。前を向いて、まだ緑をつけてはいない木々の群れを眺めていた。
ぽつん、と曹操の頭に何かが落ちた。雫だ。曹操は口元に笑みを湛え、許チョに背中を預けたまま、顔を上げる。
「許チョ」
手を伸ばして、下から、許チョの濡れた頬に触れた。
「泣くな」
少しだけ困ったように、眉を寄せて苦笑しながら許チョを見上げる。許チョは大きな目からぼろぼろと涙を零していた。それは頬を流れて、曹操の手に伝わる。温かな涙だ。
「泣いてねぇ、泣いてねぇだぁああ」
「じゃあ、そのでっかい両目から流れているのは何だ」
「泣いてねぇもん、涙なんかじゃねぇ、こ、これは雨だぁ、雨なんだぁ」
しゃくりあげながら、もう留まるところを知らずに許チョは流し続ける。
「そうか、雨か。お前と俺のところにだけ降るなんて、粋な雨だ。早春の雨にしては、温かい」
「う、うう、うううう」
「許チョ、どこかで雨宿りしようか。いや、この雨に濡れているのもいいな。ん、腰掛けるのに丁度いい石がある、あそこで一息つくか、なぁ」
曹操は更に手を伸ばして、許チョの頭を撫ぜた。
許チョに馬から降ろしてもらい、少し平らになった石に腰掛ける。許チョはまだしゃくりながらも馬を近くに繋いでいた。
「許チョ、許チョ」
こいこい、と手招きをする。許チョは袖で濡れた顔を拭い、鼻を啜り上げながら曹操の前に行き、座り込んだ。
「なぁ、泣くな。許チョ」
少し前屈みになってうつむいたまま曹操と顔をあわせない許チョを覗き込むように言う。すると、ようやく止まっていた許チョの涙が、またもや、ぶわ、と込み上げて流れ出してしまった。
「……無理だぁあああ」
許チョは自分でも止めようとはしているようだが止まらず、大きな体を震わせて答えた。
「殿が、そんなこと、言うからだ、死ぬ、とか、別の一番、とか、うう、うぅうう」
「すまん。だが、俺は死ぬ。いつ死ぬか分からんが、例えこの病にかかっておらんでも、お前よりは先に死ぬだろうしな。だから、そのときはお前はどうするのかな、と思ってな」
「……そんなこと、そんなことわからねぇだよ、考えたことねぇもの、おらは、殿を守るから、殿が死んじまうんだったら、それはおらより後のはずだもの、おらが守るんだから、死なせねぇんだ」
「うん。お前が側にいたから、俺はいつでも安心できた」
「おらの一番は殿だ、殿のお命だ。殿が死んだってきっとそうだぁ」
「それは駄目だ、許チョ」
曹操が、大きくはないがはっきりとした声で告げた。しゃくりあげていた許チョが、ひくり、と体をこわばらせて顔を上げる。
「……許チョ。お前が俺を守ってくれるのは嬉しい。お前の一番でいれるのは嬉しい。だがな、お前はお前だ。俺が大事だからって、ついてくることはないんだ」
「………………」
「最期まで、俺についてこなくていいんだ」
曹操は笑みを浮かべている。目を細め、目の前に座る許チョを見つめていた。
「……と言うよりな。俺はお前に俺の後なんか追ってほしいとは思わん。お前だけじゃない、誰にもだ。病や戦で死ぬのなら分かる。けれど、その時に死ぬべきでない命を自ら絶つことだけは、駄目だ。俺はお前に、お前の道を、そのまま歩いてほしいんだ」
「殿……」
「許チョ。なぁ、覚えているか?」
「何を、だ?」
首をかしげる許チョに、曹操は笑って空を見上げた。薄い水色の空が広がっている。
「俺の一番」
にこ、と視線を許チョに戻して、曹操は満面の笑みを浮かべて言った。許チョは言葉にぽかんとしていたが、その言わんとする意味を思い出して、真っ赤になった。
「かっ、からかっているんだろ、やっぱり!」
「いいや、と言っただろう、あの時も」
許チョが自分の一番は曹孟徳の命だと叫んだあの日。大事なものがたくさんありすぎて決めれない、と言った曹操に、許チョは一番を決めないと駄目だ、と言った。許チョの操る船に揺られ、曹操は蒼く澄み渡る空を見上げながら答えた。『じゃあ、許チョとこうしている時間だな』と。
「だから今日は許チョと一緒にいたかったんだ」
「………………」
むすりと頬を赤くしながらも許チョはふくれていた。その様子は、出会った頃から、いつまで経っても変わらない。
「許チョは昔のままだな。例えどんなに強くなっても、心根は変わらない」
「何がだよぅ」
手を伸ばし、許チョの頭を撫ぜる。
「可愛い鼻たれ姑娘(クーニャン)だ」
雨はいつの間にか上がっていた。
了
蒼天は……書くのが難しい!
蒼天曹操はかっ飛び過ぎていて、台詞を書くたびに殿はこんなこと言わんかな……とか思いながら書いてました。ただ、蒼天の曹操も許チョに殉死はしてほしくないだろうなと思いました。蒼天の曹操と許チョは些細なところが可愛くて堂々とその繋がりを感じるのがたまらない。
曹操を自分の一番だと言っていた許チョは、その後生き続けて曹家三代に仕え続けるわけですが、蒼天の許チョは何を思って仕えていたのかなと。蒼天の曹丕は他の曹丕よりかなり立派に描かれておりますが……。そして司馬懿はやっぱり苦労人。あの曹丕の下だとなおさら苦労しそう
血を吐くほど悲しんだ主の死の後も生き続ける許チョは、やっぱり、その主から殉死を禁じられていそうです。
戻る