真赤―まそほ―

朱の眼



 城内が慌しい。それもそのはず、これから戦が始まるのだ。兵士たちは皆、具足をつけ、武器を持ち、騎馬隊は馬を揃え、歩兵は素早く陣を組む。忙しない空気だが、雑然とはしておらず、むしろ研ぎ澄まされるようでもあった。
 呂布軍の軍師である陳宮も具足に身を固め、兜を小脇に抱えていた。今は素早い足取りで主のもとへと急いでいるところだった。
 「呂布殿!」
 主たる呂布の部屋に辿り着き、入り口の前に立ち名を呼ぶ。覗いてみれば、呂布も既に具足を着け終わっていた。今は従者である胡朗に戦化粧を施してもらっている最中である。
 「おう、陳宮か」
 片目をあけ、入り口に立つ陳宮に声をかける。胡郎が、目を開けないでください、と苦情をもらした。動物の毛を梳いて集めた柔らかな筆で、紅を眦に差している。
 「これは、化粧中失礼致しました。しかし胡郎の言うとおり、目を開けてはなりませぬぞ、呂布殿」
 「分かっている」
 陳宮が来たから、つい目を開けてしまったのだが、先に謝られてしまっているのでそれについては何も言えない。
 「それで、どうした」
 「はい、出陣の用意がもうすぐ整いますのでお呼びに参りました」
 「今回の戦は俺が先陣で行くぞ」
 「……それはもう、承知しております。ですが軍師の立場からすれば、先陣は高順殿か張遼殿にお任せ願いたいところでした」
 呂布は、今回の戦の策を、自分が先陣に立つところから決めた。総大将は中間、もしくは後方で戦場を見渡し、指示を出すものだが、呂布はそれを由とはしない。自らが先頭に立ち、そこからもたらされる破壊力をもって、敵を食らい尽くすのだ。
 陳宮とすれば、総大将自らが出ることのない、もっと効率の良い、兵の損害の少ない戦法を取りたいところだが、戦に関しては、呂布が誰かに言われることを最も嫌うのだ。呂布は、自分の戦をしたい。そう言い切っていた。だが、それでも幾つかは策を伝えなければならない。例え採用されることがないにしろ、それは軍師としての務めだ。また、幾つかの策を提示することにより、呂布の戦い方にも柔軟性が生まれる。
 ──────とは言え、呂布が先陣を決め込む戦は、今のところ一番被害が少ないのは事実だ。何しろ、呂布の旗本五百騎が動くと、あっという間に敵の主力を叩き潰すのである。それはいっそ鮮やかで、見事という他ない。
 「お前もいい加減、心配性だな。見ていろ、今度もすぐに敵将の首を落としてきてやる」
 「胡郎、今度呂布殿が目を開けたら、構わんから目の中も赤く塗ってやりなさい」
 「おい、陳宮!」
 呂布が呆れたように言えば、陳宮は真顔で胡郎に言う。
 「誰のせいで心配性になっているとお思いですか。確かに私は戦に関しては貴方の邪魔をするつもりはございませぬ。ですが、少しは自重なさっていただきたいときもございます」
 呂布が戦うことを、戦えることを、陳宮は支えている。輜重が足りない、武器が足りない、兵が足りない、そんなことがないよう、陳宮はあれやこれやと手を回して才を発揮していた。それに加え、領内の内政もこなすのだ。目が回る、とはまさにこのことであろう。しかしそれを態度や口に出すことはない。労わられることも慰められることも余計なお世話である。自分がしたくてやっているのだから。陳宮は充実していた。
 戦以外はまったく無頓着に近い主の足りない部分を、己が補佐し、創り上げていく。その忙しさは陳宮にとって、楽しくて堪らないと言ってもいいほどだ。呂布の軍師になった当初は、あまりの自分本位な行動に腹を立て、呆れていたものだが。
 「お前は堅苦しすぎるんだ。だいたい、俺が自重なんぞすれば、周りが不気味がるだけだろう」
 「確かにもっとも、至極当然でございますな」
 「……お前な」
 歯に衣着せぬ軍師に、呂布はこめかみをひくつかせる。
 「殿、終わりました」
 胡郎が筆を置き、呂布から離れる。呂布は目を開けて陳宮を一瞥すると、ふと、思い立った。
 「陳宮、こっちへ来い」
 「……何でございましょう」
 何となく嫌な予感がしたが、陳宮は呂布に歩み寄る。少し距離を置いて。
 「戦化粧は敵味方の区別をつける他に、己の士気を高め、気分を高揚させ、力を引き出させるという意味もある。知っているだろう」
 「はい」
 不意に、呂布の腕が伸びて、陳宮の手首をつかんだ。その拍子に陳宮が抱えていた兜が落ちる。
 「呂布殿?!」
 「胡郎、陳宮を動けないよう捕まえていろ」
 「えっ?」
 にやりと悪巧みをするような笑みを浮かべ、呂布は傍の胡郎に言う。突然のことに呆気に取られるが、頭で理解すると、困惑したように胡郎は呂布と陳宮を交互に見た。悩んだのはほんの束の間。胡郎は、呂布の従者なのである。
 「こ、胡郎!!」
 「申し訳ございません、軍師様!」
 まだ少年と言っていい歳だが、胡郎は同じ歳の子供よりも力は強かった。陳宮の後ろに回ると、すかさず両脇に腕を入れて、動けないように締める。その様子に満足して、呂布は陳宮から手を離すと、台に置いてあった筆を取った。
 「何をする気ですか、呂布殿!」
 体をねじって胡郎の拘束から逃れようとするが、その前に呂布が陳宮の顎をつかむ。
 「暴れるな。何、大したことではない。お前にも戦化粧をしてやろうと言うだけだ」
 「は?」
 筆に紅をつけ、大きな手で固定した顎を、書きやすいように持ち上げる。
 「さっき言っただろう、戦化粧は士気を高め、気分を高揚させる、と。お前もたまにはそういう気分になってみろ。いつもいつも堅苦しいばかりではつまらんだろう」
 「つまらなくありません結構です!」
 「騒ぐな。目を瞑れ。目玉を赤く塗ってやるぞ」
 掴まれながらも顔を振ってもがくので、筆先は目元ではなく頬にまず紅を引いてしまった。呂布はそれに、先ほど陳宮に言われたことを言い返した。顔を振るのをやめたが陳宮は、意地でも目を瞑ろうとせず、呂布を睨み付けた。それに呂布は、目を細めたかと思うと、今度こそお構いなし、という風に筆を陳宮の目元へと落とした。反射的に陳宮は異物を拒むように目を瞑ってしまった。筆が瞼を走り、眦を滑る。
 「顔をしかめるな。力を抜け」
 「お断りします」
 「ふん」
 皺の寄ってしまう目元や眦を、呂布は顎を捉えていた手を離して引っ張った。意地でも塗るつもりらしい。まさに呂布と陳宮の意地の張り合いの形になった。胡郎ははらはらしながらも、腕を緩めない。
 「強情な奴だな」
 「それは呂布殿もです!」
 歯を噛み締めて頑なに顔をしかめる陳宮に内心辟易しながらも、呂布は何とか両目を塗り終えた。それはあまりきれいとは言いがたいが、一応の形になっていて見れる出来栄えではあった。筆が離れる感触に、陳宮はため息をつく。
 「よし、目を開けていいぞ」
 そっと目を開ければ、目の前には満足そうな呂布。その姿に苦々しい想いが去来した。
 「軍師様」
 腕の拘束を外し、胡郎は銅鏡を陳宮に渡す。そこに映るのは、普段よりもどこか凛とした表情の男だった。たかが化粧。されど化粧。化ける、とはよく言ったものである。陳宮は化粧を施した己の顔に面映い想いをしたが、そう悪い気もしなかった。
 「どうだ、俺とおそろいだな」
 即座にその気分も吹っ飛んだ。
 「落とします」
 化粧道具の傍に置いてあった布を引っつかむと紅を落とそうとする。
 「せっかく俺がやったのに何をするか!」
 「別に軍師が戦化粧をせずとも良いでしょう!」
 布を掴む腕を掴みあげて行動を阻止する呂布。陳宮がその力に敵うはずもなく、だが、引き下がらず再び睨み合いが始まった。
 「あ、あの、殿、軍師様、そろそろ行かれませんと」
 もっともな胡郎の意見にちらりと二人は逡巡すると、そろって力を抜いて手を離した。
 「しょうがありません、時間もありませんし今回はこのままで参ります。どうせ兜をつければそう目立ちませんし」
 「どうせ後方におるんだ、兜つけずに行け」
 「後方でも己が身を守ることの一つですからお断りいたします」
 また二人が睨み合う。と、呂布はあることに気がついた。先ほど、紅を施すときに、陳宮が暴れるので、誤って頬に引いてしまったのだ。その紅は拭われずにまだ頬を彩ったままである。
 「おい、陳宮」
 「何でございましょう」
 言うや否や、呂布は陳宮の顎を持ち上げて、その頬をべろりと舐め上げた。
 「──────な」
 「ふむ、なかなかとれんな」
 呂布は軽く舌なめずりをした。そしてもう一度と、顔を寄せる。生ぬるい感触。
 「よし、とれた」
 今度は舐めた頬を己の手で拭った。陳宮は突然の主の行動にものの見事に固まっていたが、じょじょに頭の中で事態を整理すると、わなわなと体を震わせる。それを見ていた胡郎は青くなったり赤くなったりしていた。そして、
 「何をなさいますかあああああっ!!!!」
 大きな雷が一つと鈍い音が一つ。


 ────後に兵士たちの前に現れた呂布の頬に赤い痣があったことに一同は驚きを隠せなかった。







胡郎は北方三国に出てくる呂布さんの従者の少年です。赤兎の面倒も見る。
陳宮は無双呂布さんと同じくらいの年齢でイメージしております。というか、曹操が『我が子のように』厚遇していたそうなので、曹操と同年代だったら、『我が子』という表現はしないよなぁと思いまして。それくらい仲がいいというのなら、『兄弟』でもいいんじゃないかと。
しかしおっさん陳宮ももちろんOKです。

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